平安時代

遣唐使廃止

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894年(寛平6年)、約260年続いていた「唐」(とう:現在の中国)に使節を派遣する「遣唐使」(けんとうし)が廃止されました。日本の政治と文化の発展に多大な影響をもたらしたと言われる遣唐使は、なぜ廃止されたのでしょう。遣唐使が廃止される直接の原因は、「菅原道真」(すがわらみちざね)の提言によるものでした。遣唐使が担っていた役割、そして当時の技術で海外へ渡る危険性などを鑑みると、廃止の必然性が理解できます。遣唐使が廃止された理由と共に、遣唐使廃止に伴い消滅してしまった当時の慣習についてもご紹介します。

遣唐使とは

制度や文化の輸入を目的にした朝廷の使節

遣唐船

遣唐船

630年(舒明天皇2年)を起源に、日本の朝廷が「唐」(現在の中国)に派遣した公式の使節のことを「遣唐使」と言います。国際情勢に触れ、唐の制度や文化の輸入を目的に、数百人が2~4隻の船に分かれて乗船し、海を渡ったのです。

大国である唐に使節を送ることは、当時の日本の国力向上や文化の発展に大きく寄与しました。中国へ使節を派遣することは、遣唐使の以前からも行われていました。

はじまりは、第33代天皇「推古天皇」(すいこてんのう)の摂政「聖徳太子」(しょうとくたいし)が「隋」(ずい:現在の中国)に派遣した「遣隋使」(けんずいし)。奈良時代の歴史書「日本書紀」には、607年(推古天皇15年)に「小野妹子」(おののいもこ)を大使として隋に派遣したことが記されています。

諸説ありますが、以降6回程度、遣隋使を派遣。隋が618年(推古天皇26年)に滅亡し、新たに唐が成立したため使節の派遣は一時中断となります。そして630年(舒明天皇2年)から再び、遣唐使として使節を派遣するようになったのです。

重要なビジネスでもあった遣唐使の役割

遣唐使が乗った船「遣唐船」(けんとうせん)に乗船するのは、遣唐使だけでなく、唐との取引を求める人や技術や仏教を学ぶための留学生を含め、総勢で数百人単位にものぼりました。遣唐使に随伴した人物には、奈良時代の政治家で学者の「吉備真備」(きびのまきび)や、文人で唐でも重用された「阿倍仲麻呂」(あべのなかまろ)、仏僧の「最澄」(さいちょう)や「空海」(くうかい)など、歴史に名を刻んだ人物も数多く存在しています。

大人数を唐へ送る目的は、貢物を贈る代わりに唐の先進的な政治制度や技術、文化、仏教の経典などを調査して日本へ持ち帰ること。そして武具を始めとした物品の商取引を行うことも含まれていました。現代では当たり前になっている海外との取引ですが、当時は渡航自体が難しい時代。大きなビジネスでもあった遣唐使派遣ですが、遣唐船の半分は、海路を襲う風雨により遭難したり、水没したりして唐に到着できなかったのです。

さらに、無事に唐に到着できた船も、日本へ帰国する際には半分程度になってしまうほど危険度が高かったと考えられています。しかし、成功する確率は低くても、遣唐使派遣によって日本は莫大な利益を得ていたのです。

日本の物品を唐で販売し、その売上をもとに唐で購入した商品を持ち帰って取引すると、利益は400倍にもなったと言われています。遣唐使の派遣は、一攫千金とも言える重要なビジネスでもあったのです。

遣唐使の廃止とその背景

「菅原道真」が廃止を提言

菅原道真

菅原道真

莫大な利益をもたらし、日本の発展にも貢献していた遣唐使ですが、894年(寛平6年)に廃止となります。実は同年、20回目となる遣唐使の派遣が計画されていました。

しかし、20回目の遣唐使として指名された「菅原道真」は、危険をはらむ遣唐使の派遣を廃止しようと朝廷に提言したのです。

菅原道真は当時、第59代天皇「宇多天皇」(うだてんのう)に重用されており、律令制において令に規定されない令外官(りょうげのかん)で、天皇の側近である「蔵人所」(くろうどどころ)の長官を務めていました。

