女剣士ヒストリー
巴御前②
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巴御前②

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「木曽義仲」(きそよしなか)と別れ、戦場を離れた「巴御前」(ともえごぜん)はその後どうなったのでしょう?ここではその後の巴御前についてご紹介します。 また、薙刀の形状名「巴形薙刀」や、もうひとりの女武将「葵御前」の伝説についてもご紹介。さらに日本全国にある巴御前ゆかりの地をご紹介します。

女武将・巴御前は91歳の天寿をまっとうした?

800年余り前の平安時代末期、日本最初の全国的な内乱と言われる「治承・寿永の乱」(じしょう・じゅえいのらん)で、木曽義仲とともに戦った美貌と強弓の女武将・巴御前。

鎌倉軍との戦いで死を覚悟した義仲の願いを受け、泣く泣く戦場を離脱した巴御前は、その後、どうなったのでしょうか。

尼となって生涯を終えた巴御前

巴御前の塚は、全国に15ヵ所ほどもあります。その中で、終焉の地と考えられているのが、当時は越中(えっちゅう)と呼ばれた富山県南砺市福光天神(なんとしふくみつてんじん)にある物。巴松という一本の大きな老松の傘に守られるかのように佇む巴塚のあたりが、巴御前が尼となって晩年を過ごした草庵跡だと言われています。その地にたどり着くまでの彼女の足取りを追ってみましょう。

「源平盛衰記」が伝える巴御前のその後

巴御前の勇猛ぶりとともに、義仲の最期のときを鮮明に描いた「平家物語」は、義仲の命で彼女は東国に逃れたということだけを書き、その後については何ら語っていません。

代わって鎌倉中期~後期の軍記物語として知られる「源平盛衰記」(げんぺいせいすいき/げんぺいじょうすいき)が伝えるところによると、信濃に落ち延びた後は、捕らえられて鎌倉へ。そこで敗軍の将として死罪を申し付けられますが、有力御家人の「和田義盛」(わだよしもり)が、「このような剛の者との子どもが欲しい」と助命を嘆願し、義盛の妻となりました。

そして、義盛の願い通り、豪勇を誇った朝日奈三郎義秀(あさひなさぶろうよしひで)という子を産み、和田一族が滅ぼされた後には、倶利伽羅峠(くりからとうげ)などで共に戦った石黒氏(福光城主)を頼って越中に住み、出家して余生を送り、91歳で亡くなったと伝えています。

しかしこれは、フィクションだという説が有力のようです。巴御前が義秀の母と考えるには、彼の実年齢から難しく、伝説の域を出ないことがひとつ。

また、鎌倉幕府の事跡を記した歴史書とされる「吾妻鏡」(あづまかがみ)に、越後(新潟県)の「板額御前」(はんがくごぜん)という強弓の女武者の伝記が残されており、その後半生の話が巴御前のものとほぼ同じであることから、混同されて伝わったのではないかと。いずれにしても、現在の私達はその真意を確かめる術を持たない中、そうであったのかもしれないと思いを馳せることは自由でしょう。

巴御前の塚のひとつ、倶利伽羅峠にある巴塚の案内板には、源平盛衰記の内容の概要とともに、「尼となり兼生と称し宝治元年10月22日没し石黒氏が此の地に巴葵寺を建立したと伝えられている」と記されています。

「能」にみる巴御前のその後

能「巴」

能「巴」

室町時代に成立したとされる古典芸能「能」の演目に、「巴」があります。

木曽に住む僧が都へ上る途中、琵琶湖畔の近江国(滋賀県)粟津ケ原(あわづがはら)に立ち寄ると、神前で参拝しながら涙する女性と出会います。僧は不審に思い理由を尋ねると、粟津ヶ原の祭神はこの地で戦死した木曽義仲を祀っていると教え、供養を頼むのです。そして名乗ることもなく姿を消します。

僧が弔う中、夜になり、今度は凛々しい女武者姿で現われた女性は、自らを巴御前の霊だと名乗り、義仲最期のときの様子や共に自害することを許されなかった心残りなどを語ります。

平家物語では、あっさりと描かれていた義仲と巴御前の別れの場面も、能の巴では、「この小袖を木曾の妻子に届けよ」と義仲が自身の形見を巴御前に託し、彼女が生き残るための必然性が描かれています。

ひとつの物語としての巴御前のその後でありますが、義仲が眠る滋賀県大津市の「義仲寺」(ぎちゅうじ)の創建のいわれは、次の通りです。義仲の死後、墓所のほとりに草庵を結び、供養三昧の日々を送る見目麗しい尼層があり、里人が何者かと問うと、「われは名もなき女性」と語ったと言われています。この尼層こそ、巴御前だと伝わるのです。最後まで義仲への慕情を抱いていた彼女の姿が目に浮かぶようです。

女武将・巴御前が名の由来? 薙刀「巴形」

薙刀(なぎなた)は、長い柄の先に反りのある刀身を装着した日本の伝統的な武具で、平安時代に登場したとされています。そのひとつの型に、平安末期に活躍した女武将としての伝説が残る巴御前にちなんで名付けられたと言われる「巴形」(ともえがた)があるのです。

身幅が広く反りの大きい「巴形」

巴形は、薙刀のひとつの形で、刀身の幅が広く、切っ先が強く反る形になった物です。名前の由来は巴御前からと言われていますが、巴御前が実際に使っていた形がそうであったからという訳ではないようです。江戸時代になってからの命名で、一般的に婦人用に作られた薙刀を巴形薙刀と呼びます。

平清盛が普及?

