甲冑(鎧兜)と武将

天海と甲冑

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天海は天台宗の僧で、「南光坊天海」(なんこうぼうてんかい)や「知楽院」(ちらくいん)とも呼ばれています。僧侶であるにもかかわらず、ひときわ存在感のある甲冑を身に付けていた天海。ここでは、徳川家から信頼を得ていた天海という人物を甲冑を通して見ていきます。

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歴史的に価値の高い甲冑(鎧兜)や面頬などを名前や種類から検索することができます。

存在の大きさを現わしたかのような天海の甲冑

麒麟前立付兜

麒麟前立付兜

徳川家康」、「徳川秀忠」、「徳川家光」と、将軍3代にわたって重用された、天台宗の僧侶「天海」(てんかい)。

僧侶でありながら、「関ヶ原の戦い」にも参陣したとも言われ、その様子は「関ヶ原合戦図屛風」にも残されています。

天海所用とされる甲冑は、「銀小札萌黄糸威二枚胴具足」(ぎんこざねもえぎいとおどし にまいどうぐそく)と付属する「麒麟前立付兜」(きりんまえだてつきかぶと)。

の額にはその名の通り、想像上の生き物である「麒麟」が前立として載せられ、脇立としては朱塗りの水牛の角が伸びています。

そして、観る者をハッとさせるほどの特徴は、その胴の背面に付けられた巨大な半月状の指物。異様にも観えるこの甲冑の姿は、天海の謎に満ちた半生と、その存在の大きさを現わしているようです。

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徳川3代に仕えた長寿・天海の半生

天海

天海

偉大な僧侶として、尊敬されていた天海。

その理由のひとつに、当時としては「異常なほどの長寿」であったことも関係しているのかもしれません。

1643年(寛永20年)に亡くなった天海は、108歳であったと言われています。

しかし、徳川家康との親交が深まった晩年からその名が知られるようになったため、その前半生について詳しくは分かっていないのです。

生まれ年についても諸説あり、なんと132歳まで生きたという説もあるほど。

そんな若き日の天海について、通説によれば、陸奥国会津高田(現在の福島県)の生まれで、この土地の名族である「蘆名」(あしな)氏の一族であったとされています。

11歳の頃に出家して「随風」(ずいふう)と名乗り、14歳になると各地へ修行の旅に出掛け、天台宗を学びました。

さらに、比叡山、三井寺、戦国時代の最高学府とも言われる「足利学校」などで、儒学・漢学・易学・天文学・国学・医学・兵学など幅広い学問を習得。これがのちの活躍にも繋がっていくのです。

その後、「武田信玄」に招かれ、甲斐国(現在の山梨県)に定住するのですが、優秀であった随風の噂は故郷にも伝わり、蘆名家当主であった「蘆名盛氏」(あしなもりうじ)に要請され、会津に戻ることに。そして、黒川城の稲荷堂の別当(最高責任者)として約15年間、僧侶と神職を務めました。

しかし、1589年(天正17年)の「摺上原の戦い」(すりあげはらのたたかい)で、「蘆名義広」(あしなよしひろ)が「伊達政宗」に大敗すると、蘆名義広は黒川城を捨てて常陸の父のもとへ逃走。これにより蘆名家は滅亡することになるのです。

ちなみに、この逃走時には、随風も甲冑を身に付け、蘆名義広を護衛したと言われています。

その後、随風は無量寿寺北院(のちの喜多院)に移り、「豪海僧正」(ごうかいそうじょう)に師事、以降天海と名乗るようになりました。

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徳川家に大きな影響を与えた天海

徳川家康

徳川家康

徳川家康は、宗教を政治的に利用するためにも、優れた僧侶を探していました。そこで見出されたひとりが天海です。

密教系の僧侶である天海は呪術や占いにも長けており、また、足利学校で学んだ豊富な学識と優れた討論の能力は、徳川家康を十分に満足させました。

関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が幕府を開く際に、天海の助言を受け、江戸を選んだという逸話もあるそうです。

そして、「天台宗」という宗教勢力を幕府の都合の良いようにコントロールするために、徳川家康は「比叡山復興」を命じ、天海はそれを受け延暦寺の南光坊に移ることになります。

これが「南光坊天海」と呼ばれる所以です。その後も天海は徳川家康の期待に応え、信頼を勝ち得ていきます。

徳川家康が亡くなったあとも、天海は徳川家と深くかかわりを持っていきました。徳川家康の葬儀の導師を務め、久能山東照宮から日光東照宮に家康の遺体を移し改葬する際も、取り仕切ったのは天海でした。

また、亡くなった徳川家康は神格化されることになり、その神号を巡って争いもありましたが、天海の主張する「東照大権現」の神号が奉られることになります。その後、2代将軍の徳川秀忠、3代将軍の徳川家光からも、天海は厚い信頼と寵愛を受けました。

豊富な学識と神秘的な呪術を扱う力で、3代にもわたる将軍の信頼を得ていた天海。その甲冑の姿は、彼の宗教的な力の大きさ、そして、徳川幕府へ与えた影響の大きさを表現しているかにも見えるようです。

※2018年(平成30年)現在「麒麟前立付兜」、「銀小札萌黄糸縅二枚胴具足」は、大津坂本求法寺が所蔵、大阪城天守閣で保管されています。

天海と甲冑

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