名家に代々伝えられた日本刀

戦国武将と茶人が築いた片桐家に伝わる名刀 直綱作

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現在の奈良県大和郡山市(やまとこおりやまし)小泉町を支配下としていた「大和国小泉藩」(やまとのくにこいずみはん)。藩祖である「片桐貞隆」(かたぎりさだたか)は、「豊臣秀吉」が天下統一を果たした時代、兄である「片桐且元」(かたぎりかつもと)と共に、兄弟で豊臣家に仕えた人物です。また、貞隆の息子で2代小泉藩主の「片桐貞昌」(かたぎりさだまさ)は、茶道「石州流」(せきしゅうりゅう)の始祖として名を馳せた茶人でもありました。 今回は、そんな石州流の茶の湯文化を汲む片桐家伝来の太刀「直綱作」(なおつなさく)をご紹介すると共に、「天下人」と「茶道」に貢献してきた小泉藩片桐家のルーツを辿っていきます。

小泉藩のルーツは「片桐兄弟の悲劇」にあった!?

片桐且元

片桐且元

小泉藩初代当主の片桐貞隆(かたぎりさだたか)は、兄・且元(かつもと)と共に豊臣家に忠実に仕える家臣として「豊臣秀吉」から厚い信頼を寄せられていました。特に兄の且元は、現在も歴史小説などで語り継がれるほど豊臣家にとって重要な家臣。

しかし、且元は豊臣家に尽くす誠忠な人物でありながら、徳川家とも親交を深めていたことで苦難の道を歩むことになってしまうのです。

豊臣家と徳川家の間で揺れ動きながら、両家と密接な関係を築いた片桐兄弟の「戦の人生」について、秀吉のそばで活躍した兄・且元のエピソードを中心に見ていきましょう。

秀吉天下統一までの道のりを支えた青年時代

豊臣秀吉

豊臣秀吉

且元は1556年(弘治2年)、須賀谷村(すがたにむら:現在の滋賀県長浜市須賀谷)で「片桐直貞」(かたぎりなおさだ)の長男として生まれ、その4年後の1560年(永禄3年)に貞隆が誕生。

もともと片桐氏の祖先は、信濃国伊那郡片桐村(しなののくにいなぐんかたぎりむら:現在の長野県上伊那郡中川村)に由来する信濃源氏ですが、父・直貞の曽祖父にあたる「片桐為頼」(かたぎりためより)の時代に近江国(おうみのくに:現・滋賀県)に進出し、伊香郡高月村(いかぐんたかつきむら:現在の滋賀県長浜市高月町)に移り住みました。

1573年(天正元年)、父・直貞が家臣として仕えていた北近江の戦国大名・浅井氏が「織田信長」によって滅ぼされると、この戦で功績を挙げた羽柴(豊臣)秀吉が北近江の領主となり、近江国内から多くの人材を募るように。こうして秀吉が長浜城主だった時代に、且元と貞隆は兄弟で秀吉の家臣として仕えるようになり、同時代には秀吉の側近として有名な「石田三成」(いしだみつなり)も秀吉に見出されていました。

この頃、まだ10代だった且元と三成が、秀吉の指示を受けて寺で共に特訓をしていたという逸話もあります。

その後、若き侍達は力を付けて立派な家臣へと成長し、信長の仇を討ち、「明智光秀」(あけちみつひで)を倒した「山崎の戦い」や、信長の後継者争いで「柴田勝家」(しばたかついえ)に勝利した「賤ヶ岳の戦い」(しずがたけのたたかい)などの名だたる合戦で奮闘。

特に且元は、賤ヶ岳の戦いで功績を挙げたことで武将として名を広めることとなり、「加藤清正」(かとうきよまさ)などと共に「賤ヶ岳の七本槍」(しずがたけのしちほんやり)に選ばれ、その軍功は後世まで語り継がれることとなりました。こうして秀吉が天下人の地位へと昇り詰めていく中で、片桐兄弟は豊臣政権の一員として時代の潮流に乗ることができたのです。

豊臣家と徳川家のジレンマに陥った且元が選んだ道とは…

毛利輝元vs徳川家康

毛利輝元vs徳川家康

天下統一を果たした秀吉の死後、幼くして後継者となった「豊臣秀頼」(ひでより)を支えながら豊臣家のために懸命に尽くしていた片桐兄弟。しかし、秀吉死後わずか1年で豊臣政権は内乱による崩壊の危機を迎えていました。その一方で、且元はこの頃から大坂城を訪れた「徳川家康」を自邸に宿泊させるなど、すでに家康と特別な関係性を築き始めていたのです。

