女剣士ヒストリー
巴御前①
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巴御前①

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今日の日本において、最も有名な女武将と言えば「巴御前」(ともえごぜん)でしょう。巴御前は源平合戦のとき、木曽義仲(きそよしなか)軍の一大将として活躍し、その勇猛さは日本各地に伝説が残るほど、語り継がれています。ここでは巴御前と木曽義仲との数々のエピソードをお話しましょう。

「一人当千の兵なり」と記された女武将・巴御前

平安時代末期(12世紀後半)、源平合戦(源氏と平家を主勢力とした内乱)において誰よりもその名を轟かせた源氏の血を引く信濃国(長野県)の武将、木曽義仲。

彼の愛妾であり、戦場では「義仲軍の一隊の大将として活躍した」とその勇猛ぶりが語り継がれる女武者、それが巴御前です。

天下泰平を共に夢見た義仲と巴御前

源頼朝

源頼朝

木曽義仲は、鎌倉幕府を開いた源頼朝といとこの関係にあたります。

しかし、世はまさに乱世。平家を都落ちさせ源氏を勝利へと導いた最大の功労者と言える義仲は、頼朝の命を受けた弟、源義経(牛若丸)らとの戦いに破れ、31歳で近江国(滋賀県)の粟津ヶ原(大津市)で悲運の最期を迎えます。

当時の公家が残した日記や「吾妻鏡」(あづまかがみ:鎌倉時代に成立した歴史書)などから、粗野で乱暴者、あるいは逆賊という評価も受ける義仲。確かにその一面はあったのかもしれませんが、「歴史は勝者がつくる」という面があることも事実。

松尾芭蕉をはじめ後世の偉人達が語る義仲のもうひとつの側面、そして各地に残る史跡や伝承などからみた義仲と巴御前についてご紹介しましょう。

武蔵国(埼玉県)生まれ、信濃国育ちの義仲

長野県のイメージが強い義仲ですが、生まれは埼玉県です。都で、「藤原氏」、「院」、「源氏」、「平氏」が利権を求め対立しあっていた平安時代後期。源氏は一族の活路を見出すために、都から地方へと子孫を送り込み、その地の豪族と血縁関係を結ぶことで地盤を築こうとしていました。

義仲の父・「源義賢」(みなもとのよしかた)もそのひとりで、1154年(久寿元年)、武蔵国の最大勢力であった「秩父重高」(ちちぶしげたか)の娘との間に生まれたのが義仲(幼名・駒王丸)です。しかし、駒王丸がわずか2歳のとき、源氏の一族内の争い(一説には源氏の嫡流争い)で秩父氏と義賢は死去。駒王丸は母とともに信濃国木曽地方の豪族・「中原兼遠」(なかはらかねとお)のもとへと落ちのびます。

兼遠の庇護のもと、その子ども達と兄弟のようにして育った駒王丸は、木曽の山野を駆け巡り、木曽冠者義仲というたくましい若者へと成長していったのです。

義仲と巴御前との出会い

巴御前

巴御前

巴御前は、この兼遠の娘のひとり、「巴」であると言われています。歳は義仲より3つほど下で、のちに義仲の片腕となる「樋口次郎金光」(ひぐちじろうかねみつ)と「今井四郎兼平」(いまいしろうかねひら)といった兄たちとともに、義仲の従者として活躍することを夢見て、幼い頃から馬に乗り、弓や刀も操る活発な女性であったようです。

そして、共に過ごす時間の流れの中で、自然と互いを大切に思うようになったと伝えられています。

「争いのない信濃」のために

ただ、義仲と巴御前は、結局、夫婦という間柄にはなりませんでした。一説には、兼遠が、巴ではなく、おとなしい姉娘の「山吹」(やまぶき:信濃の豪族・海野氏の娘との説も)を義仲と結婚させたとか。

また、義仲自身、恩のある信濃を争いのない国にしたいと願い、他の豪族と婚姻関係を結ぶことによる勢力拡大の道を探ります。巴御前は、女性として複雑な思いを持ちつつも、愛妾という立場に留まり、共に時代を切り開く同志としての道を歩むのです。

