甲冑(鎧兜)と武将
関ヶ原の個性的な甲冑対決(東軍)③
甲冑(鎧兜)と武将
関ヶ原の個性的な甲冑対決(東軍)③

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「徳川家康」が日本の天下人となることを決定付けた「関ヶ原の戦い」。その際に家康の「東軍」に属することをいち早く決めた武将達は、「先見の明」に優れていたと言えます。その決断の一助となっていたのは、彼らが持って生まれた性格や気質のみならず、身に付けてきた文化や教養を素地とした知性に富んでいたことにあったのかもしれません。そして、そんな武将達の個性は、彼らが戦の際に身に付けていた甲冑(鎧兜)にも現れていました。ここでは、関ヶ原において、武力はもちろん自身の知略を巡らせて東軍の勝利に貢献した4人の武将の生涯と、彼らが所用していた甲冑(鎧兜)についてご紹介します。

千利休直伝の茶人、細川忠興の甲冑

細川家・お家流甲冑の基礎となった越中具足

明智光秀」(あけちみつひで)の娘である「玉」(たま:洗礼名は「ガラシャ」)を正室とした「細川忠興[三斎]」(ほそかわただおき[さんさい])。父「細川藤孝[幽斎]」(ほそかわふじたか[ゆうさい])と共に文武両道の武将であり、数々の戦で活躍しながら、和歌や茶の湯などの文化にも親しんでいました。「千利休」(せんのりきゅう)の高弟で、三斎流茶道の開祖としても知られています。

繊細な感性の持ち主であったことが想像される忠興の甲冑(鎧兜)は「黒糸縅二枚胴具足」(くろいとおどしにまいどうぐそく)です。いくつもの戦を経て改良が重ねられており、全体的に黒を基調とし、虚飾がなく実用性を重視しています。装飾らしい物と言えば、兜の頭上に伸びた立物(たてもの)であるヤマドリの尾。実用性を考慮し、軽量であったキジ科の鳥類であるヤマドリを選んだと考えられているのです。

また、この長い装飾は、戦場で木の枝などに引っかかった場合でもすぐに尾が折れ、不便のないよう設計されていました。このような兜のヤマドリの尾のみならず、甲冑(鎧兜)においては従来の物よりも軽量化され、動きやすさに重点が置かれた実用性の高さは、細川家のお家流となり、のちの当主の甲冑(鎧兜)にも受け継がれ、他藩からは「三斎流具足[越中流具足]」(さんさいりゅうぐそく[えっちゅうりゅうぐそく])などと呼ばれたのです。

明智光秀との縁故と拒絶

1563年(永禄6年)、忠興は戦国きってのインテリ武将・細川藤孝(幽斎)の長男として誕生します。忠興が生まれる以前、細川家は足利家に仕えていましたが、「足利義昭」(あしかがよしあき)と「織田信長」(おだのぶなが)の関係が悪化すると、藤孝は信長を主君とし長岡氏(ながおかし)と改名しました。

明智光秀

明智光秀

1577年(天正5年)に初陣を飾った忠興は、1578年(天正6年)に元服。その翌年、17歳の頃に明智光秀の娘・玉との縁談話が持ち上がったのです。一説には、この縁談は織田信長による地盤固めのための政略結婚と言われています。

玉を正室として迎え、光秀と義理の親子関係になった忠興。しかし、1582年(天正10年)に「本能寺の変」(ほんのうじのへん)の知らせを受けると父・藤孝と共に、すぐに剃髪して喪に服します。そして忠興は、逆臣の娘となってしまった妻・ガラシャを幽閉し、彼女とは離縁。光秀との縁を絶った細川家は、「羽柴[豊臣]秀吉」(はしば[とよとみ]ひでよし)との連絡を、密に取るようになりました。

秀吉が光秀を討つことになる「山崎の戦い」(やまざきのたたかい)では、光秀から何度も加勢要請をされるも断固拒否。縁故より主従関係を優先させたのか、あくまでも中立の立場であることを貫いたのです。藤孝・忠興父子の「光秀に味方しない」という明確な意思表示は、どちらに付くか迷っていた他の諸侯達にも影響を与えたとされています。

