甲冑(鎧兜)を知る
甲冑着用時の所作
甲冑(鎧兜)を知る
甲冑着用時の所作

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戦場における甲冑(鎧兜)は、敵の攻撃から生命・身体を守るという防具としての役割はもちろん、着用している武将の権威誇示という役割も担っていました。もっとも、戦(いくさ)においては、守っているだけでは勝つことはできません。攻撃するためには甲冑(鎧兜)を着用していても、体が滑らかに動くことができる必要がありましたが、甲冑(鎧兜)の各部分をつなぎ合わせる技術と工夫がそれを可能にしました。甲冑(鎧兜)は、日本刀(刀剣)と共に武士が武士たることを示す物で、そこには様々な作法が存在します。ここでは、甲冑(鎧兜)着用時における所作について考察します。

合戦前の儀式

甲冑の着用方法

甲冑(鎧兜)の着用手順は数種類あると言われていますが、基本は内側に着る物から着用し、左右のある物については、左から着用します。今回は、甲冑(鎧兜)の中から「大鎧」(おおよろい)を例に挙げ、手順を大まかに5段階に分けてご説明します。

  1. 下着類の着用

    • 「手綱」(たづな:ふんどしのような物)を着用したあと、鎧下の小袖を左手から着る。次に大口の袴を左足から履く。
    • 髷(まげ)を解いてザンバラ髪にして烏帽子を被り、鉢巻の中央を後頭部に当てて両端を前に持って来たあと、額で入れ違いに組み、後頭部で結ぶ。
    • 「鞢」(ゆがけ:弓を使うときの皮手袋)を右手から着用する(右利きの人が多いため、左手から着用すると、右手に着用したときに紐を上手く結べない)。

    下着類の着用

    下着類の着用

  2. 上着の着用

    • 「直垂」(ひたたれ)を左手から着用したあと、左足から袴を履く。
    • 左足から足袋を履き、「脛巾」(はばき)を着用する。
    • 袴の裾を膝頭したまでたくし上げ、臑当を着用する。
    • 「貫」(つらぬき:靴のような物)を左足から履く。

    上着の着用

    上着の着用

  3. 防具類の着用

    • 左手に「籠手」(こて)を着用する。
    • 「脇楯」(わいだて)を着用する。
    • ※形式によっては「佩楯」(はいだて)と「喉輪」(のどわ)を着用する。

    防具類の着用

    防具類の着用

  4. 鎧類の着用

    • 引合せ(胴を体に巻いたときに端が合わさる場所)から左肩を入れ、左肩の高紐の鞐(こはぜ)を合わせる。
    • 引合せの緒を結び、右肩の高紐の鞐を結んだあと、左脇部分の下にある繰締(くりじめ)の緒を腰のあたりで結ぶ。
    • 「腰刀」を差す。

    鎧類の着用

    鎧類の着用

  5. 仕上げ

    • 「太刀」を腰に差す。
    • 「箙」(えびら:矢を入れる容器)を右腰などに装着する。
    • 「三献の儀」(さんこんのぎ)のあと、「兜」を着用する。

    仕上げ

    仕上げ

三献の儀

三献の儀(さんこんのぎ)とは、敵を討つことを意味する「打鮑」(うちあわび:干した鮑の身を打ち延ばした物)、敵に勝つことを意味する「勝栗」、喜ぶの語呂合わせから用いられたと言われている「昆布」の3品を肴(さかな)にして、3度酒を飲む行為。

打鮑を一片食べたあとに、酌を受けて一献目を飲んで勝栗を食べ、ニ献目で昆布を一片食べ、三献目を飲み干す儀式です。

肴を食べる順番については、「敵に打ち勝ち、喜ぶ」という縁起かつぎから。ちなみに、この儀式は凱陣式においても行なわれていました。そのときには「敵に勝ち、家喜ぶ」の語呂合わせから、勝栗、打鮑、昆布の順に食べられたと言われています。

出陣

三献の儀が終わると、いよいよ出陣。3つ目の杯を飲み乾したあと、地面に打ち付けて割り、軍扇を広げて弓を持ち、足を広げて踏ん張る形で大将が「エイ!エイ!」と鬨(とき)の声を上げると、配下の兵が「オー!!」とこたえる。これを3度繰り返します。この儀式には、陣営を鼓舞する意味合いがあったのです。