1600年(慶長5年)豊臣政権の中心にいた五大老のひとり「毛利輝元」(もうりてるもと)率いる西軍と、徳川家康率いる東軍による「関ヶ原の戦い」が勃発。「天下分け目の戦い」と称されるこの戦は、片桐兄弟にとってもまた「運命の分かれ道」となる出来事だったのです。

このとき、片桐兄弟は石田三成らと共に西軍に付き、近江国の「大津城の戦い」に参加していました。しかし、関ヶ原で家康の東軍が勝利を上げると、家康と関係を築いてきた且元は、豊臣家と徳川家の仲介者となり平和的解決に向けて尽力。この中立的な行動が家康から評価され、片桐兄弟は家康からそれぞれ領地を与えられることに。これが「大和国小泉藩」の立藩だと言われています。

このような家康の行動をきっかけに、沈みゆく豊臣家と、天下統一へ突き進む徳川家の間を行き来することになった且元。あくまでも豊臣家の家臣として働く且元の意思とは裏腹に、家康の政治的戦略に利用されていったのです。そんな且元に決定的な事件が起こります。

方広寺の釣鐘

方広寺の釣鐘

1614年(慶長19年)、震災や火災で倒壊していた「方広寺」(ほうこうじ:秀吉が発願した大仏を造立した京都市東山のお寺)の再建が進む中で、家康は梵鐘(ぼんしょう:仏教で時を知らせる鐘)の銘文を見て「徳川家は呪いをかけられている」と怒りをあらわにしたのです。大問題に発展したこの一件を何とか解決しなくてはと、右往左往した且元ですが、非情にも、豊臣家から家康と内通している裏切り者と決め付けられてしまいました。

この「方広寺鐘銘事件」によって、且元は貞隆と共に兄弟で豊臣家を去ることに。豊臣家は徳川家との仲介役であった且元を追放したことで両家の対立は決定的なものとなり、同年に徳川家と豊臣家の最後の戦い「大坂冬の陣・夏の陣」が始まります。

豊臣家を追放された片桐兄弟は、家康の家臣として仕えることとなり、徳川軍の一員となって長年忠義を貫いてきた豊臣家に対して刃を向けるという悲惨な結末になりました。きっと、この悲劇は家康が考えたシナリオだったのでしょう。片桐兄弟を失った豊臣軍は徳川軍に敗北し、豊臣家はついに滅亡の日を迎えたのです。

1615年(慶長20年)5月28日、大坂冬の陣・夏の陣で自害した豊臣秀頼のあとを追うように、且元は亡くなりました。咳病を患っていたため病死と言われていますが、死因は明らかにされていません。弟の貞隆はその後も徳川家の家臣として仕え、小泉藩は貞隆の息子「貞昌」(さだまさ)へとバトンを繋ぐこととなります。そして息子・貞昌もまた、徳川家将軍と交わる運命を辿っていくのです。

茶の湯を極めた2代藩主 片桐貞昌

片桐貞昌

片桐貞昌

小泉藩初代藩主・貞隆の死後、2代藩主となった貞隆の息子・貞昌は、別名「片桐石州」(かたぎりせきしゅう)の名で知られる茶人でした。貞昌に茶道を伝授した、大和国御所藩(ごせはん:現在の奈良県御所市御所)藩主で茶人の「桑山宗仙」(くわやまそうせん)は、わび茶(わびの精神を重んじた茶道の様式)の完成者と称される「千利休」(せんのりきゅう)の長男である「千道安」(せんのどうあん)から茶道を学んだ人物であったため、貞昌も利休流茶道を継承し、利休の意志を継ぐ茶人として石州流茶道を創立させました。

貞昌は、多くの茶人達とも繋がりを持ち、茶の湯の追求に精進します。また古器の鑑定士としての腕も確かなもので、茶道具に対するこだわりや、美学を磨いていたようです。こういった貞昌の茶道に対する熱意が功を奏して、遠州流茶道の始祖である、近江国小室藩(おうみのくにこむろはん:現在の滋賀県長浜市小室町)の初代藩主「小堀政一」(こぼりまさかず)、別名・小堀遠州のあとを受けて、徳川4代将軍・家綱(いえつな)の師範を任されることとなりました。

こうして小泉藩は、徳川将軍家との関係を続けながら江戸時代を送り、徳川幕府滅亡後も明治新政府による1871年(明治4年)の「廃藩置県」(はいはんちけん)まで存続。戦に明け暮れた初代藩主・貞隆と、戦の疲れを癒すための茶の湯を極めた2代藩主・貞昌。この親子によって小泉藩の礎は築かれていたのです。