山崎の戦いのあと、光秀の縁者であった諸侯は秀吉から密通を疑われましたが、細川家は秀吉のもとで地位を高めていきます。そののち、忠興は20歳の頃に細川家の家督を継ぎ、青年武将として活躍。1584年(天正12年)、覇権を握った秀吉から許しが出て、幽閉状態であった正室の玉を細川家の屋敷へと戻しました。

石田三成

石田三成

秀吉が亡くなると、「石田三成」(いしだみつなり)と対立していた忠興は、いち早く徳川家康へと味方。

このときも、忠興の素早い行動と明確な意思表示は、諸侯達に影響を与えたとされており、忠興の判断力は父親ゆずりの明晰さが感じられます。

関ヶ原の戦い直前に起きた事件と戦

関ヶ原の戦いが起きる直前、忠興は家康にしたがって「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)の討伐に参加するため、大坂の屋敷を留守にすることに。当時、大坂城周囲には大名達の屋敷があり、生前の秀吉の命で自身の妻を住まわせていました。

そこで三成は、家康側の武将達の妻を人質に取って味方を増やす作戦を考え、忠興が留守の細川邸を狙います。ところが、忠興は事前に「人質とならず、全員切腹せよ」と命じていたため、忠興の正室・玉は人質を拒んで自ら死を選び、家臣の手で絶命。人質作戦は失敗に終わりました。関ヶ原の戦いで、忠興は「黒田長政」(くろだながまさ)らと共に、三成の本隊と激突。胸中には並々ならぬ想いがあったのでしょうか。忠興は100を超える首級を挙げたと伝えられています。

関ヶ原の戦い本戦の直前、細川家にとって重要な戦が、もうひとつありました。忠興が治めていた丹後国(たんごのくに:現在の京都府北部)へ、西軍が押し寄せたのです。忠興から留守を任された父・藤孝は、西軍の優勢が続くも田辺城(たなべじょう:現在の京都府舞鶴市)に籠城し続け事態は思わぬ展開を見せます。

藤孝は宮中で伝統が絶えた「古今和歌集」(こきんわかしゅう)の解釈を、口伝にて引き継ぐ「古今伝授」を唯一受けた者でした。そのため、藤孝の討死により伝承者がいなくなることを恐れた天皇が、勅命を下して西軍を退かせ、50日以上続いた攻防戦が収束したのです。田辺城は、いっとき西軍側へ渡るも、開城から2日後に関ヶ原の戦いがあり、しばらくして再び忠興が入城したと伝わっています。

忠興は父と同じく教養人であり、和歌や茶の湯の席などを通して、文化人や大名、公卿との交流も盛んだったと言われています。おそらく情報網も広く、情報戦にも長けていたと考えられるのです。教養があり大局を見る目があった忠興だからこそ、ときの権力者に仕え、戦場で思いきり動ける、実用的な甲冑(鎧兜)を作ることができたのかもしれません。

※2018年(平成30年)現在、黒糸縅二枚胴具足は、「永青文庫」(えいせいぶんこ:東京都文京区)が所蔵、「熊本県立美術館」で保管されています。

SF映画のモデルにもなった、伊達政宗の甲冑

三日月が付いた兜は今や政宗のトレードマーク

伊達政宗

伊達政宗

奥州(おうしゅう:福島県宮城県岩手県青森県秋田県北東部)の「独眼竜」(どくがんりゅう)として、戦国時代から江戸時代初期まで生き抜き、仙台藩(せんだいはん:現在の宮城県仙台市)を立藩した「伊達政宗」(だてまさむね)は、最後の戦国武将として高い人気があります。

