代表的な甲冑(鎧兜)
当世具足②
代表的な甲冑(鎧兜)
当世具足②

文字サイズ

「当世具足」(とうせいぐそく)には、槍や鉄砲などのこれまで以上に貫通力の強い武器による敵の攻撃から身を守ることが求められました。そこで胴の材料として、主に用いられていたのが鉄板などの堅固な素材。これらを用いた胴は「板物胴」(いたものどう)と呼ばれ、それまでとは異なる方法で制作されていたのです。ここでは、当世具足の胴制作の主流となっていた板物胴について詳しくご紹介します。

板物胴の導入

戦乱の世となった室町時代後期から戦国時代にかけては、戦における武器の殺傷能力も格段に進歩しました。刀剣では「薙刀」(なぎなた)などの「打ち付ける」物が主に用いられていたのに対して、「突き刺す」槍が用いられるように。そして「飛び道具」では弓に比べて攻撃力が大きく上回る鉄砲が伝来し、各武将は「新兵器」を導入します。

これにより、従来用いられていた「小札」(こざね)を威す(おどす:つなぎ合わせる)方法によって制作された防具では、敵の攻撃を防ぐことが難しくなったのです。そこで、生命・身体を守るために考えられたのが、堅固な板を胴の素材にすることでした。板物胴が制作された背景には、戦闘の大規模化による大量生産の要請もあったと考えられます。

すなわち、それまでの小札を大量に威す方法による胴制作では、小札の数は膨大な数に上るため、作業に手間がかかり大量生産は不可能。他方、板物胴では胴の材料となる板物が1枚ではない場合であっても、その数は小札に比べて少ないため、つなぎ合わせる作業が格段に少なく、また、同じ規格で複数の具足を作ることが容易である点で、大量生産に向いていました。

加えて当世具足の時代においては、着用者の身分に従った甲冑様式の差異がほとんどなかったことも、板物胴の普及を後押ししたのです。

最上胴

最上胴

最上胴

「最上胴」(もがみどう)は、横板を順番に重ねて最もシンプルに糸で威していく「素掛威」(すがけおどし)の手法でつなぎ合わせて制作された胴。この手法は、室町時代後期に最上地方(現在の山形県)で制作されていた「最上胴丸」(もがみどうまる)の流れを汲む物でした。

また、4ヵ所を蝶番でつなぐ手法は多様な様式を誇る当世具足の発展に資すると共に、柔軟性に優れた小札ではなく柔軟であるとは言えない横板を威して胴を制作することが可能に。

これにより、作業工程が大幅に短縮され、当世具足に求められていた大量生産の道を開いたのです。この意味において最上胴が当世具足の先駆けとなったとも言えます。

横矧胴

「横矧胴」(よこはぎどう)は、札板を鋲留(びょうどめ)などの方法で横向きにつなぎ合わせて制作した胴のことで、当世具足における胴の制作で、最も多く見られるとされる形式のひとつです。その外形が後述する「縦矧胴」(たてはぎどう)と共に、桶の側面に似ていることから「桶側胴」(おけがわどう)とも呼ばれ、札板には鉄板や革板が用いられました。

代表的な例として「井伊の赤備え」として知られている井伊家の兵士が所用していた「朱漆塗二枚胴具足」(しゅうるしぬりにまいどうぐそく)が挙げられます。

縦矧胴

縦矧胴は、札板を縦につなぎ合わせて制作した胴。現存例は上述した横矧板よりも少ないと言われています。

雪下胴

雪下胴

雪下胴

「雪下胴」(ゆきのしたどう)は、「小田原」を拠点とした「北条早雲」(ほうじょうそううん)を始祖とする「後北条氏」(ごほうじょうし)の時代に、鎌倉・雪下在住の甲冑師によって制作された胴。5枚の鉄板を蝶番でつなぎ合わせた形式で、防御力にすぐれた堅固な作りだった半面、かなりの重量があったのです。

雪下胴が花開いたのは、1590年(天正18年)に後北条氏滅亡したあと仙台を拠点としていた「伊達政宗」(だてまさむね)が、雪下の甲冑師に甲冑制作を依頼し、その仕上がりに感心して召し抱えたことがきっかけでした。