日本各地で語り継がれる巴御前の勇猛ぶり

巴御前は、現在、日本で最も名が知れた女武者ですが、実のところ、「平家物語」に「一人当千の兵(つわもの)なり」(ひとりで多勢の敵に対抗できる並ぶ者がない強さ)と記されるほどの武勇伝を物語る確たる史料は残念ながらありません。

一方で、巴御前の塚は全国に15ヵ所も存在しており、彼女にまつわる伝承は800年のときを経た今も各地に息づいています。それゆえ、「いたとも言えるし、いないとも言える」存在なのですが、実在したと仮定して、様々な伝承から巴御前の勇猛ぶりをまとめると次のようになります。

巴御前は、色が白く、髪の長い、非常に美しい女性であったようです。その彼女がいったん戦場へ赴くと、強弓を引く剛の者となり、刀剣を持てば、相手がたとえ鬼や神でも相手にしようという女武者へと変貌。平家10万の大軍を破り、源平の勢力を逆転させた戦いとして有名な「倶利伽羅峠の戦い」(くりからとうげのたたかい)では、一隊の大将として活躍。

頼朝が派遣した鎌倉勢の大軍により義仲が非業の死を遂げた「粟津の戦い」(あわずのたたかい)でも、最後に主従わずか5騎になったとき、彩り美しい鎧を着て屈強の荒馬に乗った彼女の姿が、その中にしっかりとあったと言われています。

この戦を起こすのは天下泰平のため

さらに、こんな話も付け加えましょう。後世、多くの偉人達が、吾妻鏡など今に残る当時を記した歴史書とは一線を画す高い評価を義仲にしています。

俳人・松尾芭蕉は自らの墓を義仲が眠る「義仲寺」(ぎちゅうじ)にしてほしいと遺言し、今二人は同じ場所で眠っています。

また、文豪・芥川龍之介は義仲を「情の人」であり時代の先駆者として高く評価し、江戸期の政治家であり近世屈指の大学者と言われる新井白石は著書「読史世論」(とくしよろん)の中で、義仲は民衆のため、世直しのために戦ったと書いています。

義仲と巴御前が生きたのは、戦乱の世というより、国の秩序そのものが根底から乱れていた乱世の時代。巴御前は、信濃という一地方で生まれた女性でありながら、時代を動かすリーダーとなろうとした義仲の志を理解し、共にそれを叶えようとした画期的な人物であったとも言えるかもしれません。

「義仲最後の戦い」にみる女武将・巴御前の勇猛ぶり

木曽義仲と巴御前

木曽義仲と巴御前

平安末期の治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん:源平合戦とも呼ばれる)において、源氏側の大将として活躍した木曽義仲の愛妾であり、優れた臣下としても名を残す巴御前。

彼女の勇猛ぶりが最も伝わるエピソードをご紹介しましょう。

義仲最後の戦いの場にいた巴御前

私達が巴御前の戦いの様子に触れることができるのは、鎌倉時代に成立したとされる平家物語で木曽義仲の最期を描いた場面です。

木曽義仲は、源氏にとっては平家追討の一番の立役者と言えますが、歴史の主役に登りつめることなく31歳で悲運の最期を迎えます。義仲最後の戦いとなった粟津の戦いで、巴御前が見せた武者としての勇猛ぶりを、平家物語は短い文章ながらしっかりと描写しています。

義仲は、なぜ非業の死を遂げることになったのか?

義仲最後の戦い

義仲最後の戦い

粟津の戦いでの巴御前を語る前に、そこに行きつく流れを簡単にご紹介しましょう。

そもそも木曽義仲をはじめとする源氏が平家打倒に向け挙兵したのは、1180年(治承4年)に「後白河法皇」(ごしらかわほうおう)の皇子・「以仁王」(もちひとおう)が出した平家追討の令旨(りょうじ)を受けてのこと。

「平治の乱」以降、富と権力を持った「平清盛」(たいらのきよもり)は、後白河法皇と一時は手を取り合い共に栄華を極めますが、次第に両者の間には政治路線の違いなどにより確執が生まれ、やがて激しく対立。清盛はクーデターを起こし、法皇を幽閉して院政をストップさせます。