派手好きとスタイルの良さから「伊達男」の由来にもなった政宗ですが、戦場で身に付けた甲冑(鎧兜)も、男意気が感じられる出で立ちだったのです。

政宗の具足でもっとも有名な物は「黒漆五枚胴具足」(くろうるしごまいどうぐそく)。鉄板の黒漆塗で統一した兜と甲冑(鎧兜)、そして、ひときわ目立つ金箔の三日月の前立(まえだて)。まさに政宗のシンボルとも言える個性的なスタイルです。ちなみに、伊達家当主の2代目以降、及びその家臣の兜は弦月(半月)形の前立に変わっています。

三日月形の立物

三日月形の立物

兜は鉄地黒漆塗六十二間(ろくじゅうにけん)の筋兜(すじかぶと)、胴も同じく鉄地の黒漆塗で、五枚胴は「雪ノ下胴」(ゆきのしたどう)と呼ばれる仙台独自の形式です。前立は三日月をモチーフにしていますが、片側が短く左右非対称となっているのには理由があります。それは、デザイン的なこだわりと、太刀を振りかざすときに邪魔にならないよう配慮したためと考えられているのです。

政宗は三日月の兜とは別に、鉄地黒漆塗六十二間の筋兜をもうひとつ所用していました。それは、「大日如来梵字大輪貫前立兜」(だいにちにょらいぼんじおおわぬきまえだてかぶと)。この兜の前立は、金箔の輪貫に仏教の梵字を施しているのが特徴で、三日月兜とは、また異なったイメージです。

大きな輪貫の中に5文字の梵字が縦に並ぶこの前立は、大日如来の真言(しんごん:密教における仏の真実の言葉。また、その呪術に用いる秘密の言葉)を象った物。1文字だけの梵字を前立として付けた兜は多く見られますが、真言そのものを、そのまま前立に使う物は極めて稀と言えます。また、この兜の内側には「伊勢天照大神」(いせあまてらすおおみかみ)など5柱の神号(しんごう:神の尊称)が刻まれ、政宗の信仰心の厚さを物語っているのです。

派手なパフォーマンスに見る処世術

政宗は1567年(永禄10年)に、出羽国の(山形県、北東部を除く秋田県)米沢城(よねざわじょう:現在の山形県米沢市)で誕生しましたが、幼少時に疱瘡(ほうそう)を患い、右目を失明してしまいます。これ以降、右目を隠すようになり、戦では眼帯をして戦場を暴れ回ったことから、独眼竜という異名を持つようになりました。

1581年(天正9年)、15歳の頃に隣国の相馬氏(そうまし)との戦いで初陣を飾り、18歳で伊達家の家督を継いだあとは勢力を拡大し、着々と奥州の国を支配下に治めていきます。

小田原城

小田原城

豊臣秀吉」(とよとみひでよし)が小田原城(おだわらじょう:現在の神奈川県小田原市)攻めを敢行するときの政宗は、父の時代から同盟関係にあった北条氏(ほうじょうし)に付くか、天下統一を進める秀吉に付くか迷いましたが、最終的には秀吉側に付き服属を誓いました。

秀吉との対面時に、政宗は死者が身にまとう白装束で現れ、「死ぬ覚悟で忠誠を尽くす」という意志を示したとされています。どちらに加勢するのか返事が遅れていた政宗に対して怒りをあらわにしていた秀吉でしたが、これにより政宗を許したのです。

豊臣政権下では、最初の朝鮮出兵となった「文禄の役」(ぶんろくのえき)のときには、絢爛豪華な戦闘服の隊列で従軍したとあり、たびたび周囲を驚かすパフォーマンスをしています。その一方で、和歌や能にも精通しており、文化面でも高い才能を発揮する他、料理にも深く興味を持っていたと伝えられているのです。

秀吉が亡きあとは、家康との関係を親密にした政宗。1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは東軍に付いて上杉軍を討ち破りました。翌年には、岩出山城(いわでやまじょう:現在の宮城県大崎市)から仙台城に居城を移し、仙台藩を立藩。外国との交易を行なうなど、藩の経済を活性化させています。

