代表的な甲冑(鎧兜)
大鎧の機能
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「大鎧」は、平安時代に登場した「日本式甲冑」。その最大の特徴は、「騎射戦」(きしゃせん)での防御力に優れていることです。大鎧の造りは頑丈で、大きめの箱の中に身体を入れる感じで着用されていました。もっとも、どれだけ頑丈な造りであっても、完全無欠という訳ではなく、隙ができてしまっていたのも、また事実。ここでは、いかにして大鎧の防御力を確保したのかについて、その付属品の機能を通して考察します。

弦走韋

弦走韋

弦走韋

「弦走韋」(つるばしりのかわ)は、大鎧の胴の前面から左側にかけて施された絵韋(えがわ)。弓の弦が引っ掛かることを防ぐ目的でなされていたと言われ、繊維が細かく強靭であるという特長を持つ鹿の皮が用いられていました。

その意匠は、魔よけの意味を持つ「不動明王」(ふどうみょうおう)などが好まれたと言われています。弦走韋を施した理由としては、前述した他に、矢を番える(つがえる=弦に矢をあてがうこと)ときに、胴に引っかからないことを目的としたという説も。

大鎧の胴には、例外なく弦走韋が施されていることから、弦走韋は、その鎧が大鎧であることを証明する存在であるとも言えるのです。

鳩尾板

鳩尾板

鳩尾板

「鳩尾板」(きゅうびのいた)は、大鎧着用者の左胸あたりを守るための物で、その起源は「挂甲」(けいこう)の時代に遡ると考えられます。すなわち、挂甲の付属品として存在した、着用者の頸部(けいぶ=首)や肩の上を保護するための「頸鎧」(けいよろい)が変化。大鎧においては、鳩尾板となったのです。

鳩尾板の特徴は、1枚の(鉄)板でできているということ。騎馬武者が馬の上で弓を放ち合って戦う際、敵を自分の左側に置くことが弦を自然に引く形であり、敵に最も近い所にある左胸は無防備になってしまいます。左胸にある臓器と言えば心臓。この急所に相手の矢があたってしまった場合、命を落とすことになりかねず、強力に防御する必要がありました。

また、馬上で弓を射るときの左手の動きは弓を持って固定するのみで、弦を引く右手のような繊細な動きはありません。そのため、体の左側にある鳩尾板は、硬い素材であっても動きの邪魔にならず、隙間をふさぐ形で守りを重視する形になったのです。

栴檀板

栴檀板

栴檀板

「栴檀板」(せんだんのいた)は大鎧の右胸部分を守るための物で、化粧板(=囲み部分)の下を3段の小札板で構成しているのが基本形。

古い時代においては、上述した鳩尾板と栴檀板の区別は明確ではなく、鳩尾板も栴檀板の一種であると言われていました。この2つの板における最大の違いは、その造り。鳩尾板が硬い素材の1枚板で作られていたのとは対照的に、栴檀板は糸で威しており、柔軟性があったのです。

その理由は、右手の役割。上述のように、馬上で弓を射る場合、右手で微調整を行ないます。そのとき、弦を引く方向である右胸にある栴檀板に右手があたってしまう可能性があり、その場合、栴檀板が硬く折曲がらないような素材では、弦を引く動作の邪魔になってしまうのです。そのため、弦を引く動作の邪魔にならないように、柔軟性があり、かつ守りに優れた物として考えられたのが、この形式の栴檀板でした。

また栴檀板は、馬上で太刀を振る動作を邪魔しない物でもありました。そして、時代を経るにつれて、小札も長さや幅が縮小。3段の小札板も小さくなっていったのです。

大袖

大袖

大袖

「袖」の起源は古墳時代に遡ると考えられ、古墳から出土した「武装埴輪」(ぶそうはにわ)や鎧の残欠などから、肩の形に沿って、端から突き出ているような形の「肩鎧」(かたよろい=囲み部分)であったと推測されています。

