安土桃山時代

四国平定

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「四国平定」(しこくへいてい)は、1585年(天正13年)6~8月にかけて、四国を舞台として起こった、「羽柴秀吉」(のちの「豊臣秀吉」)と「長宗我部元親」(ちょうそかべもとちか)の戦いです。四国を統一したばかりの長宗我部元親でしたが、同合戦により、わずか2ヵ月で土佐国(現在の高知県)のみを残して、その他の国を奪われることとなりました。「土佐の出来人」(とさのできびと)と称された長宗我部元親さえも、羽柴秀吉には敵わなかったのです。四国平定について、経緯とその後について併せてご紹介します。

四国平定までの道のり

天下統一を目指した羽柴秀吉

豊臣秀吉

豊臣秀吉

1582年(天正10年)、「織田信長」が「本能寺の変」で亡くなると、その翌年に羽柴秀吉は、「賤ヶ岳の戦い」(しずがたけのたたかい)で「柴田勝家」(しばたかついえ)を破り、着々と天下統一に近付いていました。

柴田勝家には、織田信長の三男である「織田信孝」(おだのぶたか)が付き、羽柴秀吉には、同じく次男の「織田信雄」(おだのぶかつ)が付いていたという背景から、当初、羽柴秀吉と織田信雄は、良好な関係を築いていました。

しかし織田信雄が、「清洲会議/清須会議」(きよすかいぎ)によって、織田信長の後継者に定められた幼い「三法師」(さんぼうし:のちの[織田秀信])の後見として、「安土城」(あづちじょう:滋賀県近江八幡市)に入城したにもかかわらず、羽柴秀吉により、それから間もなく同城から退去させられます。この出来事をきっかけに、両者の関係が悪化。

さらに羽柴秀吉は、織田信雄の家臣を味方に付けようとしました。その中で、「津川義冬」(つがわよしふゆ)や「岡田重孝」(おかだしげたか)、そして「浅井長時」(あざいながとき)といった家臣達が羽柴方に寝返ったことから、織田信雄は「徳川家康」と同盟を結び、1584年(天正12年)3月に、この3人を処刑したのです。羽柴秀吉はこれに激怒し、出兵を決意しました。

小牧・長久手の戦い

小牧城跡

小牧城跡

徳川家康が織田軍に合流し、徳川・織田方と羽柴方の戦いが始まります。徳川家康が「清洲城」(きよすじょう:愛知県清須市)に到着した頃、織田軍にいた「池田恒興」(いけだつねおき)が羽柴軍に寝返り、「犬山城」(いぬやまじょう:愛知県犬山市)を占拠します。

徳川家康は本陣を敷くため、すぐに「小牧山城」(こまきやまじょう:愛知県小牧市、別称「小牧城」)に駆け付け、戦いに備えました。池田恒興には「森長可」(もりながよし)が合流し、小牧山城への攻撃を計画。これを知った徳川家康は、森長可の軍を奇襲し、敗走に追い込みました。

小牧・長久手の戦い」(こまき・ながくてのたたかい)と呼ばれるこの戦により、徳川家康は小牧山城を占拠します。その後、戦は膠着(こうちゃく)状態となりました。

しかし、池田恒興と森長可が、三河国(現在の愛知県東部)へ進軍したことで、再び戦が勃発したのです。長久手付近において池田恒興と森長可は、徳川軍により首を討ち取られました。そして1584年(天正12年)11月、羽柴秀吉が織田信雄を説得し、小牧・長久手の戦いは停戦となったのです。

小牧・長久手の戦い
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四国平定の始まり

羽柴秀吉の動向

長宗我部元親

長宗我部元親

小牧・長久手の戦いで、徳川家康に苦しめられた羽柴秀吉でしたが、織田信雄とは和睦し、織田信雄を「織田家」の当主に据えました。そして羽柴秀吉は、徳川家康に妹の「朝日姫」を嫁がせたり、母親の「大政所」(おおまんどころ)を人質に送ったりしたことで、ようやく徳川家康に、自身の臣下となることを承諾させたのです。

この頃の羽柴秀吉は、四国と九州を統一すれば天下統一を果たせる段階に入っていたため、1585年(天正13年)、四国統一を決意します。

四国は同年、長宗我部元親が統一したばかりでした。長宗我部元親は、小牧・長久手の戦いにおいても、織田信雄、及び徳川家康と手を組んで羽柴秀吉と対立していたため、羽柴秀吉との関係は悪化していたのです。

羽柴秀吉との和睦の条件として、長宗我部元親は伊予国(現在の愛媛県)の割譲を提案しますが、羽柴秀吉はこれを拒否。そして羽柴秀吉は、伊予国だけでなく、讃岐国(現在の香川県)も割譲するように求めました。

ところが、長宗我部元親が提案を受けなかったため交渉は決裂し、羽柴秀吉は1585年(天正13年)6月、弟である「羽柴秀長」(はしばひでなが:のちの豊臣秀長)を総大将とする、100,000人もの大軍を、長宗我部元親のもとへ送ることとなったのです。

長宗我部元親とはどんな人物?