晩年は、領地の開発を積極的に進めて国力の強化を図ると共に、徳川家には第3代将軍・家光(いえみつ)まで仕え、70歳でその激しい生涯を閉じました。

広く神の加護を願った政宗の信仰心

独眼竜と黒ずくめの戦陣スタイルで伊達男の由来となり、秀吉との白装束での対面など、派手なパフォーマンスによる多くのエピソードで、どこか「破天荒」なイメージのある政宗。その一方で、信仰心が厚く常に神仏を崇めていました。

政宗は幼少期から、父・輝宗(てるむね/てりむね)が招聘した「虎哉宗乙」(こさいそういつ)という僧侶のもとで学問に励み、生涯にわたって宗乙を師と仰いでいます。その教えの中から、人一倍の信仰心を育んでいったと考えられるのです。三日月の兜と梵字の真言の兜も、自らの信仰を形にした物。戦場で身に付けることにより、神仏からの加護を願ったのです。

世の中が平穏になりつつあった江戸時代初期、政宗は岩出山城下から仙台に居城を移して城下町を構えます。このときに、郷土のために神社や寺も移し、社なども新たに建設しました。

瑞巌寺

瑞巌寺

また、仙台城の築城と同時に、松島の瑞巌寺(ずいがんじ)の再建も着手しています。瑞巌寺は、9世紀頃に創建された古寺ですが、安土桃山時代には、すっかり荒れ果てており、その姿を見た政宗は設計にも直接かかわるなど、自ら再建に向けて指揮を執りました。

政宗は、神の加護を自身にだけ求めたのではなく、軍勢または国全体に行き渡るようにと、広い心で考えていたのです。この志は江戸時代を通して後世にも受け継がれていきました。

※2018年(平成30年)現在、黒漆五枚胴具足は「仙台市博物館」に収蔵されています。

※2018年(平成30年)現在、大日如来梵字大輪貫前立兜は「駒形神社」(こまがたじんじゃ:岩手県奥州市)に収蔵されています。

渡り鳥のような、藤堂高虎の甲冑

秀吉から拝領したユニークな兜

藤堂高虎

藤堂高虎

戦国時代から江戸時代初期まで活躍した「藤堂高虎」(とうどうたかとら)。その高虎が身に付けた兜は、「黒漆塗唐冠形兜」(くろうるしぬりとうかんなりかぶと)と呼ばれる、ユニークな形の兜です。

安土桃山時代には、中国の官僚や貴族が被っていた冠(こうぶり)に似せた唐冠の兜が流行し、この兜もその部類に入ります。特徴的なのは、後方中央から左右に伸びたプロペラのような羽です。これは「纓」(えい)と呼ばれる物で、もともとは顎の下で結ぶ紐でしたが、のちに、冠の後ろに付ける細長いリボンのような形へと変化しました。高虎の兜の纓は、片側で長さ90cm近くもあり遠くからでもかなり目立ちます。

黒漆塗唐冠形兜

黒漆塗唐冠形兜

実はこの兜、高虎自身が作らせた訳でなく、豊臣秀吉から拝領したと伝わる物。戦国武将の平均身長は150~160cmと言われていますが、高虎は約190cmの大男。そのため、横に人が並んでも、左右に伸びた兜の纓は邪魔にならず、むしろ大男である高虎の迫力を増幅させる効果もあったのです。

また、能楽では大きな纓の唐冠は鬼神や荒神が身に付ける物とされているので、強さを誇示する意味も込められていたと考えられます。

8人の主君に仕えながら自力で出世

高虎は、1556年(弘治2年)に近江国藤堂村(おうみのくに・とうどうむら:現在の滋賀県犬上郡)に生まれました。最初に「浅井長政」(あざいながまさ)に仕え、1570年(元亀元年)に、浅井・朝倉(あさくら)の連合軍と織田・徳川の連合軍が戦った、「姉川の戦い」(あねがわのたたかい)で初陣を飾り、見事に首級を取って賞賛されます。

しかし、この合戦後に浅井氏が衰退し、織田信長により滅亡させられると、高虎は主君を失うことになったのです。このあと、高虎は数々の主君に仕えるも長続きせず、流浪の生活を送ることになりました。

