甲冑(鎧兜)と武将
江戸時代も活躍した武将の甲冑
甲冑(鎧兜)と武将
江戸時代も活躍した武将の甲冑

文字サイズ

武士と言えば、「戦う」イメージが強いと思いますが、実際は、戦場には出ず「内政」を行なっていた優秀な武将が存在していました。たとえ戦場に行かなくても、出世を果たし、立派な甲冑を所有していたのです。ここでは、名奉行と言われた「板倉勝重」(いたくらかつしげ)、偉大な僧侶「天海」(てんかい)、情けの有馬と謳われた「有馬忠頼」(ありまただより)の変わり兜と人物像について、詳しくご紹介します。

初代京都所司代「板倉勝重」の甲冑

金と朱、鳥毛がそそり立つ派手な甲冑

板倉勝重の甲冑

板倉勝重の甲冑

兜の上にそそり立つ鳥の羽を使った後立が特徴の「鳥毛付頭形兜」(とりげつき ずなりかぶと)と「日の丸金箔押紺糸威二枚胴具足」(ひのまるきんぱくおし こんいとおどし にまいどうぐそく)。身に付けていたのは、名奉行と言われ、初代京都所司代であった板倉勝重です。

兜の鉢は「山鳥の羽」で覆われており、その上には70cmもの高さの羽毛の後立、そして前立てには金箔押しの「輪貫」が付いています。胴や具足の主な部分は金箔押し。「面頬」(めんぼう)、臑当(すねあて)、さらに胴の中央部にある「日の丸」の朱色が、金色との対比で鮮やかに映えています。

前立の輪貫と胴にある日の丸の円形デザインがアクセント。この甲冑は、高梁市歴史美術館に所蔵されており、合わせて「八重籬大権現様御召領御具足記」(やえがきだいごんげんさまおんめしりょうおんぐそくき)という具足に関した記述文書も残っています。

その裁きが徳川幕府をより強大に

名奉行で評価が高い板倉勝重ですが、その経歴は戦国武将としては少々変わっています。松平家に仕える父「板倉好重」(いたくらよししげ)の次男として生まれた勝重は、幼少期に出家し、僧として生きていました。しかし、戦場で父が亡くなり、家督を継いでいた弟も戦死。そこで、1581年(天正9)年に勝重が板倉家を相続して武士となり、「徳川家康」に仕えたのです。勝重が36歳のときでした。

僧だったことも関係しているのか、勝重の活躍した場所は戦場ではなく、内政が中心でした。清廉潔白、慎重で思慮深かったことから家康に気に入られ、1586年(天正14年)に家康が駿府へ移ると「駿府町奉行」を、1590年(天正18年)に家康が関東へ移封されると「江戸町奉行」を任命されています。さらに、「関ヶ原の戦い」後の1601年(慶長6年)には、「京都町奉行」(のちに京都所司代)へと出世していくことに。

ちなみにこの頃、家康の孫である「徳川家光」の乳母を公募し、大奥の公務を取り仕切ることになる「春日局」(かすがのつぼね)を抜擢したのが勝重でした。

その禅僧出身らしい媚びない誠実な裁きが、徳川幕府をより強固にする一因にもなったのです。1609年(慶長14年)に起きた「猪熊事件」(いのくまじけん:天皇の寵愛が深かった女官と複数の公家らが密通した事件)では、京都所司代である勝重が、関係者を厳しく処罰。これまでは治外法権的であった朝廷に対して介入したことは、幕府による朝廷統制を強化する発端になったと言われています。

後世にも残る清々しい裁量

奉行としての善政を行なってきた板倉勝重の裁定や逸話は、「板倉政要」(いたくらせいよう)という冊子に収められ、後世に伝わっています。この中には、のちの名奉行である「大岡忠相」(おおおかただすけ:大岡越前)の功績にされたものも幾つかあると言われ、そのひとつが有名な「三方一両損」のエピソードです。

3両を拾ったと言う男が、京都奉行所へ届け出ます。その後、「落としたのは自分だ」と言う男が現れるのですが、「金を落としたのは自分の運命、金を拾った人も運命、だからもうそのお金は受け取れない」と言うのです。