片桐家に伝来した名刀 直綱作

「戦」と「文化」に尽力した片桐家に伝来する太刀「直綱作」は、美しく大胆に鍛えられた名刀で、まさに片桐家の功績にふさわしい1振だと言えます。

「直綱」は、南北朝時代の石見国(いわみのくに:現在の島根県)の刀工で、日本で最も著名な刀匠と称される「相州正宗」(そうしゅうまさむね)の門人と言われています。さらに相州伝の刀工の中でも、直綱は「正宗十哲」(まさむねじってつ:相州正宗の門人として有名な10人)のひとりとして挙げられるほど高名な刀工です。

太刀 銘 直綱作

太刀 銘 直綱作

時代 鑑定区分 所蔵・伝来
南北朝時代 重要美術品 片桐家伝来→
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕
詳細を見る

相州正宗を彷彿とさせるこの刀剣・日本刀は、相州伝の特徴である湾れ(のたれ)に互の目(ぐのめ)交じりの乱れ刃で、刃文の沸(にえ)には、砂流し(すながし)がかかっている華やかな作風。刃の先端である鋒/切先(きっさき)部分の刃文・帽子は、鋒/切先に向かって炎が燃え盛るように掃きかける火焔帽子となっています。また、木の年輪のような板目肌(いためはだ)に鍛え上げられた美しい地鉄(じがね)にも沸えを見ることができるのです。

直綱は、正宗十哲に選ばれた初代から数代続いていますが、在銘刀は大変少なく希少だと言われています。そんな直綱の作品の中でも傑作と評価されているこの1振は、明治時代の政治家であり、刀剣収集家として有名な「伊東巳代治」(いとうみよじ)伯爵の愛刀でもありました。

茶道の流派を築いた片桐家から、数々の名刀をコレクションしていた伯爵へ。直綱作は、時代を越えて審美眼を持つ者に愛される刀剣・日本刀だったと言えるでしょう。

戦国武将と茶人が築いた片桐家に伝わる名刀 直綱作

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館林藩秋元家伝来の水心子白熊入道正秀

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「秋元家」(あきもとけ)は、「徳川家康」(とくがわいえやす)に仕えた大名です。転封(てんぽう:所領を別の場所に移すこと)を繰り返した秋元家が、最後に所領としたのが上野国館林藩(こうずけのくにたてばやしはん:現在の群馬県館林市)でした。 徳川家と深い縁があったにもかかわらず、幕末は新政府側の一員となった秋元家の歴史とはどのようなものだったのでしょうか。

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谷家伝来の薙刀 無銘 長船秀光

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本薙刀の制作者は、備前長船の刀匠であり、「最上大業物鍛冶師」(さいじょうおおわざものかじし)と称えられる「長船秀光」(おさふねひでみつ)。南北朝時代に小反り物(こぞりもの)の代表的な刀工として活動していました。 小反り物とは、長船鍛冶の嫡流(ちゃくりゅう:正統の流派)の「兼光」(かねみつ)や、傍系の「元重」(もとしげ)、「長義」(ながよし/ちょうぎ)に属さない刀工郡のこと。そんな刀鍛冶の手による、特別保存刀剣の薙刀、無銘 長船秀光は「谷家」(たにけ)に伝来しました。 ここでは、「織田信長」(おだのぶなが)や「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)にかかわりのある谷家の歴史や経歴をご紹介するのに合わせて、薙刀 無銘 長船秀光の歴史や特徴もご説明していきます。

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宇喜多家・前田家伝来の薙刀 伯耆国住広賀

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薙刀 銘 伯耆国住広賀 号 渡海龍(ほうきこくじゅうひろよし ごう とかいりゅう)は、刀工「伯耆国住広賀」(ほうきこくじゅうひろよし)の手によって作られた薙刀です。その持ち主は、備前国武将であった「宇喜多秀家」(うきたひでいえ)。渡海龍の号は、1592年(文禄元年)に「豊臣秀吉」の命で朝鮮へ出兵した「文禄の役」の際、宇喜多秀家がこの薙刀で奮闘したことから付けられました。 本薙刀は宇喜多秀家のあと、宇喜多家と深い関係があった加賀前田家へと伝来。そこで、刀工一派である伯耆国住広賀とその持ち主であった宇喜多秀家、そして宇喜多家と前田家との関係を紐解いていくと共に薙刀 銘 伯耆国住広賀の魅力をご紹介します。