21歳の頃に豊臣秀吉の弟・秀長(ひでなが)に仕え、中国征伐や「賤ヶ岳の戦い」(しずがだけのたたかい)などに参戦。これらの戦で武功を挙げたことで、秀吉からも信頼を得て聚楽第(じゅらくだい/じゅらくてい)の建設にも携わることになります。

宇和島城

宇和島城

1591年(天正19年)に秀長が病気で死去したあとは、秀長の婿養子「豊臣秀保」(とよとみひでやす)に仕え、文禄の役、慶長の役(けいちょうのえき)と2度の朝鮮出兵にも参戦しました。特に慶長の役では、水軍を率いて相手の水軍を全滅させる大手柄を立てています。この頃には、伊予国板島(いよのくに・いたじま)の大名にまで出世し、宇和島城(うわじまじょう:現在の愛媛県宇和島市)を築城しています。

ちなみに高虎は、「加藤清正」(かとうきよまさ)や「黒田官兵衛」(くろだかんべえ)と並んで築城の名人と称されていました。実際に宇和島城をはじめ、伊賀上野城(いがうえのじょう:現在の三重県伊賀市)や津城(つじょう:現在の三重県津市)など、多くの城の建築や改修にかかわると共に、城下町の建設や整備により現代都市の基盤も築いています。

秀吉が亡くなると高虎は徳川家康との親交を深め、関ヶ原の戦いでは家康側に付いて武力を発揮。さらに「脇坂安治」(わきざかやすはる)など、西軍の武将を調略(ちょうりゃく:敵に策略を巡らせて内通させるなど、政治的工作を行なうこと)して味方を増やし、東軍の勝利に大きく貢献しました。

また、1615年(慶長20年)の「大坂夏の陣」で高虎は、豊臣軍である「長宗我部盛親」(ちょうそかべもりちか)の部隊と死闘を繰り広げています。そして、大坂の陣の決着後、家康はその武功を称えて「国に大事があるときは、高虎を一番手とせよ」と話したと伝わっているのです。

家康の死後は、第2代将軍・秀忠(ひでただ)、さらに第3代将軍・家光(いえみつ)に仕え、将軍の相談役として徳川幕府を陰で支えました。最終的に高虎は、伊勢、及び津32万石の大名にまで出世しています。名のある血筋を持たない武将であった高虎が、自力でその地位まで上がったことは異例なことであったと言えるのです。

それぞれの主君への忠義と家臣の保護を徹底した人情家

高虎は、8人の主君に仕えたとされる転職派。8人に仕えたという点だけ見ると、自分に有利な方へ付く風見鶏のような印象を受けますが、下剋上や裏切りも多かった戦国の世にありながらも、主君に対しては忠義を尽くし、礼節をわきまえた武将であったと伝えられています。

最初に仕えた浅井家は織田信長によって滅亡。その後は、浅井家にゆかりのある武将や信長の甥「織田信澄」(おだのぶずみ)に仕えました。このときは長続きしませんでしたが、それは働きのわりに、主君である信澄からの評価が低かったことも理由にあったとされています。

その後、豊臣秀長の家臣になると、高虎は獅子奮迅の働きで頭角を現し、秀吉からも評価を受けて天下統一に大きく貢献。そして、徳川家康の家臣になったときには、関ヶ原の戦いや大坂夏の陣で功績を挙げ、家康から高い信頼を得ています。若い頃には、主君に恵まれなかった高虎も、のちに自身の能力を発揮できる主君と出会い、その忠義を尽くしたのです。

また高虎は、それぞれの主君を大切にしただけでなく、家臣も大切にする人情味あふれる人物でした。自分が死んだ場合も殉死を禁止。さらには、高虎から1度離れた家臣が再び戻ってきた場合も、温かく迎えて大事にしたと言われています。秀吉から拝領した黒漆塗唐冠形兜を、高虎の重臣「藤堂良重」(とうどうよししげ)に与えたことも、その高虎の人柄をよく表すできごとのひとつです。