薙刀の最古の形式は、長い柄を持つことから長刀という字が当てられていました。しかし、その後、長い刀を意味する「長刀」が生まれ、これとの区別のため、敵を薙ぎ切りする(横に大きく払って切る)物として、「薙刀」になったとされています。奈良時代~平安時代には、京都・奈良の大寺院で仏法守護のために戦闘に従事した僧兵の武器として威力を発揮。一説によると、平清盛が薙刀の利を強調し、平家一門がみな用いるようになったことで天下に普及したとも言われています。

その後、鎌倉時代~室町時代になると、騎乗の戦士を薙ぎ払うなどの威力を発揮し、主武器になりました。しかし、応仁の乱のあたりから戦いの主流が大勢の歩兵による密集戦に変わり、機能的な面から槍に戦場での主役の座を譲ります。そして、江戸時代には、幕府が武士の個人での薙刀の所持を禁止したことにより存続の危機が訪れますが、その対象が大薙刀と呼ばれる長大な物に限られたため、武芸となることで存続しました。

江戸時代になって生まれた巴形

江戸時代に、形に違いがある男薙刀と女薙刀が生まれます。男薙刀は、長く、先が幅広ではなく反りもさほど深くないのが特徴。

これに対して女薙刀は、刃長が短く、先幅が広く反りが深い物で、どちらかと言うと非実践的な物と言えます。これは、非力な女性の体格に合わせて扱いやすくした物で、武家の婦女子の武術のたしなみとして「薙刀術」が盛んに行なわれるようになり、薙刀は嫁入り道具のひとつにもなりました。

そしてこの女薙刀の形を巴形という名称で呼ぶようになったようです。巴御前が薙刀をふるって奮戦した史実はどこにも記されてはいませんが、江戸時代の文楽や歌舞伎で戦う女性の代表格として巴御前が描かれたことが大きく関係しているのかもしれません。また、薙刀術には巴流という流派があり、広島藩などで行なわれていました。

ちなみに男薙刀の形の物は、「静形」(しずがた)と呼ばれ、一説には、源義経の愛妾・静御前(しずかごぜん)が由来とされます。ただ、「しずかがた」でなく「しずがた」と呼ぶことから、濃州志津三郎兼氏作の薙刀を由来とする「志津型」とする説もあります。

義仲とともに戦ったもうひとりの女武将・葵御前

悲運の武将と言われる木曽義仲の戦いの側には、実は、巴御前とは別にもうひとり、義仲と共に戦うことを懇願した女武将がいたと、各地に残る義仲伝説は伝えています。葵御前(あおいごぜん)と呼ばれるその女性をご紹介しましょう。

義仲と共に戦いたいと強く願った葵御前

葵御前にまつわる話は、巴御前以上に伝説の域を出ていないところがありますが、長野県の木曽福島の「たいまつ祭り」では、馬上で鎧姿に身を固めた木曽義仲と巴御前、そして葵御前と「山吹御前」(やまぶきごぜん:一説には巴御前の姉で義仲の正妻)の美しく凛々しい姿を見ることができます。

また、源平の勢力を逆転させた戦いとして有名な「倶利伽羅峠の戦い」の古戦場跡には、「巴塚」とともに「葵塚」もあり、義仲に仕えた女武将であったと記されています。

善光寺別当の娘・葵御前

葵御前も巴御前と同じく義仲の愛妾で、栗田範覚(くりたかんかく)の娘だとされています。栗田氏は、善行寺(ぜんこうじ)をよりどころとする北信地方の武家氏族のひとつで、栗田範覚は義仲挙兵に応じて出陣した、いわゆる義仲軍の武将です。

鎌倉幕府の成立後は、戸隠山別当(とがくしやまべっとう)に加えて善光寺別当(ぜんこうじべっとう)にも任じられ、以後、栗田氏は両方の別当職(大寺の長官職)を何代にもわたって受け継いだということです。その父のもと、葵御前は幼少の頃から武術の稽古に励み、巴御前のように義仲と共に戦うことを望んだようですが、伝説によれば、巴御前のような才覚に恵まれなかったことに加え、15歳のときに大病を患って病床に伏せることが多くなり、その願いはなかなか叶えられませんでした。

