女剣士ヒストリー
甲斐姫
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甲斐姫

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「織田信長」に続き、「豊臣秀吉」が天下統一を成し遂げた安土桃山時代に、一国の城主の娘として生まれ、19歳にして秀吉による小田原征伐の際には、豊臣方との1ヵ月にも及ぶ籠城戦の陣頭指揮を執った東国無双の姫として知られる「甲斐姫」(かいひめ)。彼女の運命を変えた1590年(天正18年)6月4日から7月15日(旧暦)の1ヵ月余りの日々を追いましょう。そして、その後の甲斐姫と、甲斐姫ゆかりの地を巡ります。

「石田三成」を圧倒した忍城での籠城戦

甲斐姫

甲斐姫

甲斐姫は、武蔵武士の名家・成田氏によって1479年ごろに築かれたとされる「忍城」(おしじょう)で、当時の城主・成田氏長(なりたうじなが)の長女として1572年(元亀3年)に生まれます。

氏長に男児がいなかったこともあり、背が高く聡明な甲斐姫に、父は早くから期待をかけ、武術の稽古をさせていました。

そんな彼女の運命が大きく変わることになるできごとが突如襲ってきたのは、甲斐姫19歳のときです。

湿地帯を利用した沼に浮かぶ城

沼に浮かぶ城・忍城

沼に浮かぶ城・忍城

織田信長が1582年の「本能寺の変」(ほんのうじのへん)で自害したのち、天下統一に向け確実に歩みを進めていた豊臣秀吉は、その総仕上げとして、1590年(天正18年)、小田原(神奈川県)に北条氏(ほうじょうし)討伐の軍を差し向けます。

北条配下のひとりである父・氏長は、秀吉軍を迎え撃つために、小田原城の籠城に加勢。そのため、忍城の留守を預かることになったのは、氏長の叔父・「成田泰季」(やすすえ)でした。

しかし、秀吉の小田原攻めは、北条氏の居城・小田原城だけにとどまりませんでした。北条配下の諸城の攻略も実行したのです。

石田三成

石田三成

6月4日、秀吉軍の総大将・「石田三成」(いしだみつなり)が2万3,000人もの兵を率いて忍城に迫ります。一方の成田軍は、城に残る兵わずか300人。百姓・町人・僧侶までを城内に入れますが、合わせても2,600人余りです。

しかし、忍城は、「北条氏康」(ほうじょううじやす)や「上杉謙信」(うえすぎけんしん)による城攻めにも耐えた堅固さを誇る城でした。

洪水の多い一帯にできた湖と、その中の島々を要塞化した縄張で作られ、本丸を始め二の丸、三の丸などの主要部分が独立した島となっており、これらを橋で連結した形になっていたのです。いわば、湿地帯を利用した沼に浮かぶ城で、道は狭く、攻め入ろうと進むも深田や沼に足を取られ、かえって抜き差しならない状況に陥ります。

泰季の急死で、19歳の甲斐姫が陣頭に

苦戦を続ける石田軍でしたが、実は忍城内でも予期せぬ異変が起こっていました。城代を務めていた泰季が病死。代わって泰季の嫡男・長親(ながちか)を総大将としますが、実質的には氏長の継室(後妻)と19歳の甲斐姫が指揮を執ることとなったのです。

忍城を水底に沈める作戦に出た三成

一方、力ずくの攻撃に利がないと判断した三成は、「水攻め」で攻略する策を立案。一説には、水攻めを得意とする主君・秀吉の命だったとも言われています。

具体的には、わずか7日間で総延長28kmにも及ぶ広大な堤防を築き、荒川と利根川の岸を切って、忍城を水の底に沈めようとしたのです。しかし、城周辺は水に浸かっていくものの、肝心の城は水没しません。「水に浮く城?!」と石田軍は驚愕。

実際には、忍城の地形が周りより少し高かったことが沈まなかった原因だと考えられています。逆に、梅雨さなかの時期。6月18日の豪雨により、せっかく築いた堤は決壊し、石田軍は270人ほどの死者を出してしまうのです。

浅野長政、真田昌幸・幸村親子らを次々と撃退

浅野長政

浅野長政

忍城の攻防がひと月を超えると、秀でた才覚を持った秀吉の重臣・「浅野長政」(あさのながまさ)の軍勢が援軍として加わり、忍城の門前まで迫ります。城内から出陣の好機を狙っていた甲斐姫は、自ら甲冑をまとい、200騎余りを従えて大手門から出陣。門前で浅野勢と鉢合わせになるも、甲斐姫の「ひるむな」の掛け声と共に押し寄せる敵を薙刀でなぎ倒していくのです。

その姿に兵士達は奮起し、数の上では圧倒的優位に立っていたはずの浅野勢の侵入を阻止することに成功します。さらに、「真田昌幸・幸村」(さなだまさゆき・ゆきむら)親子、「長束正家」(なつかまさいえ)といった援軍が駆けつけるも、そのたびに兵を率いて出陣した甲斐姫達が撃退し、豊臣軍勢はついに撤退。甲斐姫達は、結果的におよそ3万の敵に勝利したのです。

しかし、小田原城が敵の手に落ち、北条川の総大将・「北条氏直」(ほうじょううじなお)が豊臣方に降伏。小田原城にいた忍城城主の氏長が、秀吉の命を受けて使者を派遣し、最後まで落ちなかった忍城の開城を指示します。開城の際、甲斐姫達は民の拍手を浴び、城をあとにしたと伝わっているのです。

