江戸時代

踏み絵の導入

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江戸時代に入ると、幕府は鎖国政策を採ってキリスト教を弾圧するようになります。その中で江戸幕府は、キリスト教信者をあぶり出すために、「踏み絵」(ふみえ)と呼ばれる制度を作ったのです。キリスト教信者にとって大切な聖画像などを踏ませ、踏めなかった人物を「キリシタン」と見なし、厳しい処罰を行いました。踏み絵についてだけでなく、キリスト教が弾圧された時代の中で、キリスト教信者であった武将達についても併せてご紹介します。

キリスト教は、いつ日本に入ってきたのか?

フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸

織田信長

織田信長

1549年(天文18年)、イエズス会のスペイン人宣教師「フランシスコ・ザビエル」が、「薩摩半島」(現在の鹿児島県南部)に来航しました。フランシスコ・ザビエル一行は、薩摩国(現在の鹿児島県西部)の領主であった、「島津貴久」(しまづたかひさ)より、布教の許可を得ます。

しかし、すでに仏教が浸透していた日本において、布教活動を進めることは難しく、のちにフランシスコ・ザビエルは、九州や大坂、京都にまで足を伸ばしますが、布教活動はままならず、2年ほどの滞在で日本をあとにしました。

その後、1569年(永禄12年)に「織田信長」が、ポルトガル出身のイエズス会宣教師「ルイス・フロイス」と出会います。織田信長は、ルイス・フロイスから様々な西洋の文化を学び、大いに興味を示したとされているのです。また、織田信長が、イエズス会と良好な関係を結ぼうとしたのは、ポルトガルと交易をするためであったとも言われています。

ところが織田信長は、次第に自分を神格化し、家臣や領民達に崇めさせるようになったため、キリスト教との良好な関係は、長くは続きませんでした。この背景には、日本とスペインの間で政治的な駆引きがあったとされ、織田信長には、キリスト教国であるスペインの要求を撥ね付けるため、イエズス会との関係を断ち切りたいという思惑があったと推測されています。

キリスト教宣教師に国外退去命令

織田信長亡きあと、天下統一を目指した「豊臣秀吉」は、1587年(天正15年)に、キリスト教の宣教、及び南蛮貿易に関する禁制文書「バテレン追放令」を出しました。「バテレン」とは、ポルトガル語で「神父」を意味します。

キリスト教の宣教に対して、比較的寛大だった織田信長から一転し、豊臣秀吉は、キリスト教の宣教師に国外退去を命じたのです。しかし、キリスト教を完全に日本から排除した訳ではありませんでした。この豊臣政権下においても、織田信長を「本能寺の変」で討った「明智光秀」の娘で、「細川家」に嫁いだ「細川ガラシャ」など、仏教からキリスト教に改宗する人物もいたのです。

江戸時代になって強まったキリスト教弾圧

江戸幕府が厳しい弾圧を行う

江戸幕府は、一強体制をより強固にするため、キリスト教に対する弾圧を一段と強めるようになっていきます。ただし、「徳川家康」が江戸幕府初代将軍の座に就いていた時代には、キリスト教は黙認されており、南蛮(スペインやポルトガルなどのヨーロッパ諸国)との貿易についても、禁止されていた訳ではありませんでした。

ところが、2代将軍「徳川秀忠」(とくがわひでただ)の代になると、1612年(慶長17年)にキリスト教の「禁教令」を発布。これに加えて1616年(元和2年)には、ヨーロッパからの船の来航を「長崎港」(長崎県長崎市)と平戸港(ひらどこう:長崎県平戸市)に制限する、「二港制限令」が出されることとなったのです。

そして徳川秀忠は、さらにキリスト教弾圧を進めます。1617年(元和3年)には、長崎の住民に対して宣教師との接近を禁じ、各地に潜伏していた宣教師やその関係者を次々と捕らえ、処刑したのです。

3代将軍「徳川家光」(とくがわいえみつ)は、1623年(元和9年)、「江戸の大殉教」と呼ばれる、キリスト教の大弾圧を実施。イエズス会の宣教師やキリスト教信者ら総勢50名が捕らえられ、「札の辻刑場」(ふだのつじけいじょう:現在の東京都港区)にて、見せしめのため、多くの群衆の前で火刑に処されたのです。

隠れキリシタンをあぶり出す踏み絵の始まり

イエス・キリストの踏み絵

イエス・キリストの踏み絵

1628年(寛永5年)より、長崎で「踏み絵」の制度が始まります。当時は九州、特に長崎において、「隠れキリシタン」と呼ばれるキリスト教信者達が、少なからずいました。

この隠れキリシタンをあぶり出すために、聖画像や「メダイ」(メダルのような丸い金属製品)を踏むことを強いたのが踏み絵です。

敬虔(けいけん:神を敬い、仕える気持ちが深い様子)なクリスチャンであるほど、信仰の象徴である聖母マリア像やキリスト像を踏むことはできず、キリスト教徒として摘発され、重い処罰が下されました。

踏み絵と言う恐ろしいあぶり出しが始まったきっかけは、日本との貿易を独占したかった、オランダ人の発案だったと言われています。オランダ側は踏み絵により、キリスト教国であったポルトガルやスペインを、日本から排除しようとしたのです。

その他、踏み絵の始まりについては、ポルトガル出身の宣教師でありながら、日本での拷問によって棄教した「クリストヴァン・フェレイラ」(日本名:沢野忠庵[さわのちゅうあん])による発案説や、日本人の創案だという説もあり、その真偽のほどは、定かではありません。

実はクリスチャンだった戦国武将達

大友宗麟

大友宗麟

戦国時代や江戸時代における武将の中にも、キリスト教信者がいました。日本刀を振りかざし、荒ぶる戦国時代を生き抜きながらも、敬虔なキリスト教信者であった武将達は「キリシタン大名」と呼ばれていたのです。

なかでも有名なのが、豊後国(現在の大分県)を治めていた「大友宗麟」(おおともそうりん)。

安土桃山時代から戦国時代に活躍した大友宗麟は、フランシスコ・ザビエルとの出会いがきっかけで西洋文化に興味を持つようになり、のちに自ら洗礼を受けて、「ドン・フランシスコ」という先例名を授けられ、キリスト教に改宗しました。

大友宗麟は、名刀として名高い「骨喰藤四郎」(ほねばみとうしろう)を所有していた武将ですが、実は権力闘争などには、あまり興味がなかったとも言われています。宣教師を通じて日本に入ってきた西洋医学に感銘を受け、日本で初めて病院を建設したのも大友宗麟です。

そして、豊臣秀吉の側近であり、「黒田官兵衛」(くろだかんべえ)の別名でも知られている「黒田孝高」(くろだよしたか)もまた、キリシタン大名のひとりでした。黒田孝高の洗礼名は「ドン・シメオン」と言い、家臣や領民達にキリスト教を広めたと伝えられています。しかし、豊臣秀吉がバテレン追放令を発したことによって、黒田孝高は、キリスト教を棄教しました。

その他にも、織田信長の孫であり、幼名を「三法師」(さんぼうし)と呼ばれた「織田秀信」(おだひでのぶ)や、江戸幕府の「キリシタン国外追放令」により、マニラに追放された「高山右近」(たかやまうこん)なども、キリシタン大名として知られています。

骨喰藤四郎
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