雪下胴の代表例として挙げられるのは、仙台市博物館所蔵の国指定重要文化財「黒漆五枚胴具足」(こくしつごまいどうぐそく)。この具足は、初代仙台藩主・伊達政宗が所用していた物で、質実剛健の気風を体現しています。

その後、仙台藩においては、この黒を基調とした雪下胴の具足が有事(戦争)の際におけるユニホームとなりました。このことから、別称として「仙台胴」とも呼ばれたのです。

また、仙台藩以外でも土佐藩や肥前藩などでも好んで用いられ、土佐藩の山内家において「刀は備前、具足は雪下」と言われるほど優れた性能を有していました。

南蛮胴

「南蛮胴」(なんばんどう)は、ポルトガルやスペイン、オランダなどとの「南蛮貿易」によってもたらされた西洋式の甲冑の胴に「草摺」(くさずり)などの「小具足」(こぐそく)を付属させて制作された胴です。南蛮胴は鉄板を打ち出して前胴と後胴を作った「2枚胴」で、前胴の中央に「鎬筋」(しのぎすじ)が立っているのが特徴。胴の下部分がやや膨らんで前に出る形をしています。

日光東照宮

日光東照宮

南蛮胴の代表例としては、国指定重要文化財の「南蛮胴具足」があります。「徳川家康」(とくがわいえやす)が所用したこの具足は、西洋の甲冑の胴と兜をそのまま使用し、これに日本製の小具足を付属させた典型的な南蛮胴の形式を有している物。現在は栃木県の「日光東照宮」(にっこうとうしょうぐう)が所蔵しています。

一枚張打出胴

一枚張打出胴

一枚張打出胴

「一枚張打出胴」(いちまいばりうちだしどう)は、前胴と後胴をそれぞれ1枚の鉄板で制作し、左脇部分を蝶番でつなぎ合わせて連接した2枚胴。この形式の胴として挙げられるのが「和製南蛮胴」(わせいなんばんどう)、「仏胴」(ほとけどう)などです。

また、仏胴についてはその構造や意匠などにより、さらに分類することが可能。当世具足の中でも個性的な意匠の胴は、ほとんどがこの仏胴に属する物であると言えます。

和製南蛮胴は、上述した南蛮胴具足の形式を模倣し、これに日本文化の風合いを加味した和洋折衷形式とでも言うべき胴。南蛮胴具足は当初、南蛮渡来の甲冑(プレート・アーマー)を流用して制作していたため、日本人のサイズに合っていないという使い勝手の悪さがありました。そこで、日本人の体格に合ったオリジナルの南蛮胴として制作されたのが和製南蛮胴。その代表的な物として「東京国立博物館」所蔵の「南蛮胴具足」があります。

仏胴は胴の表面に継ぎ目が見えない形式の胴で、前胴と後胴をそれぞれ1枚の鉄板で作った形式の物と、桶側胴の継ぎ目を埋めることで平らにした物があります。

前者は胸高に鎬筋が立っている「鳩胸胴」(はとむねどう)、肋骨、乳房、へそなどを打ち出した「仁王胴」(におうどう)、肋骨の形を打ち出した「肋骨胴」(あばらどう)、前胴の下部をふくらませた「布袋胴」(ほていどう)などに分かれます。

後者は、仏胴には横矧した部分に漆を塗ることで表面の下地を滑らかにして黒漆などを塗る「塗上仏胴」(ぬりあげほとけどう)、及び表面を皮革や織物で包むことで平らにした「包仏胴」(つつみほとけどう)が存在。

これらは厳密には1枚の鉄板で制作された訳ではありませんが、前胴表面の継ぎ目が埋められて1枚板で作られているように見えるため、仏胴に分類されるのです。

当世具足②

当世具足②をSNSでシェアする

このエントリーをはてなブックマークに追加
このエントリーをはてなブックマークに追加

「代表的な甲冑(鎧兜)」の記事を読む


大鎧①

大鎧①
平安時代に入ると「短甲」(たんこう)、「挂甲」(けいこう)に代わって「大鎧」(おおよろい)が登場します。その理由は、戦い方の変化。騎馬武者が戦いやすいよう改良が加えられた結果、鎧は日本独自の進化を遂げていきました。現存する大鎧の中で、最古の物とされているのは愛媛県「大山祇神社」(おおやまづみじんじゃ)所蔵の「沢潟威鎧」(おもだかおどしよろい)。この一領が、国内外において古美術品や工芸品として高く評価されている「日本式甲冑」の出発点であると評価することができるのです。ここでは、鎌倉時代より前に制作された大鎧の中で、国宝に指定されている物を中心にご紹介します。