この1ヵ月余りのできごとによって、甲斐姫のその後の人生は大きく変わります。

秀吉の側室となった戦国の女武将・甲斐姫のその後

秀吉が、天下統一の総仕上げとして大軍を差し向けた小田原の北条氏討伐において、北条方配下で、唯一、負けを喫することなく開城した忍城。この城を最後まで守った立役者が、城主・成田氏長の長女・甲斐姫です。「男子であれば、成田家を中興させて天下に名を成す人になっていた」とも評されたほどの非常に優れた才覚の持ち主であった甲斐姫は、豊臣方の手に落ちたのち、どうなったのでしょうか。

大坂城落城も経験した甲斐姫

忍城開城後、成田氏長の一族は、会津の「蒲生氏郷」(がもううじさと)の預かりとなります。そして、氏長に委ねられた領地で反乱が起きると、甲斐姫が奮戦してこれを平定したと伝わっているのです。

忍城籠城のエピソードをはじめ、こういった彼女の奮戦ぶりは、後世に編纂された「成田紀」や江戸後期の実録風読物である「真書太閤記」などにみることができますが、その当時の歴史に名を残す女性と同様、それが事実であったのかどうかを確かめることができる記録は残されていません。しかし、彼女のその後の人生については、はっきりとしています。

「淀殿」の信任を得て秀頼の守役に

甲斐姫は、人並外れた武芸の腕もさることながら、「東国無双の美人」としても名高く、秀吉は、その美貌と忍城籠城などで見せた武勇に惚れ、甲斐姫を側室として迎えるのです。

「淀殿」(よどどの)をはじめ、秀吉には16人の側室が存在したと言われていますが、そのうち名前が判明している人物のひとりに甲斐姫がいます。甲斐姫は、淀殿とも親しみ、秀頼が生まれると、彼女の信任を得て、守役の任を担い、わが子のようにいつくしみ育てたと言われています。

女人救済に尽くした「天秀尼」の母?

そして1615年の大坂城落城の際は、燃え盛る城から、秀頼の側室の子・「国松丸」(くにまつまる)と「奈阿姫」(なあひめ)を連れて脱出。残念ながら国松丸は京で捕らえられ、処刑されてしまいますが、奈阿姫を伴って落ち延びた甲斐姫は、縁切寺として名高い鎌倉の東慶寺(とうけいじ)へ駆け込みました。

その後、東慶寺20世・「天秀尼」(てんしゅうに)として女人救済に尽くした女性が奈阿姫です。一説には、この奈阿姫の母は、実は甲斐姫であったのではないかということも言われています。

戦国の女武将・甲斐姫ゆかりの地を行く

安土桃山時代、北条方の配下・成田氏長の長女として、居城であった忍城で豊臣軍と1ヵ月の籠城戦を戦い抜いたことで知られる甲斐姫。彼女のゆかりの地を紹介しましょう。

城の命運と共に生きた甲斐姫

甲斐姫を語るとき、忍城と大坂城、2つの城の命運に思いを馳せずにはいられません。前者は甲斐姫が生まれた城、そして後者は彼女が嫁いだ城です。

忍城址と水城公園

甲斐姫が生まれ、豊臣軍とのひと月に及ぶ籠城戦を戦った忍城は、湿地帯を利用した沼に浮かぶ城でした。忍城は明治維新の際に取り壊され、そのお堀跡は、忍沼と呼ばれる大きな沼になり、その後、沼が埋め立てられて現在は埼玉県行田市の市役所や市立体育館が建てられています。

忍城

忍城

また、忍城本丸の跡地は、往時の面影を再現した「忍城址」が整備され、郷土博物館として活用。その忍城址の近くには、市民広場である「水城公園」があり、春になると200本の桜が咲き乱れます。こののどかな地で、その昔、石田三成を総大将とした豊臣軍2万3,000人に対し、わずか2,600人の軍でどう戦ったのかを、当時の忍城の縄張を見つめながら考えてみるのも面白いのではないでしょうか。

秀吉の側室として過ごした大坂城

甲斐姫は、北条方が豊臣方に降伏したのち、秀吉の16人いたと言われる側室のひとりとなって大坂城に移り住みます。しかし1615年(慶長20年)の大坂夏の陣で大坂城が落城したことにより、歴史はまたしても彼女を城から追い出すのです。

再建された大坂城に、落城時の混乱を極めた面影はありませんが、姫や側室であっても居城が安住の地とならない戦国の世を思うと、大坂城落城時の甲斐姫のまたもかという姿が目に浮かんでくるようです。

大坂城落城後落ち延びた縁切寺「東慶寺」

東慶寺・本堂

東慶寺・本堂

甲斐姫が、「豊臣秀頼」の側室の子・奈阿姫と共に落ち延びた先は、縁切寺として名高い鎌倉の東慶寺です。

昔は結婚した女性は、夫の許しがなければ離縁はできませんでした。そんな中、この東慶寺は、「北条時宗」の妻だった「覚山志道尼」(かくさんしどうに)が開山したと言われる寺で、夫と別れたい女性がここに入り、寺の決まりに従い3年間修行すると離縁することができるようになっていました。甲斐姫がここに落ち延びた理由は定かではありませんが、2度も受けた耐え難い運命から解き放たれたかったのかもしれません。

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