甲冑(鎧兜)と武将
関ヶ原の個性的な甲冑対決(東軍)②
甲冑(鎧兜)と武将
関ヶ原の個性的な甲冑対決(東軍)②

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「関ヶ原の戦い」の「東軍」には、家康を勝利に導くため忠義の限りを尽くした「名将」達がいました。しかし、名将と称される武将は周囲を圧倒するような個性を持っているもの。それを戦場でもアピールし強さを自己演出するため、彼らは甲冑(鎧兜)に様々な装飾を施していたのです。特に兜には遠くからでもその存在を示すことができるように、奇抜な意匠が用いられた「変わり兜」が多く見られます。ここでは、関ヶ原で大いに武功を挙げた東軍の4人の武将が身に付けていた変わり兜を中心に、それぞれの甲冑(鎧兜)に込められた思いやエピソードを、甲冑(鎧兜)を通して見ていきます。

いかにも強そうな榊原康政の甲冑

三鈷剣が際立ち威厳が漂う戦装束

黒糸威二枚胴具足

黒糸威二枚胴具足

徳川四天王のひとりとして徳川家康の多くの戦を支えた「榊原康政」(さかきばらやすまさ)。家康からも厚い信頼を受けた康政が身に付けたのは「黒糸威二枚胴具足」(くろいとおどしにまいどうぐそく)」と「紺糸威南蛮胴具足」(こんいとおどしなんばんどうぐそく)」です。

前者は、金箔を施した長大な「三鈷剣」(さんこけん)の前立(まえだて)が勇ましい鉄錆地六十二間(てつさびじろくじゅうにけん)の筋兜、黒漆塗の鉄板の左脇に蝶番(ちょうつがい)を取り付けた二枚胴、黒漆塗の板物を黒糸で素懸威(すがけおどし:2本ずつ間隔を空けて威毛を威す[小札板を上下に結び合わせること]方法)にした草摺(くさずり)と、シンプルながら威厳を持たせた構成になっている甲冑(鎧兜)。

また、兜の吹返(ふきかえし)、胴の正面と杏葉(ぎょうよう:肩上[わたがみ:胴を肩部から吊るす部分]に付けられた鉄の板)には、金箔で榊原家の家紋である源氏車(げんじぐるま)が配してあります。兜の前立の三鈷剣は、インド密教の不動明王を表す祭神具のひとつ。決して家康より目立つことなく、それでいて威厳を漂わせる康政らしい具足です。

後者は、西洋風の兜と胴が特徴で南蛮貿易によって日本に紹介された西洋の甲冑(鎧兜)を模して国内で作られた甲冑(鎧兜)。兜には錣(しころ)とヤクの毛が取り付けられ正面と左右には、やはり家紋である源氏車が施されています。

南蛮胴は正面中央部が鋭角的に盛り上がっているため、鉄砲に対して防御力が高いようですが、その一方で重くて高価な物でした。家康がそういった南蛮胴を愛用しており、康政の紺糸威南蛮胴具足は関ヶ原の戦い前に家康から拝領したと伝えられています。

家康・秀忠の重臣として仕えた生涯

徳川家康

徳川家康

康政は、1548年(天文17年)に三河国(みかわのくに:現在の愛知県東部)で生まれ、幼名を於亀(おかめ)、通称を小平太(こへいた)としていました。13歳のとき「松平元康」(まつだいらもとやす:のちの家康)に気に入られて小姓となり、元康が「三河一向一揆」(みかわいっこういっき)を鎮圧する際に16歳で初陣を果たしました。これにより元康から「康」の字を賜り「康政」と名乗るようになります。

そのあとも康政は家康に重用され、ときには護衛として、ときには軍勢の指揮官として才能を発揮。家康から絶大な信頼を得るようになったのです。達筆でも有名で、家康の書状もよく代筆したと考えられています。

豊臣秀吉」(とよとみひでよし)により家康が関東に移封されると、康政も共に関東へ移り関東総奉行を任されました。そして江戸城の修築や、利根川(とねがわ)の堤防工事などを行なった他、館林(たてばやし:現在の群馬県館林市)の地で館林藩を立藩したのです。

