甲冑(鎧兜)の分類
甲冑の装備
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「甲冑」と言えば、「甲」(よろい)と「冑」(かぶと)を合わせた名称。そのため、どうしても鎧(甲)と兜(冑)の2つに注目が集まりがちです。もっとも、甲冑の魅力はそれだけではありません。甲冑の模型(型紙)であり、設計図の役割も果たしている「鎧雛形」(よろいひながた)や、胴以外の腕や足を防御する「籠手」(こて)、「佩楯」(はいだて)、「臑当」(すねあて)の「小具足」(こぐそく)。これらの様々な関連品も甲冑の魅力を構成する一部。今回は、そんな甲冑の周辺にある物についてご紹介します。

「紙製の鎧」鎧雛形

甲冑は、膨大な数のパーツを組み上げてひとつの形にする物。戦場で動きやすいように可動域を確保するなど、細かい部品も相当数使われています。もっとも、その設計図的な物があるという話は、あまり聞いたことがありません。では、どのようにして甲冑の復元や修理がなされたのでしょうか。

その答えのひとつになり得るのが「鎧雛形」(よろいひながた)と呼ばれている紙製の鎧。現物を写し取って、忠実に再現したこの「模型」によって、古(いにしえ)の技が現代に伝えられているとも言えるのです。

鎧雛形とは

鎧雛形

鎧雛形

鎧雛形は、実在する甲冑を和紙の上に広げて墨で模写し、それを切り抜いた型紙を組み立てた物。薄い和紙を何枚か重ね貼りする手法で、紙の強度を上げて作られています。また、実寸大の鎧雛形を作るため、和紙を貼り合わせて実物の甲冑とサイズを合わせていたのです。

和紙の上に甲冑の形を墨描きしたあと、詳細部分を描き込むことで、より精密な模型を作ることが可能になりました。その際、現物と同じ色に着色することで、鎧雛形はよりリアルに仕上がっていきます。

こうして仕上げられた各パーツは、現物の型紙とも言うべき物。切り抜いて組み合わせることで、紙製ではあるものの、現物同様の鎧ができ上がるのです。

また鎧雛形には、型紙の切り抜きがされないで、かたどりがなされたままの状態の物もありました(鎧象り図:よろいかたどりず)。これも、現物を写し取った物であることに変わりはなく、鎧雛形にするために描かれたと考えられています。

精密な設計図

鎧雛形の持つ一番大きな意義は、甲冑の細部を知ることができること。特に焼失などにより、現物を実際に観ることができない物について、現物がどのような作りであったのかが記録されていることに、大きな意義があるのです。

部品の形や、取り付けられていた場所、取り付け方が分かることで、構造を理解できることはもちろん、後世において、焼失等で現存していない甲冑を復元することも可能となりました。

このように、鎧雛形は、甲冑の精密な設計図としての役割も果たしていたと言えます。

聖徳太子の玩具!?

鎧雛形の中で最も有名な物のひとつが、東京都にある「三の丸尚蔵館」(さんのまるしょうぞうかん)所蔵の「逆沢潟威鎧雛形」(さかおもだかおどしよろいひながた)。奈良県の「法隆寺」(ほうりゅうじ)に献納されたこの鎧雛形は、「聖徳太子」(しょうとくたいし)が幼少時に遊び道具として使っていたとする逸話があります。

戦いの場で着用する実用品の甲冑(大鎧)は、当然損傷も激しく、完全な形で残っている物は多くはありません。そこで、当時の甲冑(大鎧)がどのような物であったかを知る貴重な手がかりとなるのが鎧雛形。現物を忠実に再現している鎧雛形があることで、現物となった大鎧の形はもちろん、それがどのような技術を用いて制作されていたのかを知ることができるのです。

手足を守る装備

甲冑は、頭と胴体部分を防御するのが基本。その他については、「小具足」(こぐそく)によって防御しています。具体的には腕と手を守る「籠手」(こて)、足の膝から上を守る「佩楯」(はいだて)、足の膝から下を守る「臑当」(すねあて)。これら小具足も、騎馬武者が1対1で弓を用いて戦う「騎射戦」(きしゃせん)から、歩兵が打物(うちもの)で戦う「徒立戦」(かちだちせん)へと、戦い方が変化するにつれて変わっていきました。