良重は、大坂夏の陣にこの兜を被って出陣しますが、あまりに目立つ兜であったため、豊臣勢から藤堂高虎と間違われ、攻撃を受けてしまいます。瀕死の重傷を負った良重でしたが、主君から賜った兜を気遣いながら命を落としました。これを聞いた高虎は、「手柄の討死」と良重を賞賛。そして、残された家族に褒美を与えたのです。この兜にまつわる逸話から、高虎と良重の絆の強さを感じ取ることができます。

※2018年(平成30年)現在、黒漆塗唐冠形兜は伊賀市が所蔵、「伊賀上野城」で保管されています。

これぞ日本の象徴、加藤嘉明の甲冑

富士山を象った重厚な兜は、意外にも軽量だった

「加藤嘉明」(かとうよしあきら/よしあき)は、豊臣秀吉や徳川家康に仕えた武将で、槍の名手として知られています。その嘉明が所用した兜は「銀泥塗富士山形張懸兜」(ぎんでいぬりふじさんなりはりかけかぶと)と呼ばれる物です。

富士山形兜

富士山形兜

円錐形を張懸(和紙などを張り合わせ、強度を保つために上から漆を塗る技法)にした頭形鉢(ずなりばち)に、さらに革で富士山の形を張懸けたデザインは、シンプルでありがら、かなり個性的。全体的に鉄のような重厚感がある見た目ですが、軽量で実戦向きだったと考えられています。

ある武将がこの兜を見て、さぞ重かろうと腰を落として力一杯持ち上げようとしたところ、あまりの軽さに、派手にひっくり返ったという逸話も残っているほどです。この兜は、のちに嘉明の嫡男である明成(あきなり)に譲られました。

嘉明はこの兜の他に、頭巾形で左右の脇立(わきだて)に鳥の羽を束ねた「角頭巾形鳥尾飾兜」(すみずきんなりとりおかざりかぶと)と、「漆塗佛胴六間草摺素懸縅鎧」(うるしぬりぶつどうろっけんくさずりすがけおどしよろい)を身に付けていた時期もありました。この時代の武将が様々な甲冑(鎧兜)を所用したように、嘉明もまたいくつか所用していたのです。

地上戦と海上戦のどちらにも武勇を極める

嘉明は1563年(永禄6年)、三河国幡豆郡(みかわのくにはずぐん:現在の愛知県西尾市)で誕生。しかし、その年に起こった「三河一向一揆」(みかわいっこういっき)に父親が属し、徳川家康に楯突いたため一揆が終息してからは流浪人となりました。そして嘉明も、生後間もない時期に放浪生活を送ることになります。

柴田勝家

柴田勝家

そののち、父親が近江国で長浜城(ながはまじょう:現在の滋賀県長浜市)主だった羽柴(豊臣)秀吉に仕え、嘉明も秀吉の養子である「羽柴秀勝」(はしばひでかつ)の小姓として仕えることになりました。そして嘉明は、秀勝のもとで秀吉の戦にも参戦し「柴田勝家」(しばたかついえ)との賤ヶ岳の戦いでは、得意の槍で功績を挙げたことから「賤ヶ岳の七本槍」(しずがだけのしちほんやり)のひとりに数えられたのです。

また、四国征伐、九州征伐、そして小田原城攻めでは、淡路水軍(あわじすいぐん)を率いて攻撃を行ない、地上戦だけでなく海上戦でも力を発揮しています。水軍での嘉明の功績は、秀吉に高く評価され、朝鮮出兵にも淡路水軍を率いて戦いました。

秀吉亡きあとは、石田三成をはじめとする文治派と対立。豊臣家から離れ、関ヶ原の戦いでは東軍として参戦し武功を挙げます。関ヶ原の功績により、藤堂高虎と共に伊予国の大名となった嘉明は、1603年(慶長8年)、勝山(かつやま:現在の愛媛県松山市)に居城を建築し勝山を松山に改名しました。

