名家に代々伝えられた日本刀

足利家剣豪将軍の愛刀 基近造

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「足利尊氏」(あしかがたかうじ)でお馴染みの足利将軍家は、もともと清和源氏(せいわげんじ)の流れをくむ河内(かわち:現在の大阪府)源氏の名門武家。尊氏は、鎌倉幕府を滅ぼし室町幕府を開いた「足利将軍家の祖」として足利家を繁栄させました。しかし、戦乱の世で室町幕府将軍を務めた歴代当主達は、そのほとんどが華々しい将軍生活とはほど遠い人生を歩んでいたのです。今回は、室町幕府第13代将軍「義輝」(よしてる)と愛刀「基近造」(もとちかつくる)と共に、足利将軍家誕生までの道のりをご紹介します。

足利将軍家誕生までの歴史

足利家当主となった尊氏と討幕運動

後醍醐天皇

後醍醐天皇

1305年(嘉元3年)、鎌倉幕府の御家人だった「足利貞氏」(あしかがさだうじ)の次男として生まれた足利尊氏

出生した場所は、足利氏の本貫地(ほんがんち:一族発祥の地)である下野国足利(しもつけのくにあしかが:現在の栃木県足利市)だと言われていましたが、近年では母「上杉清子」(うえすぎきよこ)の上杉氏の本貫地である丹波国何鹿郡八田郷上杉荘(たんばのくにいかるがぐんやたごううえすぎのしょう:現在の京都府綾部市上杉町)が出生地ではないかと考えられています。

尊氏が側室の次男だったためか、貞氏の後継である長男が早世してからも、しばらく尊氏は足利家を継ぐことはなく、1331年(元弘元年)に父・貞氏が亡くなって尊氏は27歳でようやく家督を継承しました。

時を同じくして、鎌倉幕府討幕を狙う「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)は「正中の変」(しょうちゅうのへん)に続いて、2度目の討幕運動となる「元弘の乱」(げんこうのらん)を引き起こします。

楠木正成

楠木正成

そこで尊氏は幕府軍の大将として上洛し、「楠木正成」(くすのきまさしげ)率いる反幕府軍と対戦することに。反幕府軍に苦戦を強いられながらも、「笠置山・赤坂城の戦い」に勝利した尊氏は反乱を鎮圧させました。

このとき、尊氏に赤坂城を陥落させられた正成は、なんとか城を抜け出し生き延びています。

鎌倉幕府滅亡から室町幕府成立まで

千早城

千早城

1333年(元弘3年)、廃位となり隠岐に流されていた後醍醐天皇。一方で、潜伏していた正成は、千早城で幕府の大軍相手に交戦していました。この戦いがきっかけで、各地で次第に討幕運動が再燃し、後醍醐天皇も島から脱出して指揮を執ることに。

これを受けて再び幕府軍として上洛した尊氏ですが、丹波国篠村に着くやいなや「幕府を見限る」という驚きの決断を下しました。こうして幕府軍を率いていた尊氏が後醍醐天皇の命を受けて反幕府軍として挙兵すると、この衝撃的なニュースは各地に広がり、討幕へ向けた動きは急激に加速します。

尊氏は、播磨国(はりまのくに:現在の兵庫県)で挙兵していた「赤松則村」(あかまつのりむら)らと共に京都の六波羅探題(ろくはらたんだい)を攻め滅ぼし、およそ2週間後に「新田義貞」(にったよしさだ)率いる反幕府軍が鎌倉を制圧。ついに幕府は滅びることとなりました。鎌倉幕府執権の北条家と強い結び付きがあった尊氏が、まさか裏切るとは北条家も思いもしなかったのでしょう。尊氏の反逆によって鎌倉幕府は消滅し、後醍醐天皇による「建武の新政」(けんむのしんせい)の時代が到来します。

尊氏の名は、もともと「高氏」という表記でしたが、このときの軍功を称えて後醍醐天皇の諱(いみな:本名のこと)から「尊」という字を授かり「尊氏」と改名しました。こうして後醍醐天皇の側近として建武政権を支えていくはずだった尊氏ですが、自ら要職には就かず、次第に後醍醐天皇との関係にも亀裂が入ることに。

北朝を築いた2人

北朝を築いた2人

その後、尊氏は建武政権で失脚した後醍醐天皇と決裂し、後醍醐天皇の次代として即位した「光明天皇」(こうみょうてんのう)と共に京都に北朝を築き上げ、室町幕府初代将軍となったのです。

一方、京都から脱出していた後醍醐天皇は、大和国吉野(やまとのくによしの:現在の奈良県吉野郡)にて自ら朝廷を開き、南朝を創立させました。このようにして、室町幕府の足利将軍家が誕生し、南北朝時代へと突入していくこととなります。

家臣に翻弄される将軍親子の人生とは

第12代将軍「義晴」は情けない父親だった?

