戦国武将の中でもトップクラスの人気を誇る「伊達政宗」(だてまさむね)。乱世を駆け上がった猛将というイメージが強い政宗ですが、和歌を詠んだり、茶道を嗜んだりといった文事にも優れた人物で、「豊臣秀吉」に仕えていた頃は優れた歌を詠むことから「鄙(ひな:田舎)の華人」と、諸大名の中で称賛されていたほど。まさに文武両道を極めた武将でした。今回は、そんな政宗の人物像に迫ると共に、政宗の愛刀で奥州伊達家に伝来した「来国俊」(らいくにとし)作の名刀についてご紹介します。
伊達輝宗
1567年(永禄10年)9月5日、伊達家が本拠地としていた出羽国(でわのくに:現在の山形県米沢市)「米沢城」で誕生した伊達政宗。
父・輝宗(てるむね)は、奥州を統括する伊達氏16代当主で、母・義姫(よしひめ)の家系である最上(もがみ)氏は、当時羽州を統括していた大名家だったため、政宗は奥羽の名家から誕生した、いわゆる「サラブレッド」でした。生まれながらにして期待されていた政宗は、儒学者などの侍講を召し抱え、幼い頃から英才教育を受けて育ちました。
両親からの期待に応えるように、幼くして学問や文芸に秀でた一面を見せていた政宗。7歳のときに参加した連歌会では「暮わかぬ月になる夜の道すがら」と発句しており、この頃からすでに歌の才能を発揮していたことがうかがえます。こういった文事に優れた面は、父・輝宗譲り。母・義姫は男勝りな豪傑な性格だったことから、政宗の武事の才能に影響を与えたのではないかと言われています。
秀才として一目を置かれていた少年・政宗にも、ある悩みがありました。それは、幼少期に患った天然痘が原因で右眼を失明し、隻眼(せきがん:片目)であるということ。隻眼に劣等感を抱えていた政宗は、すぐに顔を赤らめてしまうような内向的な性格だったと言われています。
そんなシャイな少年が、のちに奥州の覇者となるきっかけを与えた人物が、政宗が生涯の師と仰ぐ「臨済宗」(りんざいしゅう)の僧侶「虎哉宗乙」(こさいそういつ)。彼は、政宗と同様に隻眼でありながら「独眼竜」 (どくがんりゅう)と称された中国の猛将「李克用」(りこくよう)の例を挙げ、政宗を奮い立たせたのです。
李克用は唐末期の将軍で、全身に黒衣をまとう猛々しい兵士達を率いていたことから「鴉軍」 (あぐん:カラスの軍団)と恐れられていたとか。この教えに感化された政宗は、のちに李克用と同じく黒一色の甲冑(鎧兜)をまとうようになります。宗乙との出会いによって、少年・政宗は、独眼竜として強くなることを決意したのです。
徳川家康
1584年(天正12年)、父・輝宗の隠居により家督を継いで、伊達家第17代当主となった政宗。その後、「豊臣秀吉」に仕えながら数々の戦(いくさ)を経験し、武将としての腕を磨いていきます。秀吉の「小田原征伐」に参陣した政宗は、奥州内で58万石を拝領し、本拠としていた米沢から陸奥国玉造郡(むつのくにたまつくりぐん:現在の宮城県大崎市)に移り、奥州を治めていくことになりました。
秀吉の死後、戦国の世は次第に「徳川家康」の時代へ。当時33歳の政宗は、天下を取る家康との関係を深めようと、長女「五郎八姫」(いろはひめ)と家康の6男「松平忠輝」(まつだいらただてる)を婚約させました。
こうして徳川家の家臣となった政宗は、1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」において「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)討伐に参陣します。この戦いで、政宗は家康から「百万石のお墨付」と呼ばれる書状を受領。これは上杉景勝の領地およそ50万石を政宗に与える約束が記された文書で、政宗の既存の領地と合わせて100万石になることから、こう呼ばれることとなりました。
しかし、政宗は家康の目を盗んで自領拡大を企み、一揆を煽動(せんどう:人の気持ちを煽って行動するように仕向けること)していたため、この百万石のお墨付も破棄となり、政宗の領地はわずか2万石が加増されるだけとなってしまったのです。
白石城
政宗は仙台藩初代藩主となり、62万石を誇る奥州のトップとして統治していきました。
仙台藩には大名クラスの家臣が数人おり、政宗の近習(きんじゅ)を務めた「片倉景綱」(かたくらかげつな)、通称・小十郎(こじゅうろう)に至っては「白石城」(しろいしじょう)という居城を拝領していたほど。
父・輝宗の代から仕えていた小十郎に対して、政宗が厚い信頼を寄せていたことがうかがえます。白石城は、その後も代々片倉家が城主を務めました。
