室町時代になると、足利将軍家による技芸に秀でた人々を集める「同朋衆」(どうぼうしゅう)政策などの影響もあり、日本刀制作の分業化・専業化が進みました。従来、刀装(とうそう)金具については、すべて下地から制作されていましたが、下地作りは「白銀師」(しろがねし)が行ない「鍔」(つば)については「鍔師」(つばし)が、そして彫刻(金工)については彫刻の専門家が行なうようになっていったのです。ここでは、刀装具を制作する職人、及び「金工師」(きんこうし)の名工についてご紹介します。
分業化・専業化が進んだ刀装具制作。これに従事する職人は、大まかに5つのジャンルに分けることができると言えます。それが「金工師」(きんこうし)、「白銀師」(しろがねし)、「鞘師」(さやし)、「塗師」(ぬし)、「柄巻師」(つかまきし)、「鍔師」(つばし)です。
笄・小柄
金工師は刀装に用いる金具全般を加工(彫刻)する職人です。その元祖は室町時代の「後藤祐乗」(ごとうゆうじょう)であると言われており、祐乗を祖とする「後藤家」はときの権力者の庇護を受けて、作品を制作。室町時代から江戸時代を通して、刀装彫刻界の頂点に君臨していました。
戦国乱世が終わり、天下泰平の世の中になると日本刀は武器ではなく武士の身分や権威の象徴となったことで、刀装具にも趣向を凝らすように。
その結果、武士達は鍔をはじめとして「笄」(こうがい)、「小柄」(こづか)、「縁」(ふち)、「頭」(かしら)など金属を用いている部分に彫刻などを施して装飾することで、他者との差別化を図ったのです。
刀装具彫刻が一気に花開いた江戸時代には、後藤家以外の流派も台頭します。これらの流派については、権力者のお抱えとして活動していた後藤家(=家彫り:いえぼり)とは対照的に、在野(民間)で活動していたことから「町彫り」(まちぼり)と呼ばれていました。「横谷宗珉」(よこやそうみん)が始祖と言われる町彫りの特徴は図柄が写実的(絵画的)であること。
すなわち、後藤家による作品の図柄が、必ずしも写実的であるとは言えなかったのに対し、町彫りの金工師の作品は片刃の「片切り鏨」(かたきりたがね)を自在に操ることで、あたかも筆で描いたかのような抑揚の効いた線を引くことを実現し、絵画のようなできばえの作品を作り出したのです。
白銀師は、刀装具に用いる金属の下地制作を担っていましたが、その最も重要な仕事は「鎺」を制作すること。
鎺は刀身を固定して「鞘」(さや)から抜け落ちることを防止すると共に、しっかりと鞘に収めるための金具で、刀装金具の中で最も重要な役割を担っていると言っても過言ではありません。
刀身が鞘に触れることなく宙に浮いた状態を保持することで、刀身が傷つくのを防ぐのと同時に刀身を鞘からスムーズに抜くことが可能になります。
言わば、日本刀の武器としての役割も美術品としての価値も鎺に依存していると言えるのです。
日本刀は、1振1振が異なる個性を有する物であり、すべて同じ物は存在しておらず、鎺についても、その個性にぴったりと合う物を制作することが必要になります。また、鎺は刀身の延長であるとも言えることから、それ自体でも鑑賞の対象。
そして、上述したように鎺の存在意義が刀身を安定させると共に鞘からスムーズに抜くことにあることから、刀装具制作の中心であると言えます。すなわち、鎺のできが刀装具のできを左右するとも言え、白銀師には熟練の技術が要求されます。
このように、鎺の制作には技術的な高い水準の物が要求され、繊細な作業となるため鎺を完成させるためには、かなりの時間を要するのです。
塗師は武士が外出するときに、日本刀の刀身を収める拵(鞘)に漆などを塗っていく作業を行なう職人。鞘を丈夫で美しく仕上げるために、漆などを薄く何層にも塗り重ねていきます。一般的な制作にかかる所要期間は2~3ヵ月。このように手間をかけて塗り固めていくことで、強度のある美しい鞘ができ上がるのです。
刀装具文化が本格的に花開いた江戸時代において、その中心は刀装彫刻、すなわち「金工」にあったと言えます。幕府などの権力者の庇護を受けていた後藤家による家彫りや、在野の金工師による町彫りなど金工技術は大きく発展しました。
「後藤一乗」(ごとういちじょう)は、幕末から明治時代にかけて活動していた金工師で、室町時代から続いた名門後藤家の最後を飾った名工として知られています。
一乗は、とかく形式主義に陥りがちだった後藤家において、絵画的手法を取り入れるなど、新しい風を吹き込みました。この背景には一乗自身が風流を好む文化人だったことがあったのです。
「一宮長常」(いちのみやながつね)は、江戸時代中期に京都で活動していた金工師。その特徴は、刀装金具に写実的な模様を彫った点にあります。「鋤彫り」(すきぼり)、「肉合彫り」(ししあいぼり)、「片切り彫り」(かたぎりぼり)などの手法を織り交ぜて独自の境地を切り開いた長常は、同時期に江戸で活動していた横谷宗眠と並び称された名工です。
「津尋甫」(つじんぽ)は、江戸時代中期に江戸で活動していた金工師。阿波徳島藩お抱えの金工師「野村正道」の門人で「野村派」の中で一番の名工と評価されていました。花鳥や植物を図柄にした「縁頭」(ふちがしら)、小柄などの作品を数多く制作しています。
「加納夏雄」(かのうなつお)は、江戸時代末期から明治時代にかけて活動していた金工師で、明治維新後は「明治天皇」の太刀飾りの制作を担当。
晩年には「東京美術学校」(現在の東京芸術大学)の教授に就任し「帝室技芸員」(ていしつぎげいいん)に選出されるなど、明治時代を代表する刀装金工師です。