拾った男も「落とし主が見つかったのならば、私が受け取る訳にはいかない」と突っぱねます。このやり取りを聞いた勝重は、「このご時世に珍しい御仁達だ。気に入った。わしも仲間に入れてもらおう」と、自分も3両を持ち出して合わせて6両とし3人で分けようと提案します。

落とし主は3両戻ってくるはずが2両となり1両損、拾った男も3両もらえるはずが2両となり1両損、勝重は3両出して2両戻って1両損、「これで一件落着」と、粋な裁量で、皆を納得させたのです。

戦場での目立った活躍はなかった、板倉勝重。しかし、雄々しく伸びる鳥毛の兜と派手な金箔押しの甲冑に身を包んだその姿は、柔軟な判断で様々な事件や訴訟を裁定した名奉行と呼ばれるにふさわしい、凛々しさがあったことでしょう。

※「日の丸金箔押紺糸縅二枚胴具足」は、高梁市歴史美術館に所蔵されています。

徳川家康を神格化した人物「天海」の甲冑

存在の大きさを表したかのような甲冑

麒麟前立付兜

麒麟前立付兜

「徳川家康」、「秀忠」、「家光」と、将軍3代にわたって重用された、天台宗の僧侶「南光坊天海」(なんこうぼうてんかい)。僧侶でありながら、「関ヶ原の戦い」にも参陣したとも言われ、その様子は「関ヶ原合戦図屛風」にも残されています。

天海所用とされる甲冑は、「銀小札萌黄糸威二枚胴具足」(ぎんこざねもえぎいとおどし にまいどうぐそく)と付属する「麒麟前立付兜」(きりんまえだてつきかぶと)。兜の額にはその名の通り、想像上の生き物である「麒麟」が前立として載せられ、脇立としては朱塗りの水牛の角が伸びています。

そして、観る者をハッとさせるほどの特徴は、その胴の背面に付けられた巨大な半月状の指物。異様にも見えるこの甲冑の姿は、天海の謎に満ちた半生と、その存在の大きさを表しているようです。

徳川三代に仕えた長寿・天海の半生

偉大な僧侶として、尊敬されていた天海。その理由のひとつに、当時としては「異常なほどの長寿」であったことも関係しているのかもしれません。1643年(寛永20年)に亡くなった天海は、108歳であったと言われています。しかし、徳川家康との親交が深まった晩年からその名が知られるようになったため、その前半生について詳しくは分かっていないのです。生まれ年についても諸説あり、なんと132歳まで生きたという説もあるほど。

そんな若き日の天海について、通説によれば、陸奥国会津高田(現在の福島県)の生まれで、この土地の名族である「蘆名」(あしな)氏の一族であったとされています。11歳の頃に出家して「随風」(ずいふう)と名乗り、14歳になると各地へ修行の旅に出掛け、天台宗を学びました。

さらに、比叡山、三井寺、戦国時代の最高学府とも言われる「足利学校」などで、儒学・漢学・易学・天文学・国学・医学・兵学など幅広い学問を収得。これがのちの活躍にも繋がっていくのです。

その後、「武田信玄」に招かれ、甲斐国(現在の山梨県)に定住するのですが、優秀であった随風の噂は故郷にも伝わり、蘆名家当主であった「蘆名盛氏」(あしなもりうじ)に要請され、会津に戻ることに。そして、黒川城の稲荷堂の別当(最高責任者)として約15年間、僧侶と神職を務めました。

しかし、1589年(天正17年)の「摺上原の戦い」(すりあげはらのたたかい)で、「蘆名義広」(あしなよしひろ)が「伊達政宗」に大敗すると、義広は黒川城を捨てて常陸の父のもとへ逃走。これにより蘆名家は滅亡することになるのです。ちなみに、この逃走時には、随風も甲冑を身に付け、義広を護衛したと言われています。その後、随風は無量寿寺北院(のちの喜多院)に移り、「豪海僧正」(ごうかいそうじょう)に師事、以降「天海」と名乗るようになりました。

徳川家に大きな影響を与えた天海

徳川家康

徳川家康

徳川家康は、宗教を政治的に利用するためにも、優れた僧侶を探していました。そこで見出されたひとりが天海です。密教系の僧侶である天海は呪術や占いにも長けており、また、足利学校で学んだ豊富な学識と優れた討論の能力は、家康を十分に満足させました。関ヶ原の戦いに勝利した家康が幕府を開く際に、天海の助言を受け、江戸を選んだという逸話もあるそうです。