関ヶ原の戦いで康政は「徳川秀忠」(とくがわひでただ)軍の軍監(ぐんかん:軍隊の監視・監督役)に就きましたが、上田城(うえだじょう:現在の長野県上田市)攻めに手を焼くことに。さらには家康からの上洛を促す連絡が悪天候によって遅れ、秀忠軍は合戦に間に合わなかったのです。

その失態に激怒した家康は秀忠との対面をしばらく許しませんでした。しかし、康政が家康を説得し続け、秀忠はようやく家康との対面を果たしたのです。康政の取り成しに秀忠はとても恩義を感じたとされています。

関ヶ原以後に康政は秀忠付きの老中に就任。やがて館林城に居を構えましたが、家康が秀忠に将軍職を譲った翌年の1606年(慶長11年)に病死しました。

無の旗印と兜との関係

康政は出陣のとき、自分の部隊の旗印に「無」の文字を配しています。その意味はいまだ解明されていませんが、康政が愛用した兜にそのヒントがあるかもしれません。

黒糸威二枚胴具足の兜に付属している前立の三鈷剣は、不動明王が持っているとされる物。魔物を退けて煩悩や因縁を断ち切ると言われています。これは、康政が私利私欲を捨てて主君に忠誠を尽くす意思表示のために用いたと考えられているのです。戦地で有利にことが運んでも手柄や褒美などを考えず、ただ無心に敵を倒すこと。

また、不利な状況でも心を乱したり焦ったりしないよう達観的に臨むこと。その想いを心がけるように無という一文字を掲げて采配を振ったと推測できます。

さらには、自分の家臣へ日常生活においても戦場と同じく心を引き締めるようにと言い渡していたのです。過酷な戦地や困難な戦況でも常に冷静に判断し、知略を尽くして主君を守った康政。無の旗印と兜の装飾はその極意を示しています。

恩師や仲間と戦った黒田長政の甲冑

独特な兜は源平合戦でも有名な「一の谷」が由来

銀箔押一の谷形兜・黒糸威胴丸具足

銀箔押一の谷形兜・黒糸威胴丸具足

安土桃山時代から江戸時代にかけて活躍した武将「黒田長政」(くろだながまさ)。1600年(慶長5年)に起きた関ヶ原の戦いで身に付けていたのは、「銀箔押一の谷形兜」(ぎんぱくおしいちのたになりかぶと)「黒糸威胴丸具足」(くろいとおどしどうまるぐそく)とされています。

特に目を引くのは兜であり、この兜の素材がすべて銀であれば相当な重さが予想されますが、「銀箔押」とある通り薄い板に銀箔を押した構造のため重量は約3kgと、それほど重くはありません。

この兜は長政の前に「福島正則」(ふくしままさのり)が、さらにその前は天才軍師「竹中半兵衛[重治]」(たけなかはんべえ[しげはる])が持ち主だったとされている物。兜の名前にある一の谷とは源平合戦で有名な場所で、源氏が険しい山を馬で駆け下りて平氏を奇襲した「鵯越の逆落とし」(ひよどりごえのさかおとし)の古戦場です。

銀箔押一の谷形兜は一の谷の断崖絶壁を表現しており、軍師であった半兵衛が源氏の勝利にあやかって作らせたのではないかと考えられています。

銀箔押一の谷形兜は福島正則からの和解の品

長政と正則は共に豊臣秀吉に仕えていましたが、朝鮮出兵に関するいざこざで仲違いしてしまいました。そののち、帰国してから和解することになり、仲直りの証しとしてお互いの兜を交換します。このときに正則から長政に渡されたのが「銀箔押一の谷形兜」でした。当時の武将達の間では、和解や友情の証しとして刀や兜を交換することは珍しくはなかったようです。

秀吉の没後、紆余曲折を経て徳川家康との仲を深めていった長政と正則。関ヶ原の戦いでは同じ東軍として戦いました。その際にも長政は一の谷の兜を身に付けており、自身の肖像画にもこの兜を着用している姿が描かれています。

