平安時代

薬子の変

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「薬子の変」(くすこのへん)とは、平安時代初期の810年(大同5年)に起こった政変です。806年(大同元年)に即位した第51代天皇「平城天皇」(へいぜいてんのう)は、わずか3年で退位して「平城上皇」(へいぜいじょうこう)となり、809年(大同4年)に弟の「嵯峨天皇」が即位します。しかし、平城上皇に寵愛を受けていた女官「藤原薬子」(ふじわらのくすこ)や、その兄「藤原仲成」(ふじわらのなかなり)が重祚(じゅうそ:退位した天皇が再び位に就くこと)を画策。平城上皇と嵯峨天皇は対立を深め、やがて武力衝突寸前まで発展します。表向きは上皇と天皇の対立ですが、裏では「藤原式家」(ふじわらしきけ)が暗躍したとも言われている「薬子の変」。背景やその後の影響も合わせてご紹介します。

薬子とは

「薬子の変」の「薬子」とは、「平城上皇」の寵愛を受けた女官「藤原薬子」を指しています。藤原薬子とは、どのような人物なのでしょうか。

藤原薬子の出自

藤原薬子

藤原薬子

藤原薬子は、「藤原種継」(ふじわらのたねつぐ)の娘として「藤原式家」に生を受けます。

藤原式家とは、日本で最初の本格的な法制「大宝律令」立案や平城京遷都に尽力した「藤原不比等」(ふじわらのふひと)の三男「藤原宇合」(ふじわらのうまかい)を祖とする家系です。

藤原不比等の子4人が立てた家系は、南家、北家、式家、京家の4家に分かれました。

藤原薬子の父・藤原種継は、第50代天皇「桓武天皇」(かんむてんのう)が平城京から長岡京に遷都した際、都造りに尽力した人物ですが、遷都反対派に暗殺されています。藤原種継の死後、藤原薬子は同じ藤原式家の「藤原縄主」(ふじわらのただぬし)に嫁ぎ、三男二女をもうけました。

そして自身の長女が桓武天皇の皇太子「安殿親王」(あてのしんのう:のちの平城上皇)に輿入れすることとなり、娘の輿入れに伴い、付き添いとして宮仕えを始めたのです。

平城天皇の寵愛を独り占め

平城天皇

平城天皇

娘の付き添いとして東宮(皇太子の住む宮殿)に入った藤原薬子でしたが、なんと娘の夫である安殿親王と不倫関係となります。2人の関係は安殿親王の父・桓武天皇の怒りに触れ、藤原薬子は東宮を追われることとなりました。

しかし、806年(大同元年)に安殿親王が平城天皇として即位すると、藤原薬子は再び後宮に戻ります。典侍(ないしのすけ:宮中女官で2番目に高い位)、続いて尚侍(ないしのかみ:宮中女官の最高位)と、次々に高い役職が与えられ、平城天皇の寵愛を独占。藤原薬子の兄「藤原仲成」(ふじわらのなかなり)と共に権力を持つようになったのです。

薬子の変の歴史的背景とその変遷

病気に苦しんだ平城上皇と嵯峨天皇

嵯峨天皇

嵯峨天皇

806年(大同元年)に即位した平城天皇は、わずか3年で退位し、809年(大同4年)の4月「平城上皇」となります。続いて、平城上皇の弟「嵯峨天皇」が即位。嵯峨天皇は、自分の子ではなく、平城上皇の息子「高丘親王」(たかおかしんのう)を皇太子に据えたことから、嵯峨天皇が即位した当初、平城上皇と嵯峨天皇の関係は良好であったと考えられています。

平城上皇がわずか3年で嵯峨天皇に譲位したのは、自身の健康上の理由がありました。ところが、譲位から半年後、809年(大同4年)の11月頃には、平城上皇の病状は回復。反対に、翌810年(弘仁元年)の1月頃から、今度は嵯峨天皇が病に伏すようになりました。

もともと譲位にも反対していた藤原薬子とその兄・藤原仲成は、平城上皇の重祚を画策。平城上皇側の影響力が強くなり始めたため、嵯峨天皇側が警戒するようになったのです。この頃から両者の関係は悪化し始めたとされます。