そして、大坂冬の陣・夏の陣を経て、徳川家康により豊臣家が滅ぼされたあとには、徳川家の重臣となり第3代将軍・家光の代まで仕えています。1627年(寛永4年)に会津藩(あいづはん:現在の福島県会津若松市)へ移封され、その4年後、69歳でこの世を去りました。

負けず嫌いが藤堂高虎とのライバル心に火を付けた

嘉明と高虎は関ヶ原の戦いのあと、同じ伊予国を治めますが不仲だったとされています。不仲になった発端は、慶長の役での戦功をめぐる争いでした。高虎の功績が認められたにもかかわらず、嘉明はこれに異を唱えて自分の武功が1番であることを主張したためです。これにより犬猿の仲となった2人ですが、嘉明の負けず嫌いの性格を伝える逸話でもあります。

また、嘉明は与えられた伊予国内における領地の石高が、高虎より低いことにも不満を持っていました。相変わらず不仲は続き、嘉明が松山城を築城すると高虎は今治城(いまばりじょう:現在の愛媛県今治市)を築くなど、お互いに何かと張り合っていました。

やがて徳川家光の時代に、会津藩第2代藩主「蒲生忠郷」(がもうたださと)の死去により、嘉明は会津藩へ移封されます。その結果、43万石以上に加増されますが、これを推挙したのが高虎だったのです。会津藩は北方の要所であり、本来家光は高虎を会津へ移封することを考えていました。しかし、高虎は自分より嘉明が適任であることを家光に告げたのです。高虎が推挙した話を聞いた嘉明は高虎と仲直りし、無二の親友になったと言われています。

嘉明と高虎が仲違いをしていたのには、嘉明の負けず嫌いな性格によるところもありました。しかし、それは争いの絶えない戦国の世の中で、苦労を重ねてきた嘉明の生きる術であったとも推察されます。嘉明は高虎をはじめ、他の武将達よりも抜きん出ることを考えていたのです。嘉明が兜に富士山を象ったのも、誰にも負けず自分が1番になろうとする気持ちの表れだったのかも知れません。

※2018年(平成30年)現在、銀泥塗富士山形張懸兜は、「靖国神社遊就館」(やすくにじんじゃ・ゆうしゅうかん)が所蔵しています。

※2018年(平成30年)現在、角頭巾形鳥尾飾兜、及び漆塗佛胴六間草摺素懸縅鎧は、松山城が所蔵しています。

関ヶ原の個性的な甲冑対決(東軍)③

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関ヶ原の個性的な甲冑対決(東軍)①

関ヶ原の個性的な甲冑対決(東軍)①
「徳川家康」を率いる「東軍」が勝利を収めたのは、家康が見事な采配を取ったのはもちろんのこと、「武官派」としてその名を轟かせた家臣団が付き従っていたことが、その大きな要因でした。ここでは家康を含め、そのような家臣団の中でも「最強」と評されていた「本多忠勝」(ほんだただかつ)と「井伊直政」(いいなおまさ)について、その強さの秘密を甲冑を通して見ていきます。

関ヶ原の個性的な甲冑対決(東軍)①

関ヶ原の個性的な甲冑対決(東軍)②

関ヶ原の個性的な甲冑対決(東軍)②
「関ヶ原の戦い」の「東軍」には、家康を勝利に導くため忠義の限りを尽くした「名将」達がいました。しかし、名将と称される武将は周囲を圧倒するような個性を持っているもの。それを戦場でもアピールし強さを自己演出するため、彼らは甲冑(鎧兜)に様々な装飾を施していたのです。特に兜には遠くからでもその存在を示すことができるように、奇抜な意匠が用いられた「変わり兜」が多く見られます。ここでは、関ヶ原で大いに武功を挙げた東軍の4人の武将が身に付けていた変わり兜を中心に、それぞれの甲冑(鎧兜)に込められた思いやエピソードを、甲冑(鎧兜)を通して見ていきます。

関ヶ原の個性的な甲冑対決(東軍)②

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