そして、「天台宗」という宗教勢力を幕府の都合の良いようにコントロールするために、家康は「比叡山復興」を命じ、天海はそれを受け延暦寺の南光坊に移ることになります。これが「南光坊天海」と呼ばれる所以です。その後も天海は家康の期待に応え、信頼を勝ち得ていきます。

家康が亡くなったあとも、天海は徳川家と深くかかわりを持っていきました。家康の葬儀の導師を務め、久能山東照宮から日光東照宮に家康の遺体を移し改葬する際も、取り仕切ったのは天海でした。

また、亡くなった家康は神格化されることになり、その神号を巡って争いもありましたが、天海の主張する「東照大権現」の神号が奉られることになります。その後、2代将軍の秀忠、3代将軍の家光からも、天海は厚い信頼と寵愛を受けました。

豊富な学識と神秘的な呪術を扱う力で、3代にもわたる将軍の信頼を得ていた天海。その甲冑の姿は、彼の宗教的な力の大きさ、そして、徳川幕府へ与えた影響の大きさを表現しているかにも見えるようです。

※2018年(平成30年)現在「麒麟前立付兜」、「銀小札萌黄糸縅二枚胴具足」は、大津坂本求法寺が所蔵、大阪城天守閣で保管されています。

敬神の念と気迫を感じさせる「有馬忠頼」の甲冑

有馬家御家流の始まり「大熊」の甲冑

熊毛植五枚胴具足

熊毛植五枚胴具足

江戸時代、現在の福岡県久留米市近辺にあたる久留米藩の基礎を築いた、「有馬忠頼」(ありまただより)。その忠頼が身に付けたと伝わるのは、通称「大熊」と呼ばれる甲冑、「熊毛植五枚胴具足」です。

肩や胴、太腿まわりを守る部分を覆うのは「熊の毛」とされており、兜から伸びた大きな角と合わせて、大熊のような強さや迫力を表現。正面の前立には、「獅噛」(しかみ)という鬼のような表情をした獅子の飾りが付いています。

獅噛は、霊獣とされた獅子が噛んでいる飾りのことで、力強さを表しており、甲冑や仏像、火鉢の脚などの飾りとしてよく用いられた物。大きな角と共に、戦場で威厳を放っていたのではないでしょうか。

戦国の乱世が終わり江戸時代になると、大名家にはその家らしい特徴を受け継いだ、「御家流」の甲冑が作られるようになりました。有馬家も、この大熊の甲冑の特徴的な形が継承されています。4代藩主である頼元が身に付けたと伝わる甲冑は「小熊」と称され、忠頼の甲冑を写した物。籠手に銀象嵌が施され、大熊よりも華美に作られています。獅噛兜は、以降も有馬家に継承され、有馬家を特徴付ける物となったのです。

有馬家のルーツは神戸へと流れた赤松氏

1603年(慶長8年)、有馬忠頼は丹波国(現在の京都府)福知山城主「有馬豊氏」(ありまとようじ)の次男として生まれます。母親の「連姫」(れんひめ)は、家康の養女であったため、家康は子の誕生をとても喜んだと言われています。1637年(寛永14年)に起きた「島原の乱」では、父と共に参加。39歳のときに父が亡くなり、家督を継いで筑後国(現在の福岡県)久留米藩主となりました。

そもそも忠頼が継いだ有馬家は、もともと播磨国(現在の兵庫県西南部)などを支配した「赤松満祐」(あかまつみつすけ)氏がルーツとされています。15世紀に入ると、赤松氏の支配する播磨国で一揆が発生するなど、赤松氏の立場が揺らぎ始めます。さらに6代将軍足利義教(あしかが よしのり)が赤松氏の本家を冷遇し庶流の血筋を優遇。満祐は、義教を暗殺します。これが、1441年(嘉吉元年)に起きた「嘉吉の乱」(かきつのらん)と呼ばれる出来事で、赤松氏は幕府軍から追い討ちされるのです。