そして、「当世具足」(とうせいぐそく)においては、鎧兜とセットとなる専用の小具足が制作されていたのです。

籠手(こて)

籠手は腕から手を守るための防具で、腕を通す筒状の織物の生地に、鉄や革で作られた座盤(ざばん)を取り付けて補強します。

鎌倉時代には、弓を射るのに適した「片籠手」(かたごて)と呼ばれる弓を持つ左手と腕を守る物が一般的でしたが、南北朝時代になると、打物合戦(うちものかっせん:日本刀、槍などを主武器とする合戦)への移行に伴い、両手・両腕を守る「諸籠手」(もろこて)が主流になりました。

義経籠手

義経籠手

諸籠手の最初期の作例として挙げられるのが、奈良県の「春日大社」が所蔵している「義経籠手」(よしつねごて)。手甲の先端が丸く鯰の頭に似ていることから「鯰籠手」(なまずごて)とも呼ばれていますが、義経籠手もこの一種です。この呼称は「源義経」(みなもとのよしつね)が兄・頼朝に追われていた際に、「興福寺」に残していったことに由来。

その後の当世具足においては、籠手は大まかに「筒籠手」(つつごて)、「篠籠手」(しのごて)、「瓢籠手」(ふくべごて)、「鎖籠手」(くさりごて)の4種類に分けられます。

佩楯(はいだて)

佩楯

佩楯

佩楯は、小札や、鉄、革の小片、鎖などを綴とじ付けた布地の防具。草摺(くさずり)の下端からひざ頭までを防御する物で、「膝鎧」(ひざよろい)とも呼ばれていました。武人埴輪において表現されていることから、古墳時代にはその原形があったと考えられます。

また「平治物語絵巻」や、かつて「足利尊氏」(あしかがたかうじ)だと言われていた「騎馬武者像」(きばむしゃぞう)にも佩楯が描かれていることに鑑みれば、遅くとも南北朝時代には、裾の短い小袴式の佩楯があったと言えるのです。

室町時代後期から安土桃山時代にかけての時期に成立した当世具足の佩楯は、大きく「伊予佩楯」(いよはいだて)、「板佩楯」(いたはいだて)、「鎖佩楯」(くさりはいだて)、「威佩楯」(おどしはいだて)、「宝幢佩楯」(ほうどうはいだて)の5種類に分けられます。

5種類の中でよく用いられていたと考えられるのが、伊予佩楯と宝幢佩楯。中世から多く用いられていた伊予佩楯は、左右の大腿部に垂らすようにして着用されていました。他方、宝幢佩楯は、大名物の具足によく見られた形式ですが、装飾性が高く、実用性には乏しいと言われているのです。

臑当(すねあて)

臑当

臑当

臑当は、臑を保護するための小具足。中世においては、開閉ができるように、正面と両側面の3枚の板を蝶番(ちょうつがい)でつないで足を包み込む、「筒臑当」(つつすねあて)と呼ばれる物が用いられていました。その装着方法としては、足の後ろで紐を交差させる「千鳥掛」(ちどりがけ)が知られています。

臑当は当初、騎馬武者のみが着用していましたが、南北朝時代以降になると、歩兵も着用するようになりました。中世の筒臑当は、臑の正面と左右を防御する物で、膝を防御することができませんでしたが、南北朝時代には膝を防御できる「立挙」(たてあげ)という部分の付いた物へと進化。またこの時代の装着方法は、「上の緒」、「下の緒」と呼ばれる2本の紐を結ぶ「上下結式」へと変化します。これは、千鳥掛よりも簡単に装着できることから、臑当の普及に伴って変化していったと考えられるのです。

筒臑当よりも軽量化された臑当が「篠臑当」(しのすねあて)です。「篠」と呼ばれる細長い板を数枚合わせた作りの物で、南北朝時代以降の筒臑当と同様に、上下結式で装着します。軽量化されていることから、徒立戦で使用されていた物であると推測されている臑当です。

甲懸(こうがけ)

甲懸

甲懸

甲懸は、足の甲を保護するための小具足です。古い時代においては、筒臑当の裾を伸ばし、足の甲を包むようにして作られていたため、臑当の一部であると認識されていました。

そして時代を経るにしたがって、独立した小具足として扱われるようになったと考えられています。

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