そういった境遇から、戦場においても常に義仲と行動を共にする巴御前をうらやんだとも伝わります。一方で、常に義仲の側に付き従い、各地を転戦したとも言われています。

病を押し、義仲と共に戦いたいと強く願った葵御前

さらに、こんな逸話も。義仲と共に戦場で戦いたいと願うあまり、彼の挙兵後間もなく、人ではない者と契約し、巴御前と同等の武力を得たとされてます。

そして父・範覚が娘の身体を心配して反対する中、強く願って倶利伽羅峠の合戦に出陣。薙刀を振るい、巴御前以上の働きをしたものの、だんだんと精気が失われていき、闘いの最中に倒れてしまったというのです。倶利伽羅峠の古戦場跡の葵塚には、ただ、倶利伽羅峠の戦いで討ち死にしたと記されています。

義仲が葵御前のためにつくらせた「葵の湯」

別所温泉

別所温泉

長野県上田市の塩田平にあり、第12代「景行天皇」(けいこうてんのう)の時代に、「日本武尊」(やまとたけるのみこと)が東征して発見したのが始まりとされる信州最古の温泉「別所温泉」。

ここにある共同浴場のひとつである「大湯」は、義仲が平家討伐のため都を目指して丸子城に駐留していた際に入浴したと伝わる湯です。

一説には、愛妾の葵御前の身体を案じ、彼女の療養のためにつくらせたとも伝わり、「葵の湯」とも言われています。

女武将・巴御前ゆかりの地を行く

平安末期の源平合戦で木曽義仲とともに戦った美貌と強弓の女武将・巴御前。彼女のゆかりの地をご紹介しましょう。

全国各地で今も顕彰を続ける人があとを絶たない巴御前

歴史資料で足跡を確かめることはできなくても、各地に数多く残る伝承や史跡でたっぷりとその存在感を漂わせている巴御前。塚の数だけみても全国に15ヵ所ほどもあるという彼女にゆかりのある地の中から、抜粋してご紹介しましょう。

巴御前が尼層となり弔った義仲眠る「義仲寺」

鎌倉軍と戦い、近江の粟津ヶ原で壮絶な最期を遂げた木曽義仲は、現在は滋賀県大津市となったその終焉の地である義仲寺で眠っています。義仲寺は、JR膳所駅・京阪電鉄膳所駅から琵琶湖に向かって300mほどのところにあり、尼となった巴御前が義仲供養のために墓所のほとりに草庵を結んだのが始まりだと言われています。

里人が尼僧に何者かを幾度尋ねても、われは名もなき女性と答えるのみだったことから、草庵は「無名庵」(むみょうあん)と呼ばれるようになり、今も義仲寺の境内に史跡として残っています。江戸時代になると、義仲寺に足しげく通う俳人がいました。松尾芭蕉です。大阪で客死した芭蕉は、亡骸を木曽塚(義仲の墓所)に送れという遺言を残しており、芭蕉もこの義仲寺で眠っているのです。

なぜそのような遺言を残したかは定かではありませんが、「奥の細道」の旅で北陸道を歩き、悲運の武将・義仲を慕う人々の思いに共感を覚えたのかもしれません。

木曽川・巴ヶ淵の龍神伝説

徳音寺

徳音寺

長野県を流れる木曽川の木曽町山吹山のふもとあたりに、水の流れが巴状に渦を巻く深い淵があります。巴状とは水が渦をまくさまを表現するときに使われるのですが、いつのころからかこの渕を巴御前にちなんで「巴ヶ淵」(ともえぶち)と呼ぶようになったと言われています。この地に残る伝説では、義仲の生涯を守るため、ここに住む龍神が化身して巴御前になったとか。

また、巴御前は、幼いころからここで水浴びをしたり泳いだりし、武技を練ったとも伝わります。山吹山の四季折々の風情は筆舌に尽くしがたいほどの趣きで、特に秋の実り豊かな紅葉が水面に映り込むさまや、春に山吹が咲き乱れ、巴状に蒼く渦巻く淵とのコントラストは見ごたえたっぷりです。

同じ木曽町にある義仲の菩提寺「徳音寺」には、義仲の墓を中心に、右側に母小枝御前と今井四郎兼平、左側に巴御前と樋口次郎兼光の墓碑が並んでおり、ここの巴塚には、「龍神院」の文字が刻まれています。

義仲と巴御前の像が出迎える「義仲館資料館」

巴ヶ淵や徳音寺のすぐ近く、長野県木曽町中山道宮ノ越宿にあるのが「義仲館資料館」です。義仲の短くとも壮絶な生涯、その彼に常に寄り添った巴御前の生きざまを絵画や人形を使って分かりやすく解説しています。

樹齢約750年を誇る「巴塚の松」

巴塚の松

巴塚の松

富山県南砺市福光に、巴御前が尼となって晩年を過ごしたと言われる草庵跡があり、彼女の遺言で植えられたという樹齢約750年の1本の大きな老松が「巴塚の松」です。

この草庵跡は、巴御前の終焉の地であると言われており、彼女の命日とされる10月22日に合わせ、毎年10月に「巴忌」という法要が営まれています。また、巴松の実生から育った松が全国の巴御前ゆかりの地へ送られています。

巴御前②

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