そして赤松氏は、播磨から摂津国有馬(現在の兵庫県神戸市北区)へと流れ、土地の名前から「有馬」と名乗りました。その後「豊臣秀吉」に見出されて中央に戻され、有馬(有間)神社のご祭神への感謝を代々忘れないように、社紋の三つ巴を有馬家の家紋としたのです。

敬神の心を持ちながら家臣や民などには厳しい藩主

有馬家は1620年(元和6年)、筑後国久留米に21万石を拝領。有馬忠頼は父に次いで、久留米藩の第2代藩主として治水工事や学問奨励など藩政に務めます。そして、「水天宮」(すいてんぐう:当時は尼御前大明神と尊称)の社殿を造営するため、城下の筑後川近くの広大な土地を寄進した、と水天宮の由来に書かれているのです。

その後、第9代藩主の「有馬頼徳」(ありまよりのり)によって、参勤交代の最中も江戸で水天宮へとお参りできるよう、江戸にあった有馬藩邸に水天宮が作られました。それ以降は当主と共に場所が移り、2018年(平成30年)現在は東京都中央区日本橋にあります。

毎月5日に限り、お屋敷の門を開き、人々のお参りを許したことから「なさけありまの水天宮」と、その情け深さを慕われました。城下に土地を用意して社殿の造営をしたという話だけであれば、信心深い心の持ち主だったという話で終わります。しかし、忠頼は敬神の心を持つ半面で、性格はやや激しい面があったと言われているのです。

西本願寺のとある宗徒のふるまいを、忠頼は無礼と感じました。すると領内の寺社へこぞって東本願寺への転派を強要。拒否した寺社は潰していったという逸話が残されています。家臣や城下の百姓に対しても厳しい姿勢を取り、久留米藩主として基礎を築いたものの、太陽のような温かい政治だったとは言い難いようです。それは、忠頼の最期についての諸説からも感じられます。

忠頼が亡くなったのは、52歳の頃。参勤交代の最中に船内で病死したという説と、日頃から恨みを持っていた小姓の家族に斬殺されたという説も伝わっています。様々な逸話の真相はよく分かりませんが、逸話から想像される忠頼は気性の激しいイメージ。力強くインパクトのある甲冑が、よく似合う人物だったのかもしれません。

※2018年(平成30年)現在「熊毛植五枚胴具足」は、個人蔵とされています。

江戸時代も活躍した武将の甲冑

江戸時代も活躍した武将の甲冑をSNSでシェアする

このエントリーをはてなブックマークに追加
このエントリーをはてなブックマークに追加

「甲冑(鎧兜)と武将」の記事を読む


上杉謙信・武田信玄・伊達政宗・直江兼続

上杉謙信・武田信玄・伊達政宗・直江兼続
「甲冑」(かっちゅう)とは、胴部を守る「鎧」(よろい)と、頭部を守る「兜」(かぶと)からなる武具です。今回は、戦国時代を生きた4武将、「上杉謙信」(うえすぎけんしん)、「武田信玄」(たけだしんげん)、「伊達政宗」(だてまさむね)、及び「直江兼続」(なおえかねつぐ)と甲冑にまつわる話をご紹介します。

上杉謙信・武田信玄・伊達政宗・直江兼続

織田信長・豊臣秀吉・徳川家康

織田信長・豊臣秀吉・徳川家康
尾張国、及び三河国(現在の愛知県)にゆかりがあり、戦国時代に天下を統一に導いた「織田信長」、「豊臣秀吉」、及び「徳川家康」。彼らは、「三英傑」と呼ばれており、戦国時代における最も有名な武将と言っても過言ではありません。今回は、三英傑と甲冑にまつわる話をご紹介します。

織田信長・豊臣秀吉・徳川家康

井伊の赤備え・真田の赤備え・村上水軍

井伊の赤備え・真田の赤備え・村上水軍
「甲冑」(鎧兜)などの武具を、同じ色で統一した部隊を「備え」と呼びます。なかでも「赤備え」とは、武具を赤色や朱色を主体とした色彩で整えた精鋭部隊のことです。今回は、「武田の赤備え」と同様に有名な「井伊の赤備え」、及び「真田の赤備え」についてご紹介します。また、甲冑(鎧兜)を使用していたのは、武将だけではありません。「村上水軍」と呼ばれる海賊衆が使用していた甲冑(鎧兜)も、あわせてご説明します。

