甲冑(鎧兜)と武将
戦国武将と甲冑③
甲冑(鎧兜)と武将
戦国武将と甲冑③

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甲冑は日本刀と同じく、戦功の贈答品として主君から家臣に下賜されることが多かったようです。家臣はそれを誇りに思い、主君は戦場で変わり兜を身に付けた家臣を見付けやすく、その活躍ぶりを伝聞し、恩賞を与える判断にしたのかもしれません。ここでは「豊臣秀吉」、「黒田官兵衛」、「前田利家」が所有し、家臣に贈ったことが伝わる変わり兜について詳しくご紹介します。

派手さと豪華さで自己主張した豊臣秀吉の甲冑

天下人秀吉の勝負強さを感じる兜

亡き主君「織田信長」の意志を引き継いで、天下統一を果たした「豊臣秀吉」。信長生存の時代から多くの戦地で活躍し、機知に富んだ戦いぶりが今でも語り草になっています。

一の谷馬藺兜

一の谷馬藺兜

秀吉は多くの甲冑を所有していましたが、代表的な物は「一の谷馬藺兜」(いちのたにばりんかぶと)でしょう。朝日が昇る様子をイメージして作られたとも言われていますが、兜から伸びた29本の後立は、花の菖蒲(しょうぶ)の1種である「馬藺」(ばりん)の葉をモチーフにした物。複数本用いることで威厳を示しているのです。

菖蒲は「勝負」と読み方が同じで戦いの縁起物とされており、秀吉の勝ちへのこだわりが形になった物と言えるでしょう。

この兜の現物は、秀吉が「蒲生氏郷」(がもううじさと)の家臣である「志賀(西村)重就」(しが[にしむら]しげなり)に「九州攻め」での功績を讃えて下賜したとされており、東京国立博物館に所蔵されています。

派手好きの秀吉らしさが伺える具足

一の谷馬藺兜の他にも、豊臣秀吉所用と伝わる甲冑があります。それは、重要文化財の「銀伊予札白糸威胴丸具足」(ぎんいよざねしろいとおどしどうまるぐそく)で、こちらも兜が目を引くデザインです。兜の鉢に熊毛を施し、金箔押しの軍配団扇を兜の前と後ろに付けています。

また、胴と草摺(くさずり)は、革札の矢筈頭(やはずがしら)に銀箔を押して白糸で仕立てられた豪華な物。この具足は秀吉が東北へ赴いたときに、「伊達政宗」(だてまさむね)に下賜したとされています。

また秀吉は、正室「ねね」(おね:通称は北政所)との養子「木下利次」(きのしたとしつぐ)にも、「色々威二枚胴具足」(いろいろおどしにまいどうぐそく)を下賜。こちらの兜は、僧侶が被る「帽子」(もうす)を象った形で、後立にヤクの毛で作られた法具の払子(ほっす)が備わり印象的です。甲冑は切付札製の2枚胴形式で、草摺は5段。袖に桐紋、佩楯には沢瀉(おもだか)の紋が銀箔でしつらえられており、シンプルながらも随所に秀吉ならではの派手さが見受けられます。

強い自己主張はコンプレックスの裏返し

豊臣秀吉がまだ羽柴秀吉として織田信長に仕えた頃「墨俣の一夜城」や「備中高松城の水攻め」などで信長の進撃を支えました。ときには奇想天外な作戦で相手を攻め落とすこともあり、次第に織田勢の中で頭角を現していきます。「本能寺の変」のあとも「中国征伐」、「九州征伐」と西国諸国を平定し、秀吉の力は絶大なものとなるのです。そして「織田信雄」(おだのぶかつ:信長の次男)や「柴田勝家」など、織田軍の実力者達を抑えて関白に任官すると「小田原城攻め」や「奥州仕置」などを敢行して、諸国武将達の頂点に上りつめました。

その一方で、平安京内裏跡に「聚楽第」を建設し、大坂城も築城するなど権力を誇示。各地の武将を集めて豪華な茶会や花見を開くなど、贅を尽くして労うこともありました。

秀吉がなぜこのように派手好きで豪華さを好んだのか。それは戦国武将の多くが祖先から代々伝わる由緒正しい家柄だったのに対し、秀吉は百姓出身であったため、そのコンプレックスから出世欲が強く、他の武将より抜きん出ることに闘志を燃やしたと考えられています。さらに権力を手にすると、それを形として強く主張することで、武将達を服従させたのです。

南北朝時代までは機能性重視でシンプルだった甲冑も戦国時代になると動きやすく、また武将の個性を打ち出したスタイルに変わってきます。秀吉もそのスタイルを採り入れて、自分自身を鼓舞させたのではないでしょうか。戦地においても秀吉は、目立つ出で立ちで赴き、自らの存在をアピールしました。