院政は、皇位を後継者に譲った天皇が上皇(じょうこう)となり、政務を天皇に代わり直接行なう政治形態です。以仁王は、この後白河法皇の幽閉中に全国の源氏に平清盛の追討令を出し、伊豆で源頼朝(みなもとのよりとも)、木曽で義仲、そして甲斐では武田(甲斐源氏)が挙兵します。

なかでも、最も活躍したのが義仲でした。1181年(治承5年)、越後(新潟県)の城氏(平家一族)の軍を千曲川の横田河原で撃破し、1183年(寿永2年)には越中(富山県)・加賀(石川県)の武士とともに倶利伽羅峠の戦いで平家の大軍を一夜のうちに壊滅。さらに勢いに乗って北陸道を進軍し、延暦寺も味方に付けます。結果的にこれが引き金となり、平家は都で義仲と戦うことなく、一門で都落ちする道を選ぶのです。

1183年7月、平家追討の最大の功労者として、京の都入りを果たした義仲。後白河法皇からはその功に対し、「朝日将軍」の称号を与えられます。

しかし、入京後の義仲は、法皇の不興を買ってしまうのです。混乱を極めていた都の治安回復が義仲に望まれた任でしたが、彼に追随するように都に集まってきた源氏達の狼藉が目立ち、治安が一向に良くならないことに法皇がしびれを切らしたこと、加えて次の天皇選びに関して法皇と義仲とでは異なる意見を持っていました。さらに、自分達の立場を優位にしたい公家による「義仲は武骨者。いずれ朝敵となる」という中傷が都を駆け巡ったのです。

こうした背景の中、源氏内の主権争いも絡んで法皇と手を組んだ源頼朝が、弟の「源範頼」(のりより)・義経に命じ、東から義仲討伐の鎌倉軍を都へ差し向けます。両者による最後の合戦の地となったのは、義仲が都から逃げ落ちた近江国粟津(滋賀県大津市)でした。

平家物語が記すところによると、鎌倉軍勢6万余騎に対し義仲軍勢はわずか1600騎ほどで、まさに多勢に無勢状態。最後は軍騎わずか5騎となり、もはやどうすることもできず、琵琶湖が眼前に広がる近江粟津の松原で命を落としたのです。義仲31歳、巴御前は28歳でした。

「粟津の戦い」での巴御前

巴御前は、義仲最後の戦いとなった粟津の戦いにおいても、臣下として義仲に寄り添うように戦っていました。そして、平家物語は、義仲の巴御前との最期のときをこう描写しています。

「そなたは女なのだから、早くどこでもいいから落ちて行け。我はここで討ち死にすると思う。木曽殿は最後まで女を連れていたとあっては聞こえが悪い」

巴御前はそれでも義仲の側を離れようとはしなかったが、義仲は繰り返し「逃げるように」と語り続ける。そんな義仲をみて巴御前は、「ああ、良い敵がいないだろうか。私の最期の戦いをお見せ申し上げたい」と言い、並の男でも太刀打ちできぬほどの敵を探すように待ち受けていると、武蔵国でも力持ちと名高い御田八郎師重(おんたのはちろうもろしげ)が、三十騎ばかりで現れる。

巴御前はその軍勢の中に駆け入り、御田八郎に馬をぴったりと並べ、彼をむんずとつかんで馬から引きずり落とし、自分の馬の鞍の前輪に押し付けて相手を身動き取れない状態にし、首をねじ切って捨ててしまった。その後、巴御前は武具を脱ぎ捨て、東国の方へと逃げて行った。

おそらく巴御前の思いはこうだったのではないでしょうか。義仲には妻も何人もの愛妾もいました。そんな中、巴御前は本妻になれずとも、誰よりも一番近くで義仲を支えるために武将という道を選んだのです。最後のときまで一緒だと心に決めていました。

しかし、巴御前を諭すように何度も逃げろと語る義仲をみて、自分への深い愛を感じたのでしょう。大切な人の目に、戦いに身を焦がすことで思いを捧げた自分の姿を焼き付けたかったのかもしれません。

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