平安時代

応天門の変
 - 刀剣ワールド

文字サイズ

「応天門の変」(おうてんもんのへん)は、平安時代であった866年(貞観8年)に発生した宮廷内の政変です。天皇の居所「大内裏」(だいだいり)にあった正殿「八省院」(はっしょういん)の正門「応天門」に何者かが火を点け炎上した事件であり、国宝の「伴大納言絵巻」(ばんだいなごんえまき)は、応天門の変を題材にして描かれたと言われています。国政の中心地で起こった放火とあって、当時は大きな政変として扱われ、結果的に藤原氏が勢力を伸ばす契機となったとも言われています。応天門の変がどのようにして起こったのか、背景も含めてご紹介します。

何者かによって放火された応天門

866年(貞観8年)3月10日、何者かによって火が点けられ、「応天門」が炎上する事件が起こりました。実際の被害は定かではありませんが、国政の中心地であったことを鑑みると、天皇に危険が及んでいた可能性もあるため、大きな事件として捉えられたのです。

現代で言う、「国会議事堂」(東京都千代田区)や「東京都庁」(東京都新宿区)が炎上したと考えると、その重大さに気付くことでしょう。事件後、誰が放火したのか犯人探しが行われますが、真犯人は簡単には見つかりませんでした。

犯人に仕立てあげられた「源信」

源信

源信

「応天門の変」にかかわる重要人物は、当時の左大臣「源信」(みなもとのまこと)と、右大臣の次の地位にあたる大納言の「伴善男」(とものよしお)です。2人は政敵とも言える間柄でした。

事件後、すぐに伴善男が「源信が犯人である」と主張したため、源信に疑いの目が向けられます。右大臣の「藤原良相」(ふじわらのよしみ)は、伴善男の告発を受けて、源信に捕縛命令を出し、源信の屋敷を包囲しました。

この源信の捕縛は急な展開で、第56代天皇「清和天皇」(せいわてんのう)の耳にも入っていなかったほど。応天門の変を題材にした絵巻物で国宝の「伴大納言絵巻」には、源信の家来達が落ち込む様子などが描かれています。

しかし、左・右大臣の上に位置する太政大臣の「藤原良房」(ふじわらのよしふさ)は、伴善男と藤原良相の関係を怪しみ、詳しく調査した上で処分を行うべきだと清和天皇に奏上しました。清和天皇は藤原良房の進言により、朝廷より使者を派遣して事件を調査。その結果、源信の疑いは晴れて、正式に無罪となったのです。

真犯人の発覚と事件の真相

源信は無罪となりましたが、結局誰が犯人だったのかが分からないまま月日が過ぎていきました。ところが、事件発生から5ヵ月近くも経った866年(貞観8年)8月に急展開を迎えます。

源信が犯人と告発した伴善男が実は真犯人である、と言う訴えがあったのです。

暴かれる伴善男の悪事

燃え上がる応天門

燃え上がる応天門

真相が発覚したきっかけは、下級官吏・備中権史生(びっちゅうのごんのししょう)だった「大宅鷹取」(おおやけのたかとり)による密告でした。

大宅鷹取は、応天門の変があった当日、伴善男ら数人が走り去ったあとで、応天門が炎上したと主張したのです。目撃していたのにすぐに報告しなかったのは、あまりにも大きな事件であったために、進言できずにいたためだと言われています。

伴善男の調査が始まると、情報提供者である大宅鷹取の娘が伴善男の従者に襲われ、殺されてしまいました。この事件により、伴善男に対する疑いが一層強くなり、従者に対しても厳しい取り調べが行われることになったのです。

従者は厳しい取り調べに耐えかね、ついに伴善男とその息子「伴中庸」(とものなかつね)が応天門に火を点けたと供述。目的は、源信を失脚させることでした。伴善男による源信が犯人だと言う告発は、源信を陥れるためだったのです。結果として、伴善男自身の悪事が暴かれることになりました。