井伊の赤備え・真田の赤備え・村上水軍

戦国武将と甲冑①

戦国武将と甲冑①
武将の甲冑(鎧兜)は「武具」であると共に、武将としての「威厳」や「地位」の高さを誇示する物でした。特に、個性的で目立つデザインの兜を「変わり兜」と言い、室町時代末期から始まり安土桃山時代に全盛期を迎えます。ここでは、戦国時代に活躍した「武田信玄」、「上杉謙信」、「森可成」(もりよしなり)、「山中幸盛」(やまなかゆきもり)の変わり兜と人物像について詳しくご紹介します。

戦国武将と甲冑①

戦国武将と甲冑②

戦国武将と甲冑②
集団の中で目立ち、頭ひとつ抜き出るためには、強い個性が必要でした。それを表現する物こそが、「甲冑」(鎧兜)。特に、前立、脇立、後立という立物に、自分の信条や信念を込め、敵はもちろん味方にも心理的な衝撃を与えたのです。ここでは、その勇猛さで恐れられた「立花宗茂」、「佐竹義重」、「明智光春」、「蒲生氏郷」の変わり兜と人物像について詳しくご紹介します。

戦国武将と甲冑②

戦国武将と甲冑③

戦国武将と甲冑③
甲冑は日本刀と同じく、戦功の贈答品として主君から家臣に下賜されることが多かったようです。家臣はそれを誇りに思い、主君は戦場で変わり兜を身に付けた家臣を見付けやすく、その活躍ぶりを伝聞し、恩賞を与える判断にしたのかもしれません。ここでは「豊臣秀吉」、「黒田官兵衛」、「前田利家」が所有し、家臣に贈ったことが伝わる変わり兜について詳しくご紹介します。

戦国武将と甲冑③

関ヶ原の個性的な甲冑対決(西軍)

関ヶ原の個性的な甲冑対決(西軍)
全国の大名の運命を左右した「天下分け目」の合戦である「関ヶ原の戦い」。「毛利輝元」(もうりてるもと)を総大将とし、「石田三成」(いしだみつなり)を中心に結成された西軍は、軍全体の結束力不足や、幾人もの武将による裏切りなどが要因となり、「徳川家康」(とくがわいえやす)率いる東軍に敗れる結果となりました。そんな中でも最後まで豊臣家に忠義を誓い、戦い抜いた武将達がいたのです。ここでは、その中の代表的な3人の武将の人となりを、彼らが愛用していた甲冑を通して見ていきます。

関ヶ原の個性的な甲冑対決(西軍)

関ヶ原の個性的な甲冑対決(東軍)①

関ヶ原の個性的な甲冑対決(東軍)①
「徳川家康」を率いる「東軍」が勝利を収めたのは、家康が見事な采配を取ったのはもちろんのこと、「武官派」としてその名を轟かせた家臣団が付き従っていたことが、その大きな要因でした。ここでは家康を含め、そのような家臣団の中でも「最強」と評されていた「本多忠勝」(ほんだただかつ)と「井伊直政」(いいなおまさ)について、その強さの秘密を甲冑を通して見ていきます。

関ヶ原の個性的な甲冑対決(東軍)①

関ヶ原の個性的な甲冑対決(東軍)②

関ヶ原の個性的な甲冑対決(東軍)②
「関ヶ原の戦い」の「東軍」には、家康を勝利に導くため忠義の限りを尽くした「名将」達がいました。しかし、名将と称される武将は周囲を圧倒するような個性を持っているもの。それを戦場でもアピールし強さを自己演出するため、彼らは甲冑(鎧兜)に様々な装飾を施していたのです。特に兜には遠くからでもその存在を示すことができるように、奇抜な意匠が用いられた「変わり兜」が多く見られます。ここでは、関ヶ原で大いに武功を挙げた東軍の4人の武将が身に付けていた変わり兜を中心に、それぞれの甲冑(鎧兜)に込められた思いやエピソードを、甲冑(鎧兜)を通して見ていきます。

関ヶ原の個性的な甲冑対決(東軍)②

注目ワード

ページトップへ戻る