豊臣秀吉の家臣だった黒田家がなぜ東軍に付いたのか

黒田官兵衛

黒田官兵衛

長政は関ヶ原の戦いでは東軍に付いて、実際の合戦だけでなく調略(ちょうりゃく:策略を巡らせて敵に内通させるなど、政治的工作を行なうこと)でも活躍しました。

しかし、父親の「黒田官兵衛[孝高/如水]」(くろだかんべえ[よしたか/じょすい])が豊臣秀吉のお抱え軍師として頭角を現したことを考えると、幼少の頃から小姓として秀吉に取り立てられた「石田三成」(いしだみつなり)率いる西軍にいてもおかしくはありません。

官兵衛が隠居したあと黒田家の家督を継いだ長政は、秀吉の家臣として奮闘。朝鮮出兵にもかかわっていますが、成果はあまり思わしくありませんでした。そして、様々な要因から秀吉の忠臣であった三成と対立していきます。

その一方で、徳川家康から目をかけられるようになり、さらには家康の養女「栄姫」(えいひめ)との結婚が決定。徐々に家康側へと引き込まれていったのです。

関ヶ原の戦いが起こったのは、秀吉が亡くなってからまだ間もない2年後のことでした。「豊臣家vs徳川家」という図式であれば、いくら家康がときの権力者だと感じても、豊臣家に忠誠を誓った多くの武士が西軍に付いていたはずです。しかし、家康はさすがの策略家。秀吉の後継者でありながらまだ幼かった秀頼(ひでより)の後見人にふさわしい人物を決める「三成vs家康」という図式に持ち込みました。

「豊臣家には忠誠を誓うが、三成に誓った訳ではない」。関ヶ原の戦いは、そのような武士達の心中を察した家康の戦略勝ちと言えます。長政は黒田家当主として生き残るためにも、ときの権力者に近づき一の谷の兜を身に付け、三成討伐という名目で東軍に加わったのではないでしょうか。

合戦での長政は黒田隊として三成の本陣に攻め込み、その裏では関ヶ原の勝敗を決定付けたとも言われる西軍であった「小早川秀秋」(こばやかわひであき)の寝返りにかかわったと伝えられています。このようなことからも、長政が武勇・智略に優れた武将であったことが窺えるのです。

元々の兜の持ち主、竹中半兵衛は命の恩人

幼少期の長政(幼名は松寿丸[しょうじゅまる])は、父・黒田官兵衛が織田信長に仕える際に人質となり、織田家の家臣であった秀吉のもとで暮らしていました。

官兵衛は、のちに軍師として名を馳せますが、信長に仕え始めた当初はまだ若かったため、信長から命じられていた「荒木村重」(あらきむらしげ)への調略に失敗したあげく、村重により有岡城(ありおかじょう:現在の兵庫県伊丹市)に幽閉されるというできごと(有岡城の戦い)がありました。しかし、官兵衛が幽閉されたことを知らず、長いあいだ戻らないことを裏切りだと捉えた信長は嫡男である長政の処刑を命じます。

竹中半兵衛

竹中半兵衛

秀吉の軍師であった竹中半兵衛は、その話を聞いてとっさに長政を匿い、信長には「処刑した」と偽って報告。幽閉されていた官兵衛が救い出されるまでの間、長政は半兵衛の保護下で過ごしました。官兵衛が有岡城から救出され父と子が再会した頃は、すでに半兵衛はこの世を去ったあと。官兵衛自らの説明で裏切りについての誤解が解かれたこともあり、処刑についてそれ以降問われることはなかったようです。

半兵衛の亡きあと、一の谷の兜は福島正則の手に渡り、正則から長政のもとへ。おそらくそのときには命の恩人である半兵衛の兜だったと聞いていたことでしょう。その兜を被り、さらに半兵衛の嫡子・重門(しげかど)と共に関ヶ原の戦いに挑んだ長政。半兵衛への恩義が不思議な縁を繋いだのかもしれません。