生死をかけた戦いへの出陣にあたっては、当たり前のように縁起担ぎが行なわれていました。日取りは吉日を選び、「往きて亡ぶ日」を意味する往亡日(おうもうにち)は、凶日であることから回避。具体的には、春(1~3月)は7・14・21日、夏(4~6月)は8・16・24日、秋(7~9月)は9・18・27日、冬(10~12月)は10・20・30日の出陣は避けられたのでした。

また、出陣の方角は、死者の頭の方角(北枕)である北を避け、東、または南側から出るようにしていたのです。同じ理由で、大将は顔が東または南を向くように「床几」(しょうぎ:移動用の折りたたみ式の簡易腰掛)に座り、合戦に持参する武具も同様に置いていたり、東側の廊下で兜を着用したりしていました。後退は負けを意味することから、大将が乗った馬が後ずさりした場合には、出陣をやり直したと言われています。

甲冑着用時の所作「攻撃編」

甲冑を着用した状態で行なう介者剣術

八相の構え

八相の構え

戦場において、刀剣類を用いて戦う場合、当然ですが甲冑(鎧兜)を着用していました。このような「介者剣術」(かいじゃけんじゅつ)では、現在行なわれている剣道などとは違った構えや動きが要求されていたのです。

例えば、構え。長時間に亘って鉄の塊でもある日本刀(刀剣)を持ち続けるためには、できるだけ負担の軽い形である必要があります。そこで考案されたのが「八相の構え」(はっそうのかまえ)でした。

八相の構えは、構えたときに左右の腕が八の字を描くような形となっていたことから、こう呼ばれています。具体的には、野球の打者がバットを構えたときのイメージです。甲冑(鎧兜)を着用して斬り合う場合、狙いどころは鎧に覆われていない首や目、脇の下、手首、内腿、金的など。日本刀(刀剣)を振り下ろしたり、突いたりすることで、これらの場所を執拗に狙っていました。

なお、江戸時代になると、戦乱が収まったことで甲冑(鎧兜)を着用しての斬り合いがなくなり、甲冑(鎧兜)を着用しない平服での剣術が発展します。それが「素肌剣術」(すはだけんじゅつ)。死傷防止のため、当初は木刀を用いた形中心の約束稽古でしたが、その後、防具と竹刀が開発されたことで、習得した技を試すことができるようになりました。これが現在の剣道につながっていると言われているのです。

最後は組討

鎧通

鎧通

合戦においては、最終的には敵を組み伏せて「鎧通」(よろいどおし:刃幅が狭く、刃が厚い短刀)で首を取りに行きました。この「組討」(くみうち)は、古代においては相撲(角力:すもう)として行なわれていたと言われています。

「日本書紀」や「古事記」などにおいては、現在の相撲とは異なり、取組で打撃を加えたり、蹴ったりという方法も採られていたという記述が見られるのです。

戦国時代には、合戦における武芸であった組討は、天下泰平の世の中となった江戸時代になると、甲冑(鎧兜)を着用しないで行なう柔術に発展していきました。

柔術(柔道)と剣術(剣道)-柔道関連お役立ち情報-柔術(柔道)と剣術(剣道)-柔道関連お役立ち情報-
現在の柔道を形作るもととなった柔術(柔道)と剣術(剣道)の関係性を
歴史の流れと共に解説します。

甲冑着用時の所作「防御編」

飛び道具に対応するための盾

敵の攻撃を防ぐ上で、重要なアイテムは「盾」。日本においては、なじみがうすいとも思えますが、全く使われていなかったということではありません。平安時代においては、弓矢などによる攻撃が中心であったため、敵の矢に対する防具として、木の板で作られた盾が使用されたり、戦国時代にも鉄砲などの弾よけとして使われたりしました。もっとも、馬上の武将は弓矢などを使用して両手がふさがっていたため、手で持つ形の「手盾」はそれほど発達することはなかったのです。

戦場において、防具として一定の役割を果たしてきた盾ですが、時代を経るにつれてその材質が変化していきます。きっかけは鉄砲の伝来。戦国時代の戦において、鉄砲が主武器として使用されるようになると、盾は複数の竹を使用した「竹束」(たけたば)に形を変えたのでした。竹束は、弓矢よりも貫通力の高い鉄砲での攻撃に対して、竹を束ねることで対策した物。鉄を使用した「鉄盾」もありましたが、竹の方がより容易に調達できたことから、竹束が重宝されたのです。