仙台藩主として大きな力を持つようになった政宗の前に、再び大きな影響を与える人物が現れます。フランシスコ会の宣教師「ルイス・ソテロ」と、スペイン使節「セバスチャン・ビスカイノ」です。この2人は同時代に来日して政宗と出会い、ソテロは政宗の知遇を得て奥州でキリシタンの布教活動を始めました。政宗は、この2人のスペイン人と出会ったことで世界を知り、奥州に留まらず世界に向けて行動したいという衝動に駆られるように。
ルイス・ソテロ
一方、宣教師・ソテロは奥州布教活動の末に自治国を建立するという野望を抱いていました。もちろん、家康はこういった事態になることを避けるために、キリシタンの布教活動を禁止しており、友好的な対応をしながらも、スペインとの間で国家的な外交を行ないませんでした。
しかし、政宗はこのソテロの野望を知った上で、家康にソテロの布教活動の許しを請います。さらに1613年(慶長18年)には、「慶長遣欧使節」(けいちょうけんおうしせつ)を欧州へ派遣することを実現させたのです。
ソテロと共に、慶長遣欧使節団としてスペインへ渡った「支倉常長」(はせくらつねなが)は、エスパーニャ(スペイン)国王「フェリペ3世」に拝謁し、さらにその後、ローマ法王「パウロ5世」に拝謁した際、政宗から預かった親書を手渡します。しかし通商交渉は失敗に終わり、常長は1620年(元和8年)に帰国。はるばるスペインやローマを訪れた常長でしたが、帰国すると日本には禁教令が出ていました。
こうして政宗の大きな志は打ち砕かれ、世界への夢は儚く散りました。政宗は、なぜ遣使にこだわっていたのか。その真意は諸説語られてはいるものの、明らかにはなっていません。世界との交流を図り、家康に次ぐ天下統一を目論んでいたとも考えられます。
幕府の協力のもととは言え、ほぼ独自に欧州使節を企てた政宗。彼は独眼竜の名声に驕らず、さらなる高みを目指す上昇志向があったことは間違いありません。
伊達政宗
政宗は晩年、「若林城」(わかばやしじょう:現在の仙台市若林区にあった城)に隠居していましたが、1636年(寛永13年)、病に冒され死が迫っていることを悟り、将軍らに最期の別れを告げるために江戸城へと向かいます。将軍家には江戸中の医者が集められ、政宗の治療にあたりましたが、同年5月24日、政宗は、胃がんのためこの世を去りました。葬儀の前には、政宗のあとを追っておよそ20人の家臣が殉死しています。
少年の頃に李克用に憧れたことをきっかけに、政宗は隻眼を受け入れ、独眼竜として人生を歩みました。しかし、伊達家による仙台藩の記録書「伊達家治記録」には思わぬ「本音」が記されています。それが「自分の死後に絵画や像を残すときには両眼にして欲しい」という遺言。ここから、政宗は吹っ切れていた訳ではなく、心の中では隻眼であることを気にしていたとも読めるのです。
実際に政宗の死後に作られた木像や顔面像には、遺言通り両眼がある物もあれば、明らかに隻眼として作られている物もありました。現代における政宗のイメージと言えば、独眼竜=隻眼が一般的。「独眼竜政宗」の心が揺れていたエピソードだと言えます。
政宗は、13歳のときに「田村清顕」(たむらきよあき)の娘である「愛姫」(めごひめ)を正室に迎えています。この田村家は、平安時代の公卿で「武芸の神」とも称される「坂上田村麻呂」(さかのうえのたむらまろ)の血を引く家系だと言われていました。
政宗の愛刀として今回ご紹介する日本刀は、愛姫が政宗に嫁ぐ際、田村家より贈られた刀で、鎌倉時代後期に活躍していた「来国俊」作の名刀です。
来国俊は、鎌倉時代中期から南北朝時代にかけて繁栄した「来派」 (らいは)の刀工で、山城国(やましろのくに:現在の京都府)で活動していたこの一門を代表する名工として知られています。また、来国俊は来派で初めて「来」という銘を刻んだ刀工としても知られ、以後、来派の刀工はこの銘を刻むようになりました。
その作風は、同じく来派の名工である父「来国行」(らいくにゆき)と似ており、本刀においても来国俊らしい堂々とした力強い姿の刀身となっています。また、茎(なかご)の金粉銘は、刀剣の鑑定者である「本阿弥光遜」(ほんあみこうそん)による物で、1697年(元禄10年)作成の「本阿弥光忠」(こうちゅう)による「折紙」(鑑定書)も付いています。
刀 無銘 伝来国俊(金粉銘 来国俊)
銘 | 時代 | 鑑定区分 | 所蔵・伝来 |
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来国俊 (金粉銘) |
鎌倉時代 | 重要美術品 | 奥州伊達家伝来→ 刀剣ワールド財団 〔 東建コーポレーション 〕 |
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