黒田長政から譲り受けた福島正則の甲冑

福島正則の兜は黒田長政が最も愛用した物

黒漆塗桃形大水牛脇立兜

黒漆塗桃形大水牛脇立兜

豊臣秀吉の子飼いと言われる福島正則。秀吉の従兄弟だったという説もありますが、正則の両親や福島家の家系など出自については明らかではありません。分かっていることは、秀吉の家臣として数々の戦で功績を挙げたことです。

正則は武勇に長けた猛将でしたが、やや短気なところがありました。黒田長政としばらく険悪な仲になってしまったのも、彼のそのような気質が原因だったのかもしれません。

長政との和解の証しとしてお互いの兜を交換したとき、正則が譲り受けた物が「黒漆塗桃形大水牛脇立兜」(くろうるしぬりももなりおおすいぎゅうわきだてかぶと)です。鉢は黒く吹返は朱塗り、前立として黄金の日輪が付けられ、左右に脇立として大きな水牛の角が伸びているこの兜からは勇ましく華やかな印象を受けます。長政は、このように特徴的な大水牛の脇立兜を非常に好み複数の物を所持、様々な合戦で着用していました。大水牛の兜は長政以降の黒田家当主はもちろん、その重臣たちも用いていたとも言われているのです。

正則の物となったこの兜ですが、黒田長政所用として「福岡市博物館」に収蔵されています。正則の死後には黒田家に戻され、それ以降、黒田家のシンボルになったのかもしれません。

秀吉のもとで軍功を挙げて大名へ

福島正則

福島正則

正則は、幼少の頃に羽柴(豊臣)秀吉の小姓として仕え始めました。しかし、出自と同様に小姓となった経緯や時期など、その詳細は不明です。

正則が初陣を飾ったのは、1578年(天正6年)、秀吉による播磨(はりま:現在の兵庫県南西部)征伐のときとされています。秀吉が「明智光秀」(あけちみつひで)を討伐して勢力を拡大したあと、秀吉と「柴田勝家」(しばたかついえ)が対立して起きた「賤ヶ岳の戦い」(しずがだけのたたかい)で正則は「加藤清正」(かとうきよまさ)らと共に奮戦。

その際に活躍した7人の武将達が「賤ヶ岳の七本槍」(しずがだけのしちほんやり)と謳われ、正則はその中のひとりに数えられました。当初のメンバーは9人いましたが、そのうちの2人が相次いで戦死や病死となったため、最終的に「七本槍」としてまとめられたと伝わっています。

賤ヶ岳で一番首という功績を挙げた正則は、他の七本槍の武将への恩賞が3,000石であったのに対して、5,000石を与えられました。このことから正則は、秀吉から他の武将とは区別して扱われ、特別に目をかけられたことが窺えます。これ以降、「小牧・長久手の戦い」(こまき・ながくてのたたかい)や四国征伐、九州征伐にも参戦し、伊予国今治(いよのくに・いまばり:現在の愛媛県今治市)11万石の大名となりました。

秀吉の忠臣として軍功を挙げ大名となった正則。ところが秀吉が亡くなり、豊臣家臣団の重鎮であった「前田利家」(まえだとしいえ)も亡くなると状況が一変。あくまで豊臣家を中心とした中央集権国家を目標とする石田三成と考えが合わず、正則は加藤清正らと共に三成の屋敷を襲撃。このとき徳川家康の取り成しで事態が収束したため、家康と正則は次第に懇意な間柄となっていったのです。

最期まで豊臣家のことを想った忠臣

豊臣秀吉と前田利家の死後、徳川家康は様々な大名と近づくために、婚姻関係を利用します。福島正則もそのひとりでした。石田三成の襲撃事件の取り成しについて、家康に恩義を感じていた正則は、自身の養子・正之(まさゆき)と家康の養女を結婚させたのです。

関ヶ原の戦いでは家康率いる東軍として参戦し、戦場では西軍の副大将「宇喜多秀家」(うきたひでいえ)と激しく戦闘。合戦後には広島藩(現在の広島市)50万石を得ました。関ヶ原の戦いに勝ち、家康はついに天下を治めます。しかし、秀吉の嫡男・秀頼は着実に成長していました。秀頼を脅威に感じた家康は、豊臣家の滅亡を画策したのです。

