江戸時代

間宮海峡の発見

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1808年(文化5年)、江戸幕府からの命を受けた北方探検家の「間宮林蔵」(まみやりんぞう)は、「松田伝十郎」(まつだでんじゅうろう)と共に「樺太」(からふと)へ調査に出て、シベリアと樺太の間に海峡があることを発見しました。この功績を、長崎の出島に滞在していたオランダ商館の医師であり、日本とゆかりの深い「フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト」が称え、発見した間宮林蔵の名を冠して、「間宮海峡」(まみやかいきょう)を世界地図上に残したのです。間宮林蔵とはどのような人物であったのか、江戸時代における樺太の状況と併せてご紹介します。

間宮林蔵とはどんな人物なのか

間宮林蔵

間宮林蔵

「間宮林蔵」は1780年(安永9年)に、常陸国筑波郡上平柳村(ひたちのくに・つくばぐんかみひらやなぎむら:現在の茨城県つくばみらい市)で、農民の子として生まれました。幼い頃から利発な人物だったと言われています。

間宮林蔵の住んでいた地域では、毎年春になると、田んぼへ水を引くために、近くの「小貝川」(こがいがわ)をせき止めて、小さなダムを造っていました。

間宮林蔵もこの工事に加わって雑用をこなしているうちに、江戸幕府の役人から地理や算術の才能を認められ、同幕府の下役人(したやくにん)へと召し抱えられたのです。

その後、江戸へ出た間宮林蔵は、江戸幕府による日本各地の治水工事や新田開発に同行。測量や土木技術について勉強したと伝えられています。

1799年(寛政11年)に間宮林蔵は、江戸幕府の役人であった「村上島之充」(むらかみしまのじょう)に従い、初めて蝦夷地(現在の北海道)へ測量補助に赴いたのです。当時の蝦夷地は、「松前藩」(現在の北海道松前郡)が管理していました。

江戸幕府は1802年(享和2年)、「蝦夷地奉行」(蝦夷地を司る職。のちに[松前奉行][まつまえぶぎょう]に改称)を創設。本格的に蝦夷地の調査に乗り出し、1822年(文政5年)に松前奉行が廃止されるまで、活動を継続したのです。

間宮林蔵は、長期間に亘って蝦夷地で過ごし、蝦夷地全土を測量。現在の北海道地図の基本となる「蝦夷図」(えぞず)を完成させました。この蝦夷図は、のちに日本全国を測量して回った「伊能忠敬」(いのうただたか)による「大日本沿海輿地全図」(だいにほんえんかいよちぜんず)の作成に、大きく貢献することとなります。

その後、江戸に戻った間宮林蔵は、江戸幕府での役人に就任。間宮林蔵の任務は、当時の日本が鎖国していたため、日本領土に外国船が近付くと現地に赴いて調査をし、同幕府に報告することでした。そして1844年(天保15年/弘化元年)、病に伏した間宮林蔵は、江戸の自宅にて、65年の生涯を閉じることとなったのです。

江戸時代の樺太

田沼意次

田沼意次

蝦夷地の北に位置する樺太は、宗谷岬(そうやみさき:北海道稚内市)から約40kmの場所に位置する南北に伸びた細い島です。1700年(元禄13年)には、松前藩が調査した国絵図と共に、徴租台帳である「松前島郷帳」(まつまえとうごうちょう)を江戸幕府に提出しました。

しかし実際には、樺太の開発はほとんど行われておらず、日本が支配するまでには至っていなかったのです。

そんななか、1723年(享保8年)にロシアの探検家であり、海軍中佐を務めていた「ヴィトゥス・ベーリング」率いる樺太探検隊が、カムチャッカ半島の基地より調査を開始。これを皮切りに、樺太におけるロシアの活動が活発化したと考えられています。

さらに1780年(安永9年)には、フランスの海軍士官「ジャン・フランソワ・ガロー」率いる探検隊が、探検船2隻と共に、樺太の沿岸調査を行うようになりました。

樺太で活発に活動するロシアやフランスに対して、当時の日本が持っていた武力では、太刀打ちすることができません。そこで、ロシアの動向に危機感を抱いた「仙台藩」(現在の宮城県)の経済学者「工藤平助」(くどうへいすけ)が、1783年(天明3年)、ロシアに関する研究書「赤蝦夷風説考」(あかえぞふうせつこう)を書き上げ、当時の老中「田沼意次」(たぬまおきつぐ)に献上しました。

これを読んだ田沼意次は、1785年(天明5年)、役人を蝦夷地へ派遣することに。現地での調査を実施させましたが、田沼意次が失脚したため、江戸幕府による蝦夷地の開発計画は中止になってしまったのです。

そして、田沼意次のあとに老中筆頭となった「松平定信」(まつだいらさだのぶ)が、「寛政の改革」(かんせいのかいかく)を開始。この改革で松平定信は、江戸幕府主導で蝦夷地の調査を行っていた田沼意次の政策を転換させ、蝦夷地の開発や防衛は、松前藩に任せることを決定します。しかし当時は、「樺太は島なのか、それとも半島なのか」という論争が巻き起こっていました。

さらには江戸幕府が、樺太は日本固有の領土だと宣言していたのにもかかわらず、ロシアが何度も蝦夷地へ進出していることに頭を悩ませていたのです。そのため江戸幕府は、調査を行うべく、間宮林蔵や松田伝十郎を樺太へ派遣したと伝えられています。

「樺太は、島だった」間宮林蔵の発見

間宮林蔵は、樺太への探検出発の日に見送りに来た弘前藩(ひろさきはん:現在の青森県、通称[津軽藩])の兵指揮格であった「山崎半蔵」(やまざきはんぞう)に対して、「成功せぬうちは、帰ってくることは致しませぬ。もしも失敗に終わった場合には樺太に残り、その地の土になるか、もしくはアイヌ人として生涯を終えます。再びお眼にかかれるとは思いませぬ。お達者でお暮らし下さい」と言い残して樺太へと旅立ちます。

1808年(文化5年)4月、樺太に渡った間宮林蔵一行は、樺太が島であればどこかで必ず出会うはずだと考え、松田伝十郎は樺太の西海岸を、間宮林蔵は東海岸を北上することにしました。数人のアイヌ人を案内役にして、間宮林蔵が小船(こぶね)で北上すると、アムール川(中国とロシア極東地方の境界となっている川)の河口が見える地点まで到達。しかし、小船では思うように進むことができずに断念します。

諦めきれなかった間宮林蔵は、江戸幕府に懇願して同年8月、再度樺太へ渡り、前回の失敗を教訓にしてより大きな船で出発したのです。

間宮林蔵達は、山丹人(さんたんじん:ロシアの[ウリチ族])に、途中で襲われて食料を奪われ、海が荒れただけでなく、1ヵ月以上も氷雪に覆われて身動きができないなど、数々の困難に見舞われます。

しかし、翌1809年(文化6年)5月には樺太北部のナニオー(現在の北樺太西岸)まで辿り着き、そのままゆっくりと北上。そこに広がる大きな海を見つけ、樺太が半島ではなく、島であることを発見したのです。

間宮海峡の発見

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