甲冑だけでなく陣羽織や小物に至るまで、派手好きの秀吉らしさが見受けられます。自己主張と勝負へのこだわりが、天下人へと押し上げた一番の原動力かもしれません。

軍師として戦国の世で異彩を放った黒田官兵衛の甲冑

シンプルな形に多くの意味を感じる、黒田家伝来の兜

黒田官兵衛」(くろだかんべえ)は、豊臣秀吉の名参謀として秀吉の出世や天下取りを支えた武将です。本名は「黒田孝高」(くろだよしたか)ですが、一般的には黒田官兵衛または「黒田如水」(くろだじょすい)として知られており、戦略や外交などを担う「軍師」として辣腕(らつわん)を発揮しました。

銀白檀塗合子形兜

銀白檀塗合子形兜

官兵衛が身に付けたとされるのは「銀白檀塗合子形兜」(ぎんびゃくだんぬりごうすなりかぶと)です。「合子」とは蓋が付いた朱塗りの椀のことで、椀をひっくり返したような鉄張りの鉢に、銀箔の上に薄く透かしたように漆をかけているのが特徴です。

この兜は黒田家伝来の物とされており、前立や後立などの装飾がないシンプルなデザインですが、装飾した兜が多い戦国時代の中では、かえって目立ったのかもしれません。

「合」は、あわせる・むすぶ・あつまるなどの意味から、軍としてのまとまりを表したとされています。また、椀は食べ物を盛る器であることから、石高(こくだか)へのこだわり、すなわち国力への執着の強さを表していたとも言われています。この他にも椀で「敵を飲み干す」という意味があったとも考えられており、シンプルな形ながらも様々な意味や想いが推察できます。

戦略家・築城の名手として秀吉の天下取りをサポート

黒田官兵衛は、1546年(天文15年)に小寺家の家老職である「黒田職隆」(くろだもとたか)の子として播磨国(現在の兵庫県)姫路で誕生しました。14歳で実母を亡くしますが、それを忘れるかのように勉学に励みます。16歳で初陣を飾ると、21歳のときには家督と家老職を継ぎ姫路城代となりました。

やがて播磨国は勢力を拡大してきた織田信長と、山陰・山陽で勢力を伸ばす「毛利輝元」の2大軍勢に挟まれてしまいます。主君の「小寺政職」(こでらまさとも)がどちらにつくべきか迷う中で、官兵衛は信長が「長篠の合戦」で「武田勝頼」を破ったことを評価し、信長につくよう進言します。そして信長のもとで秀吉と出会い、秀吉も官兵衛の武勇や知性を評価したため、秀吉の参謀役として行動を共にすることになりました。各地で勢力争いが繰り広げられる中、官兵衛は策を考え調略を果たすなど、知恵を絞って難関を突破していきます。

ところが、1578年(天正6年)には信長に謀反を起こした「荒木村重」を説得するため有岡城に出向いた際、城内へ幽閉されてしまいます。幽閉のことを知らない信長や秀吉は「裏切り」と勘違いしますが、幽閉から約10ヵ月後に有岡城が落城して官兵衛が発見されると、秀吉達は相手の言葉に乗らずに忠義を尽くした官兵衛を高く評価しました。

さらに、信長が本能寺で「明智光秀」に討たれると、中国征伐に向かっていた秀吉に対して、毛利輝元と和睦して光秀を討つように進言し、秀吉は歴史的な「中国大返し」を実現したのです。

九州征伐にも功績を挙げ、豊前国(現在の福岡県東部、大分県北部)を秀吉から与えられると中津城を築城して城主となります。中津城以外にも広島城姫路城、大坂城などの主要な城の築城にもかかわり、官兵衛は軍略だけでなく築城にも手腕を発揮しました。

秀吉亡きあと、一線から退き家督を長男の「長政」(ながまさ)に譲りますが、「関ヶ原の戦い」では家康側の東軍に付き、九州で西軍の「大友義統」(おおともよしむね)軍との戦いに勝利しています。

お家騒動に関与した官兵衛の兜

いくつもの戦いを乗り越えてきた黒田官兵衛ですが、世が治まると関ヶ原の戦いで長政が得た筑前国(現在の福岡県西部)の「福岡城」で余生を過ごします。そして死を前にした官兵衛は、筆頭家老「栗山利安」(くりやまとしやす)に愛用の「銀白檀塗合子形兜」を渡し、長政の支えとなることを託しました。

江戸時代になると、長政の子「忠之」(ただゆき)は家老で利安の子「栗山大膳」(くりやまだいぜん)を疎ましく思い、殺害を計画することになります。これを知った大膳は幕府に「忠之に謀反の志あり」と訴え、幕府はすぐに調査に出向きました。

そんなある日、忠之が「法要の際にかつて祖父が渡した兜を黒田家の家宝として、父や祖父の霊前に飾りたい」と大膳に兜の返却を求めました。大膳はもっともなことと、兜を忠之に返却したところ、忠之は家臣の「倉八十太夫」(くらはちじゅうだゆう)に下賜してしまいました。激怒した大膳は忠之に申し立てますが、忠之はこれを無視。そこで大膳は、十太夫の屋敷に乗り込んで直接奪い返したのです。