まずは、寺院の造営などをしきりに秀頼にすすめて蓄えが底をつくように仕向け、さらに秀頼に仕えた唯一の有力大名、「片桐且元」(かたぎりかつもと)が側から離れるように策略。家康の思惑通りに且元は大坂から追放されます。これを利用して家康は、「且元は殺されそうになり大坂を離れた。大坂の謀反はまぎれもない」と言い、大坂城を攻める口実にしたのです。

その後、1614年(慶長19年)に「大坂冬の陣」が起きるまで、正則は何もしなかった訳ではありません。家康が大坂城を攻めるための手配中、正則は家康から江戸に留まるよう命じられます。

そこで正則は「秀頼母子が反心したのではなく、若輩の近臣から扇動されたのではないか。秀頼母子へ書を送って諫めようとしている」という内容の書簡を家康に送ったのです。秀頼母子にも書簡を送りますが正則の配慮は力及ばず、事態は戦へと突き進みました。そして大坂の陣により豊臣家は滅亡したのです。

1615年(慶長20年)の「大坂夏の陣」の翌年、正則は広島へ帰ることが許されました。ところが1617年(元和3年)に広島城が大災害に見舞われたため、正則は城の修復を急ぎ、このことが「将軍の許可を得ていない」問題に発展します。修復した箇所を取り壊すよう命じられますが、その一部分のみを取り壊したあとそれ以外は先延ばしにしていたため、50万石を没収されてしまいました。

そののち、福島家は津軽4万5,000石に減転封され、正則は失意のうちに亡くなり福島家もいったんはお取り潰しとなったのです。このような最期を迎えたせいか、正則の甲冑(鎧兜)も多くは残されなかったと考えられます。

真っ直ぐで清々しい、加藤清正の甲冑

長烏帽子形兜を愛用した加藤清正

蛇の目紋長烏帽子形兜・白檀塗蛇の目紋蒔絵仏胴具足

蛇の目紋長烏帽子形兜・白檀塗蛇の目紋蒔絵仏胴具足

賤ヶ岳の七本槍に数えられ朝鮮出兵での活躍など、豊臣政権の武断派で有名な加藤清正ですが、そんな清正のトレードマークとも言える変わり兜は長烏帽子形。清正が所用していたとされる烏帽子形の兜は複数存在しており、その代表的な物のひとつが、「蛇の目紋長烏帽子形兜」(じゃのめもんながえぼしなりかぶと)。そして具足は、「白檀塗蛇の目紋蒔絵仏胴具足」(びゃくだんぬりじゃのめもんまきえほとけどうぐそく)です。

張懸(はりかけ:和紙や革などを張り合わせて、強度を維持するために上から漆を塗る技法)にした和紙が斜め後方に長く伸びた、烏帽子形が特徴的な兜の左右と鮮やかな朱色の胴には、金色の「蛇の目紋」が配されています。蛇の目の家紋は日蓮宗の開祖・日蓮が使っていた物で、熱心な日蓮宗の信者であった清正も影響され、自らの家紋にしたとも言われているのです。

同じ長烏帽子形兜でもうひとつ有名な物が、高さが2尺5寸(約75cm)もある「銀箔押長烏帽子形張懸兜」(ぎんぱくおしながえぼしなりはりかけかぶと)です。こちらも和紙を張懸にした兜で、黒漆の上に銀箔が押され、その両側には朱塗りで日の丸(日輪)が描かれています。日の丸はもしかすると、日蓮宗の僧である日輪を意識したのかもしれません。

この兜は清正が朝鮮出兵の際、蔚山(ウルサン/いさん)での戦いで着用したという記録もあります。朝鮮の人々からは「鬼上官」と呼ばれ恐れられていた清正。彼の身の丈は、6尺3寸(約190cm)もあり、さらに長烏帽子形兜を被った姿は2mを超え、まさに鬼神のごとく見えたと伝わっているのです。