四国平定で羽柴秀吉と対立した長宗我部元親は、1504年(文亀4年/永正元年)、土佐国の豪族「長宗我部国親」(ちょうそかべくにちか)の嫡男として誕生しました。幼少時代は、「姫若子」(ひめわこ:姫のような若君)と呼ばれるほど、大人しかったと言われていますが、初陣では活躍を見せ、「鬼若子」(おにわこ:戦いで活躍する若君)と称される武将になったのです。

父の死後は家督を継ぎ、四国統一を目指します。そして1568年(永禄11年)に「本山氏」(もとやまし)、1569年(永禄12年)に「安芸氏」(あきし)、1575年(天正3年)「土佐一条氏」(とさいちじょうし)に勝利を収め、土佐国を平定しました。

さらに1582年(天正10年)には、阿波国(現在の徳島県)、1584年(天正12年)には讃岐国と伊予国を制覇。そして1585年(天正13年)の春、ついに四国統一を果たしたのです。

四国平定を成し遂げた羽柴秀吉

羽柴秀吉の軍構成

四国統一を成し遂げたばかりの長宗我部元親のもとへ、羽柴秀吉は、約100,000人の兵を送りました。3部に構成された軍は、それぞれが分担していた場所から、四国に次々と上陸。

阿波国には、羽柴秀長と「羽柴秀次」(はしばひでつぐ:のちの[豊臣秀次])の軍勢約60,000人、讃岐国には、「宇喜多秀家」(うきたひでいえ)と「蜂須賀正勝」(はちすかまさかつ)、「黒田官兵衛」らが率いた軍勢約20,000人、伊予国には、「小早川隆景」(こばやかわたかかげ)や「吉川元長」(きっかわもとなが)、「宍戸元孝」(ししどもとひで)、「福原元俊」(ふくばらもととし)の軍勢約40,000人が攻め込んだのです。

これらに対して長宗我部元親の軍勢は、すべて合わせても40,000人ほどしかおらず、四国内の城は、羽柴秀吉らの軍勢が次々と落城していきました。

長宗我部元親の降伏

長宗我部元親は、羽柴秀吉の軍に兵の数でも戦術でも歯が立たず、1585年(天正13年)7月に停戦し、8月に講和が成立します。長宗我部元親は、当初最後まで戦い抜くつもりであったと言われていますが、家臣の「谷忠澄」(たにただずみ)らに説得されて降伏を決意。羽柴秀吉からは、講和の条件として4つが提示されました。

  1. 土佐一国の安堵

  2. 長宗我部家」の当主が3,000人の兵を率いる軍役を務めること

  3. 人質の提供

  4. 徳川家」との同盟破棄

四国平定後には、土佐国以外の国分けが行われ、阿波国は「蜂須賀家政」(はちすかいえまさ)、讃岐国は「仙石秀久」(せんごくひでひさ)と「十河存保」(そごうまさやす/ながやす)、伊予国は小早川隆景に与えられることになったのです。

四国平定後に変化した長宗我部家の状況

長宗我部元親は四国平定により、阿波国と讃岐国、伊予国を奪われ、羽柴秀吉の配下となりました。1586年(天正14年)には羽柴秀吉から、九州平定のために「大友家」と「島津家」の戦いに参加するよう命じられます。

長宗我部元親は島津家に勝利しますが、この戦により、嫡男の「長宗我部信親」(ちょうそかべのぶちか)を失いました。その後、長宗我部信親の弟「長宗我部盛親」(ちょうそかべもりちか)が、長宗我部家の家督を継ぐこととなったのです。

なお、この長宗我部盛親が所有していたと伝わる「長宗我部盛親の太刀」(ちょうそかべもりちかのたち)は、現在、京都市下京区にある「蓮光寺」(れんこうじ)に所蔵されています。

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