「大坂冬の陣」における「真田丸」をめぐる攻防において、「前田利常」率いる前田隊が、竹束などの防具を持たないまま不用意に突撃したことで、真田隊に狙い撃ちにされたことを聞いた「徳川家康」が激怒。以後、竹束の持参を義務付けたと言われています。

手盾の代わりとなった袖・吹返

吹返・錣・大袖

吹返・錣・大袖

手盾が発達しなかった日本では、盾は地面などに設置して敵の矢などから身を隠す物として使うのが主流でした。そうだとすれば、甲冑(鎧兜)を着用して戦う武将の防御は心もとない物だったとも思えますが、そうではありません。

甲冑(鎧兜)には、盾の役割を果たす物が装備されていたのです。それが「大袖」(おおそで)。武将の両肩を守るようにして装着されていた袖は、胴体部分などをカバーしている鎧と同様の作りになっており、咄嗟(とっさ)の反応によって、敵の攻撃から身を守ることが可能だったのです。

同様に、兜の側頭部から後頭部部分の下に取り付けられている「錣」(しころ)の両端にある「吹返」(ふきかえし)は、敵の攻撃から顔面部分を守る役割を果たしていました。この吹返は、当初は敵が放つ矢を防ぐことを目的としており、大きめのサイズの物が取り付けられていましたが、弓矢が中心だった戦い方が、日本刀(刀剣)や槍による戦いに移行していくにつれて、サイズも小さくなっていったのです。また、従来下向きだった錣は、横向きに取り付けられるようになります。目的は共に着用者の視界を確保することでした。

大袖は、近世の「当世具足」(とうせいぐそく)においても、承継されていきました。その理由は防御の実用性と武将の威容確保。日本においては、手盾の代わりになるような物を甲冑(鎧兜)に装着することで、可動性を保ちつつ、防御力を確保しようとしたのです。

隙間部分は袖や吹返などを利用して守る

甲冑(鎧兜)は、敵の攻撃から身を守るための防具であり、革製の「小札」(こざね)を重ねたり、鉄板を間に挟み込んだりして作られていたため、弓矢での攻撃や日本刀(刀剣)での攻撃で致命傷を負うことはないなど、相当程度の強度がありました。そのため、甲冑(鎧兜)の防御としては、「受ける」ことが基本だったと言えます。

その傾向は、「草摺」(くさずり)、「臑当」(すねあて)で下半身を守るなど、全身を覆うようになるにつれて顕著に。もっとも、全身を覆っていると言っても、西洋の「プレート・アーマー」のように、部品のつなぎ目が完全にふさがれていた訳ではありません。例えば、首や脇腹などには隙間があり、敵は当然その隙間を狙って攻撃してくるため、これに対応する「受け方」が重要になってくるのです。

受け方のコツは、甲冑(鎧兜)に装着している盾を活用すること。すなわち、袖や吹返などを利用して隙間をふさいで防御するのです。

具体的には、敵が正面から攻撃を仕掛けて来たときには、首を捻って吹返で顔面部分をカバーしたり、体を捻って肩を前に出すことで、袖で首をカバーしたりすることが可能。可動性・機動性を確保した上で致命傷を負うことなく防御力を保つという「日本式甲冑」の特徴で、その効果が最大限発揮されるための工夫が施されていると言えます。

甲冑着用時の所作「敗走編」

織田信長最大のピンチ

織田信長

織田信長

戦において、最も過酷な役割は「殿」(しんがり)であると言われています。すなわち、負け戦において本隊を逃がす時間を稼ぐため、敵の追撃を受け止める役割。殿は、撤退が上手くいくか否かの鍵を握る重要な役割でした。もっとも、勢いづく相手に対して少数で防戦する撤退戦は、任された者にとってはまさに生死をかけた戦い。戦国時代で最も有名な撤退戦のひとつである「金ヶ崎の戦い」(かねがさきのたたかい)では、のちに天下人となる「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)、「明智光秀」(あけちみつひで)らが「織田信長」軍の殿を務めました。

ことの発端は、「想定外」の裏切りでした。越前の「朝倉義景」(あさくらよしかげ)を攻撃し、「金ヶ崎城」の攻略に成功していた信長軍。そこに「浅井長政」(あざいながまさ)による裏切りの一報が飛び込んできます。