平城上皇と嵯峨天皇の対立が激化

809年(大同4年)12月、平城上皇は旧都だった平城京へ移り住み、810年(大同5年)6月には、観察使(かんさつし:地方政治の状況を観察する役職)を廃止し、参議(さんぎ:朝廷組織の最高機関である太政官の官職のひとつ)を復活させました。

平城上皇側が重要な改変を行うことができるのだと周囲に示し、上皇の権力をより強固にするための行動だったと考えられています。平城上皇の一連の行動に対して、嵯峨天皇は「蔵人所」(くろうどどころ)を設置。蔵人所とは、機密文書などを取り扱う役所で、平城上皇側に情報を漏らすまいとする意図がありました。

旧都の平城京を拠点とする平城上皇と、平安京を拠点とする嵯峨天皇は、事実上の二朝対立状態となります。

薬子の変勃発

810年(弘仁元年)9月、藤原薬子にたき付けられた平城上皇は、遂に平城京への遷都を宣言しました。嵯峨天皇は、平城上皇の遷都を拒んで平城京を封鎖したため、平城上皇は挙兵。嵯峨天皇は、「坂上田村麻呂」(さかのうえのたむらまろ)を送り、事態の鎮圧を図りました。

平城上皇は藤原薬子と共に進軍しますが、朝廷側の守備には敵わず、諦めて平城京へと帰京。嵯峨天皇の迅速な対応により、平城上皇が挙兵した薬子の変は、武力衝突に発展することなく、宮中の内紛として収束したのです。

その後、薬子の変に加担したとして、藤原薬子や側近は官位剥奪や左遷などの処罰を受けました。なかでも藤原仲成は処刑と言う重い罰が課され、藤原薬子は追放となります。平城上皇は剃髪し、余生を過ごしましたが、藤原薬子は服毒による自殺を遂げています。

薬子の変が歴史に与えた影響

上皇の地位は低下し、尚侍は影の薄い役職に

上皇はもともと非常に高い位であり、天皇とほぼ同等ともされていました。しかし薬子の変から教訓を得た嵯峨天皇は、自身の譲位の際に上皇と天皇は立場が違うことを明言し、以降、上皇の立場と影響力が以前よりも弱まったと言われています。

同様に、藤原薬子が務めていた尚侍という宮中女官の権力も弱まり、代わって蔵人(くろうど:宮中の秘書にあたる役職)が活躍するようになりました。

藤原北家が勢力を拡大

藤原冬嗣

藤原冬嗣

桓武天皇、平城天皇、嵯峨天皇の時代は、朝廷や天皇家が藤原家との権力争いに翻弄された時代でもありました。

藤原式家は藤原薬子や藤原仲成と共に権勢を振るいましたが、薬子の変により没落。藤原不比等の次男「藤原房前」(ふじわらのふささき)を祖とする藤原北家は、薬子の変を乗り越え、「藤原冬嗣」(ふじわらのふゆつぐ)が嵯峨天皇の腹心となり繁栄していきました。

藤原北家はその後、政治に深くかかわるようになり、平安時代における藤原摂関政治への第一歩を築いたのです。

薬子の「悪女」像について

長らく、平城上皇が嵯峨天皇と対立し、遂に遷都を宣言したのは、寵愛を受けていた藤原薬子とその兄である藤原仲成がそそのかしたためだとされてきました。そのため薬子の変と言う名が付けられたとも言われています。

しかし、歴史研究が進むうちに、藤原薬子は「伝えられているほど悪女ではなかった」と言う説も有力視されるようになりました。さらに、平城上皇は、側近に操られるような存在ではなく、平城上皇自体が復権を望み、主体的に動いていたとも考えられています。

つまり、天皇を悪く言うことを避けるため、藤原薬子が必要以上に悪女に仕立て上げられた可能性もあるのです。こういった説を背景に、現在薬子の変は、「平城太上天皇の変」とも呼ばれています。

薬子の変

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