大鎧①

大鎧②

大鎧②
日本刀や槍、弓などが攻撃用の武器であるのに対して、甲冑(鎧兜)は自身の身を守る防具(武具)です。平安時代に登場した日本特有の甲冑「大鎧」は、時代を経るにつれて形や性能も変化していきました。当初、大鎧は裾広がりの豪壮な形状でしたが、鎌倉時代頃になると、腰の辺りを絞るように。その目的は、25kgはあると言われている大鎧の重量を肩だけで支えるのではなく、腰の部分でも支えることで、着用者が長時間、馬上で動きやすくすることでした。また、鉄板に絵韋(えがわ)を貼り付けた脇板で左脇の下をカバーすることで隙間をなくし、さらに守りを固めたのです。もっとも、室町時代以降は大鎧の実戦使用は皆無に。ここでは鎌倉時代、南北朝時代に制作された国宝の大鎧、及びそれ以降に制作された代表的な大鎧をご紹介します。

大鎧②

大鎧の機能

大鎧の機能
「大鎧」は、平安時代に登場した「日本式甲冑」。その最大の特徴は、「騎射戦」(きしゃせん)での防御力に優れていることです。大鎧の造りは頑丈で、大きめの箱の中に身体を入れる感じで着用されていました。もっとも、どれだけ頑丈な造りであっても、完全無欠という訳ではなく、隙ができてしまっていたのも、また事実。ここでは、いかにして大鎧の防御力を確保したのかについて、その付属品の機能を通して考察します。

大鎧の機能

胴丸鎧

胴丸鎧
愛媛県にある「大山祇神社」(おおやまづみじんじゃ)には、「大鎧」(おおよろい)と「胴丸」(どうまる)の折衷型のような鎧が所蔵されています。それが国宝「赤糸威胴丸鎧」(あかいとおどしどうまるよろい)。「胴丸鎧」(どうまるよろい)の存在については、「平治物語絵巻」などの合戦絵巻のなかで描かれていることで知られていますが、現存しているのは大山祇神社所蔵の赤糸威胴丸鎧1領のみ。ここでは、幻の鎧とでも言うべき胴丸鎧についてご紹介します。

胴丸鎧

胴丸・腹当・腹巻

胴丸・腹当・腹巻
平安時代初期まで、武装して甲冑を着る人は「高級武官」が中心でした。ところが、平安時代中期に「武士」が誕生すると、社会体制が変化。武士は武士団を結成し、互いに闘争をはじめます。朝廷は、武士団の実力を認め反乱を抑えようと、宮中や地方などの警護・警備を任せ、治安維持に当たらせるようになるのです。さらに武士は「上級武士」、「一般武士」、「下級武士」へと細分化。ここでは、上級武士が着用した「大鎧」に代替する甲冑として注目された「胴丸」、「腹当」、「腹巻」について詳しくご紹介します。

胴丸・腹当・腹巻

当世具足①

当世具足①
平安時代に登場した「大鎧」(おおよろい)から始まった「日本式甲冑」の系譜は、室町時代末期に大きな転換期を迎えました。それが「当世具足」(とうせいぐそく)の登場です。今の世の中を意味する「当世」と、十分備わっていることを意味する「具足」を呼称としているこの甲冑(鎧兜)は、構造、意匠、素材などにおいて多種多様であり、定まった物がないという風変わりな物。ここでは、それまでに制作されていた日本式甲冑とは一線を画した、新様式の甲冑(鎧兜)である当世具足について概観します。

当世具足①

当世具足③

当世具足③
「当世具足」(とうせいぐそく)における胴の主流は、(鉄)板を用いた「板物胴」(いたものどう)でしたが、それ以外の材料でも制作されていました。その他の代表的な材料として挙げられるのが、鉄や革などで作られている「伊予札」(いよざね)。この札の両端を浅く重ね合わせて綴じていく手法は、従来に比べ、つなぎ合わせる作業を簡易に行なえることもあり、当世具足制作の現場でも用いられていたのです。ここでは伊予札製の胴をはじめとした、板物胴以外の制作について考察します。

当世具足③

注目ワード

ページトップへ戻る