足利義政

足利義政

尊氏の功績によって室町幕府将軍を代々務めることとなった足利家ですが、およそ室町幕府230年間で15代に亘って将軍を輩出していながら、日本政治の頂点に君臨していた期間は初代から100年ほどでした。第8代将軍「義政」(よしまさ)の時代には、傾きかけていた足利将軍家の権威は失墜することに。

この決定的な事件が、1467年(応仁元年)に始まった「応仁の乱」(おうにんのらん)。政治に無関心だった将軍・義政の後嗣問題(跡継ぎを誰にするかという問題)に発端して、義政から政治を任されていた「細川氏」(ほそかわし)と「山名氏」(やまなし)の、大名家による勢力争いへと発展した出来事です。11年もの間各地で勢力争いが起こり、この戦乱の中、室町幕府は主戦場となった京都の町と共に荒廃していきました。幕府において将軍という名目は残ったものの、その実態は大名家に操られる人形となってしまったのです。

義政から4代あとの12代将軍義晴(よしはる)は、今回ご紹介する名刀「基近造」の持ち主である「義輝」の父にあたります。この義晴も、当時政権を握っていた「細川高国」(ほそかわたかくに)の権威維持のために将軍に就任した人物で、実権は与えられないままに利用される、まさに「お飾り将軍」という立場にありました。

さらに、高国から家督を奪おうとする「細川晴元」(ほそかわはるもと)や、晴元の家臣でありながら官僚の座を狙う「三好元長」(みよしもとなが)などの勢力に追い込まれるようになり、劣勢になると高国と共に近江(おうみ:現在の滋賀県)に逃げ込み、高国が晴元に敗れると、義晴も晴元と共に京都へ戻り、また身が危うくなると近江に逃げる、といった様子で、将軍時代に出奔と入京を何度も繰り返します。

名ばかり将軍とはいえ、本来家臣である立場の人間に連れまわされるという、情けない将軍人生を送った義晴。そして、そんな義晴を見て育った義輝は、父の人生を教訓に「将軍復権」に向けて奔走するのです。

剣豪と呼ばれた義輝の衝撃的な結末!

足利義輝

足利義輝

1546年(天分15年)、義輝は11歳で義晴のあとを継ぎ13代将軍に就任しました。この頃、細川晴元が政権を握っていましたが、次第に家臣である三好元長の嫡男「長慶」(ながよし)が勢力を伸ばし始め、義輝は晴元と共に京都を追い出されることに。

1552年(天文21年)には、長慶と和睦し再び入京しているのですが、義輝からすれば家臣の家臣にあたる長慶の支配下に置かれるという状況に我慢ならなかったのでしょう。再び長慶と対立関係となり、晴元と結託して長慶を陥没させようとしますが、もはや一大勢力となった長慶相手に義輝が勝つ術はありませんでした。

こうして長慶に敗れた義輝は、しばらく近江に身を隠します。この間、義輝はただ雲隠れしていた訳ではありません。「剣聖」と称えられた「塚原卜伝」(つかはらぼくでん)に弟子入りし、新当流(しんとうりゅう)奥義「一之太刀」(ひとつのたち)を伝授されていたのです。義輝には、もともと素質があったのでしょう。その後「剣豪将軍」と称されるほどに剣術を極めていきました。

剣豪となった義輝ですが、長慶に戦いを挑むことはなく、再び長慶と和睦するかたちで1558年(永禄元年)に京都へ戻ります。なおもまだ長慶による政権は続いていましたが、義輝は水面下で長慶を陥落させる方法を模索し、各地の大名家と交流を図るなど、将軍復権を諦めてはいなかったのです。

しかし、義輝は思わぬかたちで最期を迎えることとなります。長慶の家臣である「松永久秀」(まつながひさひで)は、のちに「戦国一の梟雄」(きょうゆう:悪者)とも言われる悪名高き大名で、将軍復権に努める義輝を消して、自分が実権を握ることを狙っていました。この久秀による裏切りで、義輝は二条城を包囲されてしまうことに。

ここで義輝は、襲い掛かってくる松永軍に対して剣豪として奮闘します。義輝は数々の愛刀を持ち出して畳に突き刺し、敵を次々と斬り倒していったのです。義輝の剣術に圧倒された松永軍は、畳を盾にして四方から一斉に襲い掛かり、ついに義輝を討ち取りました。

こうして義輝は愛刀と血にまみれた壮絶な戦いの末、将軍復権も果たせぬまま儚く散っていったのです。もしかしたら義輝に伝来した基近造も、最期の戦いで剣豪・義輝を奮い立たせた1振だったのかもしれません。

剣豪が愛した日本刀 基近造

剣豪将軍・義輝の愛刀だった基近造は、鎌倉時代に備前国(びぜんのくに:現在の岡山県)で繁栄した刀工集団「福岡一文字派」(ふくおかいちもんじは)の「基近」が鍛えた名刀です。

福岡一文字は、平安時代に「後鳥羽上皇」(ごとばじょうこう)の御番鍛冶(ごばんかじ)を務めたことで知られる古備前派「則宗」(のりむね)が始祖であり、備前長船(おさふね:現在の岡山県瀬戸内市)の南隣に位置する福岡庄(現在の岡山県瀬戸内市)という地域で作刀していたことから、この名称で呼ばれるようになりました。

太刀 銘 基近造

太刀 銘 基近造

時代 鑑定区分 所蔵・伝来
鎌倉時代 重要美術品 足利家伝来→
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕
詳細を見る

作風としては、身幅広めで踏張り(ふんばり)が付いて腰反り高く、猪の首のように詰まった「猪首鋒/猪首切先」(いくびきっさき)が特徴的。

福岡一文字派に見られる鎌倉時代中期の豪壮な太刀姿でありながら、刃文の乱れが表裏ほとんど狂いなく同一であるところに驚きます。基近の技術の結晶とも言える1振、剣豪将軍・義輝も、この美しさに酔いしれていたのではないでしょうか。

足利家剣豪将軍の愛刀 基近造

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京都所司代・板倉家と天秤と称された薙刀

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