長政と言えば、信長の妹「お市の方」(おいちのかた)の夫。信長との関係も良好だったと言われており、信長は当初、この情報を信じてはいませんでした。

しかし、複数の裏付け情報が入ったことで、信長も長政の裏切りを受け入れざるを得ない状況に。同時に、撤退の決断を余儀なくされました。なぜなら、撤退が遅れれば、信長軍は前から朝倉軍、後ろから浅井軍に挟み撃ちにされる形となってしまうからです。

この戦いにおいて、秀吉ら信長軍の殿部隊は、統率のとれた行動によって朝倉軍らの追撃を振り切りました。信長は無事に京都へと逃げ延びたあと、本拠地・岐阜に帰還。裏切った長政の追討に向けた建直しを図ります。その後、信長は「姉川の戦い」(あねがわのたたかい)で長政に雪辱。このことから、金ヶ崎の戦いは、撤退戦(敗走)の「成功例」であると言うことができるのです。

過酷を極める撤退戦

撤退戦では、軍全体の1割程度の少数の部隊によって敵の追撃を食い止めつつ、本隊を逃がすことが最大の目的となります。そのため殿部隊は、本隊の撤退状況を見極めつつ、敵と対峙(たいじ)することも必要。単に武芸に優れているだけでなく、広い視野を持って冷静に状況判断ができる能力も要求されることから、主君から信頼されている相応の能力を持つ武将が務めることになっていたのです。

そのような武将が殿を担ったとしても、撤退戦の現場は過酷を極めました。勢い込んで攻めて来る敵の大軍を、少数の殿部隊で食い止めなければならない以上、仮に味方に負傷者が出た場合でも救出することができるとは限りません。そのため、味方を見捨てざるを得ないこともあったと言われています。

このような修羅場での任務を遂行し、本隊を無事に撤退させた上で自らも生還した武将の功績は、大いに評価されたのです。

落ち武者狩り対策は、甲冑を脱ぎ捨てること

石田三成

石田三成

戦に破れた武将にとっての脅威は、敵軍だけではありません。むしろ、敵軍以上に怖い存在がありました。それが土着の農民。一旦、戦が始まってしまえば、広範囲で戦闘が繰り返されることになります。これにより、耕作中の田畑であろうと関係なく兵によって踏み荒らされてしまうことに。そうなると、農作物の収穫は絶望的となり、年貢を納めることが不可能になってしまうなど、農民達の被害は莫大な物になってしまうのです。そのための損失補償として慣習的に認められていたのが、敗軍の武将などから日本刀(刀剣)や甲冑(鎧兜)をはじめとした金目の物を奪うことでした。

また、敗軍の武将を討ち取った場合、褒賞が出ることもありました。そのため、農民達は血眼になって落ち武者狩りを行なったのです。落ち武者狩りに遭った武将の例として有名なのは、明智光秀。「本能寺の変」で主君・織田信長を倒したのち、「山崎の戦い」で豊臣秀吉に敗れた光秀は、京都の小栗栖の竹藪で襲撃されて命を落としたと言われています。

このように、敗軍の武将にとって命の危険にさらされることとなる落ち武者狩り。これに遭わないようにするため、敗走する武将が行なったのが甲冑(鎧兜)を脱ぎ捨てることでした。落ち武者狩りを行なう農民がターゲットにするのは、身分の高い者で、目印となるのが甲冑(鎧兜)。そのため、足軽用の甲冑(鎧兜)に着替えたり、全く関係のない人間に見せかけるための変装を行なったりしました。「関ヶ原の戦い」で敗走した西軍の「石田三成」(いしだみつなり)が「伊吹山」で捕えられたとき、木こりのような姿をしていたと言われています。

甲冑着用で泳ぐ古式泳法

敗走路は、陸路だけには限られません。目の前に川などがある場合には、当然泳いで渡るということも選択肢に。その場合、甲冑(鎧兜)を着けたまま泳ぐこともありました。そのために必要なのが「水術」(すいじゅつ)とも呼ばれる「日本泳法」(にほんえいほう)。この泳法を習熟することで、重さ20~30kgとも言われる甲冑(鎧兜)を身に着けていても泳ぐことができたのです。日本泳法は、武術のひとつとして武士の間で伝えられました。