幕府の調査の結果、忠之に謀反の疑いはないとされ、大膳は東北南部家の預かりとなってしまいます。南部家に赴く際、大膳は官兵衛が愛用した兜を持参したので、遠く離れた東北の地で黒田家伝来の兜が守られるようになりました。そのあと、忠之の長男である3代福岡藩主の「黒田光之」(くろだみつゆき)は、官兵衛をしのんで兜の複製「朱漆塗合子形兜」(しゅうるしぬりごうすなりかぶと)を作らせており、福岡市博物館では官兵衛の胴や小具足と共に、光之の代に複製された兜が収蔵されています。

国力の高さを誇示した絢爛豪華な前田利家の甲冑

すべて金でまとめた豪華な当世具足

織田信長の下で数々の戦績を上げ、豊臣秀吉と盟友であった「前田利家」(まえだとしいえ)は、人徳・略に優れ加賀百万石を築いたことで知られています。

金小札白糸素懸威胴丸具足

金小札白糸素懸威胴丸具足

その利家が所用した具足で代表的な「金小札白糸素懸威胴丸具足」(きんこざねしろいとすがけおどしどうまるぐそく)の大きな特徴は、兜から胴、草摺まで金箔押が施され、全身が金色に輝いていること。高さ68.5cmの「長烏帽子形兜」(ながえぼしなりかぶと)は金箔押の4枚の鉄板を白糸で威した「日根野形?」(ひねのなりしころ)が付き、それを覆うように引き廻しが取り付けられています。胴は金箔押以外を除けばやや古風なスタイルで、動きやすさを重視した物となっています。

この具足は、1584年(天正12年)に加賀国(現在の石川県南部)「末森城」で、利家が「佐々成政」(さっさなりまさ)を撃破したときに身に付けていたとされ、戦のあとに功績のあった「奥村永福」(おくむらながとみ)に与えたと伝えられている物です。

戦国時代の武将の身長は155~160cmと言われている中、利家は使用した着衣の寸法から180cmを超える大男。さらに長烏帽子の兜を被ることで自分をより大きく見せ、敵方を威圧するには大きな効果があったと考えられるのです。

やんちゃでカブキ者の少年も、晩年は天下人のご意見番

尾張国(現在の愛知県)の荒子城主「前田利春」(まえだとしはる:別名は利昌)の4男として生まれた前田利家は、弱冠12歳で織田信長に小姓として仕え、初陣で敵の首級を挙げるなど、信長に寵愛されるようになります。

若い頃の利家は派手な着物に身を包み、ケンカ早くて血気盛んだったため他人から「カブキ者」と呼ばれていました。ただでさえ長身なのに長槍を持ち歩いていたため、かなり目立つ存在であったようです。目立ったのは戦場でも同じで、織田家の家督争いの戦では顔を矢で射抜かれて傷を負いながらも、敵を討ち取る勇猛さを発揮。信長直属の精鋭部隊である「赤母衣衆」(あかほろしゅう)にも抜擢されます。

元服後は、前田又左衛門利家と名乗り、槍の名手だったことから「槍の又左」と呼ばれ、織田勢の中でも一目置かれるようになりました。利家に対する信長の評価も高く、浅井・朝倉氏と日本刀を交えた「金ヶ崎の戦い」では信長の警護役にあたった他、多くの戦で功績を挙げ、信長の勢力拡大を傍らで支えたのです。その功績によって1581年(天正9年)には、信長より能登国(現在の石川県北部)を与えられ、一国の大名にまで出世。秀吉が柴田勝家を討ち取った「賤ヶ岳の戦い」のあと、羽柴秀吉から加賀国2郡を加増され、居城を能登から加賀の「金沢城」に移し北陸の雄として君臨しました。

豊臣秀吉とは信長の家来同士であったことと、住居が近くだったことから親交が深く、秀吉が関白になったあとは「五大老」として政務を支え「秀頼」(ひでより:秀吉の3男)の後見人にも選ばれる関係。ほとんどの武将が秀吉の命に楯突くことが許されなかった中で利家だけが唯一、秀吉に意見をすることができたため、他の武将から厚く信頼され慕われていました。

文化や産業を奨励し国力を上げる

若い頃の利家は勇猛で派手好きでしたが、後年は「茶の湯」や「能」を好み「漢籍」などの学問にも熱心だったようです。利家は加賀に入城してから国内の文化や芸能、産業を奨励したとされています。

末森城での戦いで着用した「金小札白糸素懸威胴丸具足」も、自分を目立たせることだけではなく、加賀の「金箔工芸技術」の高さを世に知らせる意味があったようです。そののち、利家の思いがさらに広がり、加賀国は独自の伝統文化を築き上げています。

戦国武将と甲冑③

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