豊臣秀吉への恩義と忠義心

加藤清正

加藤清正

豊臣秀吉の母・大政所(おおまんどころ)の従姉妹である母を持つ清正は、その縁もあり12歳の頃から秀吉の小姓となりました。親戚として秀吉に可愛がられた清正は、その期待に応えようと生涯をかけて忠義を尽くすことを誓います。

賤ヶ岳の戦いで敵将の「山路正国」(やまじまさくに)を討ち取り、賤ヶ岳の七本槍のひとりとして認められた清正。その数年後、秀吉の九州平定にしたがい、27歳の若さで肥後北東部の領主になったのです。

このときに秀吉は、肥後半国と四国の讃岐国(さぬきのくに:現在の神奈川県)のどちらの土地が良いかを清正に選ばせています。その中で清正が肥後を選んだ理由は、今後、秀吉が朝鮮へ攻めて行く際の尖兵(せんぺい:軍の最前で敵の警戒や偵察の任務に当たる部隊)になるためであったと言われているのです。

朝鮮出兵が始まると、清正は朝鮮の王子2人を捕虜にするなど数々の武功を挙げます。しかし、朝鮮との講和の際、秀吉の主張する条件を通そうとする清正と、それを無視してでも和睦をしようとする「小西行長」(こにしゆきなが)と対立することに。小西は秀吉に虚偽の報告をして清正を陥れようと図り、また、これ以上戦いを続けることは不利だと考える石田三成も小西を支持したため、清正は謹慎処分となり京に戻されてしまいます。

そして清正の帰国後、京都や堺で多くの死者を出したと言われる「慶長伏見地震」(けいちょうふしみじしん)が起きると、秀吉の身を案じた清正は伏見城(現在の京都市伏見区)に急ぎ駆け付けました。謹慎中の勝手な行動は切腹を命ぜられてもおかしくはありません。それでも主君への忠義を尽くそうとした清正に秀吉は感激し、謹慎を解き許したと伝えられる逸話があり、「地震加藤」という歌舞伎や落語の演目にもなっています。

秀吉が亡くなると清正は徳川家康に近づき、関ヶ原の戦いでも東軍側に付きました。しかし、秀吉と豊臣家を思う気持ちは変わらず、家康と豊臣秀頼との会見で和解を斡旋するなど、豊臣家のために尽力したのです。

今でも愛される「せいしょこさん」

その勇ましい甲冑(鎧兜)姿から屈強なイメージが強い清正ですが、刀鍛冶であった父の影響もあったのか芸術的なセンスも備わっていました。清正は築城の名手としても知られ、熊本城をはじめ蔚山倭城(ウルサンわじょう/いさんわじょう:現在の大韓民国蔚山広域市)、江戸城、名古屋城など、その技術を活かして普請工事に携わったのです。

清正の名前が当てられた熊本城の石垣「清正流石組み」(せいしょうりゅういしぐみ/きよまさりゅういしぐみ)は、反り返る石垣で敵が登れない「武者返し」とも呼ばれ、下は緩やかで上に行くほど角度がつく勾配に石を組む特殊な技術で造られています。

そして、荒廃していた肥後国の河川工事や灌漑事業などを積極的に行ない、畑作地域の拡大や農業用水路の確保も推し進めました。これらの工事などは主に農閑期に行なわれ、また、賃金も支払われたので領民も快く協力したと言われているのです。

熱心な日蓮宗法華経の信者であった清正は、その題目「南無妙法蓮華経」(なむみょうほうれんげきょう)を軍旗にも掲げるほどで、長烏帽子形兜の前立にも描かれていたという説もあります。

人やすべての生き物、植物も大地にも「仏の心」があるとの法華経の教えを信じ、主君である豊臣秀吉から拝領した肥後北東部の土地と、その領民達を本当に大切に思っていたのかもしれません。そのためか、当時の肥後人から清正への信頼も厚く崇敬を集めていました。熊本の町づくりに多大な貢献をした加藤清正。その功績に感謝し、今では熊本の人々から「清正公さん」(せいしょこさん)と親しみを込めて呼ばれています。

関ヶ原の個性的な甲冑対決(東軍)②

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