伴善男は無罪を主張しましたが、結局は放火犯として処罰を受けることになり、一度は死罪とされますが、減じられて「伊豆国」(現在の静岡県伊豆半島)への流刑となります。

同様に、息子の伴中庸も隠岐へと流刑、その他の関係者も配流となりました。応天門の変により、古代からの有力貴族であった伴氏は没落することとなったのです。

「天安門の変」の影響

天皇に危害が及ぶことなく、無事に解決した応天門の変ですが、登場人物の人生は大きく変わってしまいました。

まず、源信は応天門の変についての嫌疑は晴れたものの、犯人として疑われたことをきっかけに精神を病み、床に伏せることが多くなりました。事件がなければ、左大臣であった源信が、のちに政治の中心となり、権力を強めたとも言われています。

藤原良房

藤原良房

藤原良房は、応天門の変真相解明における活躍が認められ、清和天皇から人臣として初めて「摂政」(せっしょう:有事や天皇が幼少時など、天皇に代わって政務を執る役職)に命じられ、藤原氏の勢力拡大に成功。藤原良房は、藤原四家のひとつ「藤原北家」出身であり、藤原北家がその後、全盛を誇ったのは、この応天門の変がきっかけとも言われています。

藤原良房は、摂関政治の創始に注力し、摂政の地位は、明治維新に至るまで藤原氏が独占することとなりました。

ただし、応天門の変については、すべてが解明されている訳ではありません。なかには事件解決により摂政の地位を得た、藤原良房こそが黒幕であるという説もあるほどです。

藤原良房は、源信や伴善男を政界から追放するために、応天門の炎上を巧みに利用。はじめに伴善男らを動かして源信を失脚させ、のちには伴善男を罪人に仕立てて政界から追放したと言うのです。

当時の政治的背景をみると、力を付け始めていた伴氏や源氏は、藤原氏を脅かす存在でもありました。そのため、応天門の変のすべては、藤原良房が藤原氏のみが生き残るように立てた策略だったのではないかとも考えられています。

応天門の変

応天門の変をSNSでシェアする

「平安時代」の記事を読む


長岡京への遷都

長岡京への遷都
781年(天応元年)に即位した第50代天皇「桓武天皇」(かんむてんのう)は、784年(延暦3年)、都だった「平城京」を捨て、「長岡京」へ遷都しました。しかし、桓武天皇は、11年後の794年(延暦13年)に、「長岡京」から「平安京」へ再び遷都。長岡京は、わずか11年間という短期間のみで都としての機能を終えることとなったのです。長岡京が都であった期間があまりに短かったために、長岡京の存在自体、長い間疑問視されていたほど。桓武天皇は、なぜ短期間に2回も遷都を行ったのでしょうか。幻の都とも称された長岡京についてご紹介します。

長岡京への遷都

平清盛が太政大臣に

平清盛が太政大臣に
平安時代末期の武将で、武家政権を樹立したことで知られる「平清盛」(たいらのきよもり)。1167年(仁安2年)、平清盛は、朝廷から武士として初めて「太政大臣」(だじょうだいじん)に任命されました。太政大臣とは律令制度における最高位の役職であり、左右大臣の上に位置する太政官の長官です。当時、貴族ではない人物が任命されることは極めて異例だったと言えます。平清盛とはどのような人物であったのか、なぜ太政大臣という高位にまで上り詰めることができたのかご紹介します。

平清盛が太政大臣に

薬子の変

薬子の変
「薬子の変」(くすこのへん)とは、平安時代初期の810年(大同5年)に起こった政変です。806年(大同元年)に即位した第51代天皇「平城天皇」(へいぜいてんのう)は、わずか3年で退位して「平城上皇」(へいぜいじょうこう)となり、809年(大同4年)に弟の「嵯峨天皇」が即位します。しかし、平城上皇に寵愛を受けていた女官「藤原薬子」(ふじわらのくすこ)や、その兄「藤原仲成」(ふじわらのなかなり)が重祚(じゅうそ:退位した天皇が再び位に就くこと)を画策。平城上皇と嵯峨天皇は対立を深め、やがて武力衝突寸前まで発展します。表向きは上皇と天皇の対立ですが、裏では「藤原式家」(ふじわらしきけ)が暗躍したとも言われている「薬子の変」。背景やその後の影響も合わせてご紹介します。