この泳ぎ方は、あるオリンピック種目に通じるものがあるとも言われています。「アーティスティックスイミング」(旧シンクロナイズドスイミング)の選手が行なっている、上体を立てて「巻き足」で泳ぐ立ち泳ぎは、日本泳法の技術を応用。古の時代に武術として始まった日本泳法が、時代を経て美を競うオリンピック種目とつながっていると言えるのです。

甲冑着用時の所作「立ち上がり方」

起き上がれなかった今川義元

今川義元

今川義元

日本の甲冑(鎧兜)は、防御力と可動性のバランスが保たれた防具。そのため、可能な限り軽量化が図られましたが、それでも20~30kgの重量がありました。武将と呼ばれる人達は、これらの「重り」を背負って戦場を駆け回っていたのです。

当時の日本人の平均身長は、157cmほど(現代は約171cm)。なかには大柄な武将も存在してはいましたが、屈強な武将といえども小柄である感は否めません。そんな彼らが甲冑(鎧兜)を身にまとって戦うことは、並大抵のことではありませんでした。

1560年(永禄3年)の「桶狭間の戦い」(おけはざまのたたかい)で、織田信長に敗れた「今川義元」(いまがわよしもと)には、こんな話があります。大鎧を身にまとった義元が、転倒してしまったところ、ひとりでは起き上がることができなかったというものです。

これについては、義元が太りすぎていたのが原因で、甲冑(鎧兜)を着用していなくてもひとりで立ち上がることはできなかったという説もあります。

甲冑を着用していても、普通に起き上がることができた!?

今川義元の例を見ていると、甲冑(鎧兜)着用時に転倒してしまった場合、起き上がることは難しいとも感じられます。確かに、平安時代の大鎧は大きな箱の中に体を入れたような格好の物で、自由に体を動かすことは困難でしたが、軽量化と合理化が図られた当世具足ともなると、着用時の制約は大幅に改善されていました。

また、前述で例とした義元の場合は、大鎧着用時のことであり、当世具足を着用した場合には、転倒したとしても、通常と同じように起き上がることができたと言われているのです。

素早く立ち上がるための大和座り

大和座り

大和座り

当世具足を着用した場合には、動きの制約を受けることは少ないとはいえ、着用していない場合と比べると、違いがあるのは確か。そのため、当世具足の着用時に素早く動くための研究がなされていました。

そのひとつが座り方。大将クラスの武将は「床几」(しょうぎ:移動用の折りたたみ式の簡易腰掛)を用いていましたが、その他の武士らは、地面に腰を下ろす必要がありました。その場合、当時の正式な座り方だった「胡坐」(あぐら)では、当世具足を着用したままで素早く立ち上がることは難しい状況。そこで考えられたのが「大和座り」(やまとすわり)と呼ばれている座り方でした。

「跪座」(きざ)とも呼ばれるこの座り方は、正面から見た場合、「正座」のように見えますが、最大の違いは、かかとを浮かせてその上に尻を乗せるようにしていること。こうすることによって、正座のように足がしびれてしまう可能性が低くなり、同時に、当世具足を着用していても、素早く立ち上がったり、反撃の態勢に移ったりすることが可能になるのです。

この座り方は、古流剣術などでは一般的な物でしたが、現代でも、弓道などの控え姿勢に、その名残を見ることができます。

甲冑師の技術を生かした工芸品

戦においては、刀剣類や弓、鉄砲などを用いた敵の攻撃から身を守るだけの強度のある甲冑(鎧兜)を着用した上で、攻撃をする必要があります。そのためには、身体を滑らかに動かせなければなりません。それを可能にするため、鎧は多数の小さな部品をつなぎ合わせて作られました。この技術が現代でも珍重される工芸品を生み出したのです。

江戸時代中期頃には、鉄などの金属板を用いて、実写的な動物の模型が作られるようになりました。「自在置物」(じざいおきもの)と呼ばれるこの模型の最大の特徴は、本物同様に節々が動くこと。それも、ただ動くだけでなく、本物同様の滑らかさで細やかに動くのです。ポイントは、多数の小さな部品をつなぎ合わせていること。そこには甲冑(鎧兜)作りの技術が集約されていると言えます。

自在置物には、日本で最も有名な甲冑師集団である「明珍派」の甲冑師達の作品も見られます。このことからも、甲冑(鎧兜)制作の延長線上に自在置物制作が存在すると言えるのです。

甲冑着用時の所作

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