そして、奈良時代末期から平安時代初期にかけて、「札」(さね)の綴じ方が進歩したことで、平板に近い袖が制作されました。

その初期の作であると考えられているのが愛媛県大山祇神社」(おおやまづみじんじゃ)所蔵の国宝「沢潟威鎧」(おもだかおどしよろい・残欠)や、「聖徳太子」(しょうとくたいし)の玩具だったと言われている「逆沢潟威鎧雛形」(さかおもだかおどしよろいひながた)の「大袖」(おおそで)です。

西洋とは異なり、日本では、騎馬武者が馬上で弓や太刀など両手を使って敵を攻撃していました。そのため、手に持つ形の「手楯」(てだて)で防御するという方法が採られていません。そこで、手楯に代わる物として利用されていたのが大袖。騎馬武者たちは、体を捻って大袖で敵の矢などの攻撃を受けることで、身を守ったのです。

大袖は、時代の変遷と共に変化していきました。平安時代末期には、威糸が太く札が大きい6段下がりの物が主流。鎌倉時代になると札が縮小したものの、袖自体は大きくなったため、7段下がりとなります。

そして鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて、さらに大きな物が制作されるようになったのです。この時代の大袖を持つ大鎧の代表例として挙げられるのは、幅40.9cmの大袖が付属している青森県櫛引八幡宮」所蔵の国指定重要文化財「紫糸威肩白浅葱鎧」(むらさきいとおどしかたしろあさぎよろい)。これ以降、大袖の定義は7段で幅37cm程度、長さ48cm程度の袖を指す物として定着しました。

脇楯

脇楯

脇楯

「脇楯」(わいだて)は、大鎧の右側の大きな隙間をふさぐための防具。大鎧は、脱着のために右側に隙間ができており、ここへの攻撃を防ぐための物です。

その発祥についての逸話には、「神功皇后」(じんぐうこうごう)が「新羅」(しらぎ)攻めの際に懐妊していたため、鎧と体の間にできていた大きな隙間を、「高良明神」(こうらみょうじん)が別の鎧の「草摺」(くさずり)を脇に当てさせてふさいだという物があります。

鎧の右側に付ける「壺板」(つぼいた=囲み部分)は、鎧の前面と同様の弦走韋で、当初は大鎧の形状に合わせて裾に向かって広がっていましたが、時代を経るにつれて、裾が絞られるようになりました。

そして、脇楯の下には、1間分の草摺が付属。脇楯は大鎧だけにある物であり、隙間をふさいで大鎧の防御力を高めるためには、なくてはならないパーツであったと言えるのです。

逆板

逆板

逆板

「逆板」(さかいた=囲み部分)は、大鎧の胴の背面にある2段目の小札板。

通常、小札板は、下にいくにつれて上段の外側にくるように組み合わされていきますが、逆板については、上段の小札の内側にきていることから、このように呼ばれています。逆板の役割は、背中部分の柔軟性を確保すること。

障子板

障子板

すなわち、大鎧は「肩上」(かたがみ=肩の部分)が「障子板」(しょうじいた=肩上に立てた半月版状の板)によって固定されているため、逆板が背中の上下運動を可能にすることで、大袖の位置を調節することを可能にしたのです。

また、逆板の中央には「総角鐶」(あげまきかん)という金具が装備され、ここに背中の緒を総角結び(あげまきむすび)と呼ばれる結び方で固定していました。

草摺

草摺

草摺

草摺(くさずり)は、大鎧着用者の腰から下を守るための防具。大鎧では4間となっています。

その理由は、大鎧を着用していたのが馬に乗る武将だったこと。こうした場合、4間の草摺は四角い箱のような形で大腿部をスッポリと覆う形になりました。

大鎧に付属している草摺は可動性に乏しく、着用者が歩くのには不向きでしたが、戦において馬に乗っていた当時の武将には関係ありません。

騎乗した状態で腰から下(主に大腿部)を守るためには、合理的であるこの形がベストだったと言えるのです。

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大鎧①

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大鎧②

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