過去に何度も派遣し、莫大な利益をもたらす上に、文化交流をも育んできた遣唐使を廃止するのは容易なことではありません。しかし、菅原道真の優れた政治力によって国内の風潮は大きく変わっていったと言われています。

菅原道真が廃止を提言した理由は大きく分けて2つあります。ひとつは圧倒的な成功率の低さです。諸説ありますが、630年(舒明天皇2年)から894年(寛平6年)の間に、12回出発した遣唐船のうち、7回は遭難したと言われています。

遣唐船には、唐で学ぶために比較的若い年齢の人も乗っていましたし、中期から後期にかけては、一度に500人を超える人々が数隻に分かれ乗船していました。遭難すれば、遣唐使だけでなく船に乗っている人員すべてが命を落とし、莫大な費用をかけて建造した遣唐船も海の藻屑となりかねなかったのです。

次に、当時は唐側から日本に使節が派遣されており、大きな危険を冒してまで日本から遣唐使を送る必要がなくなったことも要因とされています。

また、当時の唐は内乱続きで情勢が傾き、弱体化していていたことや、危険な渡航によって優秀な人材が命を落としてしまうことは、日本にとっても由々しき問題でした。菅原道真が自らの保身のため朝廷に願い出たと言う説もありますが、以上の理由を考えると、中止も止むを得なかったと考えられます。

遣唐使の中止は、あくまで一時的な措置であったとも伝えられていますが、その後907年(延喜7年)に唐が滅亡。中国国内の政情も混乱したため、以降、遣唐使が派遣されることはなく、結果として廃止となったのです。

遣唐使の廃止と共に廃れた「節刀」

将軍への下賜は存続

遣唐使の廃止と同時に、遣唐使に託された「節刀」(せっとう)と呼ばれる習慣も廃れました。節刀とは、天皇から、出征する将軍や遣唐使に下賜された「太刀」(たち)のことで、天皇が持つ大きな権力の一部を委託された証でもある、とても重要な日本刀です。

節刀以外に「標の太刀」(しるしのたち)や「標剣」(しるしのつるぎ)という別名があります。節刀を持つ人物は「持節大使」(じせつたいし)と呼ばれ、遣唐使の大使が務めていました。

遣唐使となる使節が決まると、天皇の居所「大内裏」(だいだいり)において、重要な政務や儀式を行う「朝堂院」(ちょうどういん)にて、出発の儀式が催されます。

その後、重要な人物のみが、正殿の「紫宸殿」(ししんでん)へ移動し、節刀を授与されたのです。無事に帰国し、遣唐使としての役割を終えると、節刀は本来の持ち主である天皇へ返還されました。当然、遣唐使が無事に帰国しなければ、節刀も天皇へ返還されません。

「多治比広成」(たじひのひろなり)は、733年(天平5年)に節刀を拝受して唐に渡り、2年後の735年(天平7年)に無事に帰国。拝受した節刀は、第45代天皇の「聖武天皇」(しょうむてんのう)へと返還されました。

また、出発前に節刀が返上された事例もあります。776年(宝亀7年)には、儀式ののち、出港に際して天候が万全でなかったことから、翌777年(宝亀8年)に延期されることに。延期に伴い、大使だった「佐伯今毛人」(さえきのいまえみし)は節刀を天皇へ返上しています。

遣唐使が廃止されたことで、国外へ旅立つ使者に太刀を下賜する習慣もなくなりました。ただし、天皇から将軍や武将に日本刀を下賜する節刀は存続。939年(天慶2年)に起きた「平将門の乱」(たいらのまさかどのらん)において、「平将門」(たいらのまさかど)の討伐を命じられた「平貞盛」(たいらのさだもり)は、第61代天皇の「朱雀天皇」(すざくてんのう)より「小烏丸」(こがらすまる)と言う太刀を節刀として受け取っています。

平貞盛は、見事に乱を治めたことが評価され、褒美として小烏丸を拝領。小烏丸は平家の宝刀となり、現在は「御物」として「東京国立博物館」(東京都台東区)に所蔵されています。

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