薬子の変

遣唐使廃止

遣唐使廃止
894年(寛平6年)、約260年続いていた「唐」(とう:現在の中国)に使節を派遣する「遣唐使」(けんとうし)が廃止されました。日本の政治と文化の発展に多大な影響をもたらしたと言われる遣唐使は、なぜ廃止されたのでしょう。遣唐使が廃止される直接の原因は、「菅原道真」(すがわらみちざね)の提言によるものでした。遣唐使が担っていた役割、そして当時の技術で海外へ渡る危険性などを鑑みると、廃止の必然性が理解できます。遣唐使が廃止された理由と共に、遣唐使廃止に伴い消滅してしまった当時の慣習についてもご紹介します。

遣唐使廃止

前九年の役

前九年の役
「前九年・後三年の役」とは、平安末期の陸奥国・出羽国(東北地方)で起こった2大戦役で、陸奥国の俘囚(ふしゅう:朝廷の支配下にある蝦夷[えぞ])と源氏との間に起きた戦争です。1051年(永承6年)~1062年(康平5年)の「前九年の役」と1083年(永保3年)~1087年(寛治元年)の「後三年の役」、2つを合わせてこう呼びます。

前九年の役

後三年の役

後三年の役
「後三年の役」は、平安末期の1083年(永保3年)~1087年(寛治元年)に起こった、奥州の支配者・清原氏の内紛に、陸奥守(むつのかみ)である源義家が介入して起きた戦いです。この戦いの結果、清原氏は消滅して、奥州藤原氏へと繋がっていくこととなりました。

後三年の役

保元の乱・平治の乱

保元の乱・平治の乱
「源平合戦」とは、狭義では1180年(治承4年)~1185年(元暦2年)の「治承寿永の乱」を指し、広義では、1156年(保元元年)の「保元の乱」から1192年(建久3年)の源頼朝の征夷大将軍就任までを指します。 具体的には、源氏が歴史に登場し、鎌倉幕府を開いて武士の頂点に上り詰めるまでです。「保元の乱・平治の乱」とは、この源平合戦へと繋がるきっかけとなった平安時代の2つの争いのこと。源義朝や平清盛といった武家が政界へ進出することになったのが1156年に起こった「保元の乱」で、保元の乱の勝者である源義朝と平清盛が争い、平家が源氏を倒したのが1159年に起こった「平治の乱」です。こちらでは、源平合戦を語る上でかかせない重要な戦いである「保元の乱・平治の乱」についてご紹介します。大河ドラマでも取り上げられるほど人気のある、源平合戦の始まりをお楽しみ下さい。

保元の乱・平治の乱

源平合戦(治承・寿永の乱)

源平合戦(治承・寿永の乱)
1180年(治承4年)、源氏と平家の争いである「源平合戦」のクライマックスである「治承・寿永の乱」が始まります。ここで源平合戦最大のヒーロー・源義経の活躍が繰り広げられるのです。

源平合戦(治承・寿永の乱)

平将門の乱

平将門の乱
「平将門」(たいらのまさかど)は、武士ながら、桓武天皇(かんむてんのう)の血筋を引く高貴な人物。939年(天慶2年)に起きた「平将門の乱」では、自らを「新皇」(しんのう)と称して天皇になることを宣言します。これは、古代以来の支配体制を揺るがす、画期的な大事件。貴族の時代を終わらせ、武士の時代を作ろうとしたのです。

平将門の乱

注目ワード
注目ワード