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能勢氏伝来の日本刀 丹後守兼道

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「能勢氏」(のせし)の始まりは平安時代後期。以来、摂津国能勢郡(せっつのくにのせぐん:現在の大阪府)に領地を置きますが、「織田信長」(おだのぶなが)や「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)に相次いで攻め込まれ、領地を失うこととなります。そののち、日蓮宗の寺に逃げ延び、いつか能勢氏を再興することを願い続けた結果、「徳川家康」(とくがわいえやす)の時代にその願いを叶えることになるのです。一度は一族の危機にもさらされた能勢氏がどのように再興していったのか、歴史を紐解いてみました。

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相模国三浦氏から北条氏に渡った名刀 正恒

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本刀、額銘「正恒」(まさつね)は、平安時代後期から戦国時代に相模国三浦(さがみのくにみうら:現在の神奈川県)を拠点とした「三浦氏宗家」と、その流れをくむ「相模三浦氏」が所持したとされる名品です。太刀(たち)を磨上げて打刀(うちがたな)に直したと伝えられています。三浦氏滅亡後は、宿敵であり、小田原城を本拠に関東に勢力を伸ばした「後北条氏」(ごほうじょうし:戦国大名の北条氏のこと)のもとへ渡りました。本刀を作刀した備前国(びぜんのくに:現在の岡山県)の刀工「正恒」は、平安時代後期に活躍した「古備前派」の名工です。今回は、三浦氏と後北条氏について解説すると共に、正恒の作風や特徴について述べていきます。

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丹後宮津・本庄松平家伝来の太刀 来国俊

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本太刀は、「来一門」の刀工「来国俊」(らいくにとし)が制作し、丹後国宮津(たんごのくにみやづはん:現在の京都府宮津市)の宮津藩「本庄松平家」(ほんじょうまつだいらけ)に伝来した雅な作品です。本庄松平家は江戸時代に栄え、下級武士から幕閣(ばっかく:幕府の最高行政機関)の中枢を担う一流の家柄となりました。ここでは、本庄松平家の歴史についてふれながら、太刀 来国俊を解説していきます。

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土佐藩山内家と刀匠・堀川国広による 洛陽一条住信濃守国広

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土佐国(とさのくに:現在の高知県)1国を領有していた土佐藩のルーツは、戦国時代に「土佐七雄」(とさしちゆう:室町時代末期から戦国時代に、土佐国に存在した7つの豪族の総称)のひとりだった「長宗我部/長曾我部元親」(ちょうそかべもとちか)が領主となったことに始まります。その後、息子の「長宗我部盛親」(ちょうそかべもりちか)が領主を引き継ぎましたが、「関ヶ原の戦い」で敗軍となった「西軍」に与していたことから、土佐国を没収されました。そして、長宗我部氏に替わって土佐に入封した「山内家」(やまうちけ)が、明治維新に至るまでのおよそ270年統治していくこととなったのです。今回は、土佐藩を代々牽引してきた山内家の歴史を振り返ると共に、土佐藩3代藩主の愛刀を鍛えた「新刀の祖」と称される刀匠「堀川国広」(ほりかわくにひろ)についてご紹介します。

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内藤氏伝来・二王清綱作の伝二王

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「二王清綱」(におうきよつな)が作り、「内藤氏」が所有していたとされる重要刀剣の刀「伝二王」。「二王派」は、「大和鍛冶」(やまとかじ)達とも親交が深かったことから、その影響が作刀にも色濃く反映されており、本刀においても、その独特な風格を漂わせているのです。今回は、この二王清綱の持つ技術が、十分に注入された刀剣・日本刀である伝二王の歴史や特徴を紐解いていくと共に、二王派と大和鍛冶との関係などについても掘り下げていきます。

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京都所司代・板倉家と天秤と称された薙刀

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江戸幕府によって設置された「京都所司代」(きょうとしょしだい)は、京の治安を維持するために置かれた行政機関で、鎌倉幕府の「六波羅探題」(ろくはらたんだい)や室町幕府の「所司代」(しょしだい)を参考に定められた役職です。京都所司代の主な任務は、現代で言うところの裁判官の職務。市中で起こる様々な事件や騒動の解決のために裁判を行なうなど、社会の秩序を維持する重要な役割を果たしていました。ここでは、親子2代で京都所司代を務めた板倉家(いたくらけ)と共に、「板倉重宗」(いたくらしげむね)が所持していた「天秤」(てんびん)の号を持つ「薙刀」(なぎなた)についてご紹介します。

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