代表的な甲冑(鎧兜)
大鎧②
代表的な甲冑(鎧兜)
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日本刀や槍、弓などが攻撃用の武器であるのに対して、甲冑(鎧兜)は自身の身を守る防具(武具)です。平安時代に登場した日本特有の甲冑「大鎧」は、時代を経るにつれて形や性能も変化していきました。当初、大鎧は裾広がりの豪壮な形状でしたが、鎌倉時代頃になると、腰の辺りを絞るように。その目的は、25kgはあると言われている大鎧の重量を肩だけで支えるのではなく、腰の部分でも支えることで、着用者が長時間、馬上で動きやすくすることでした。また、鉄板に絵韋(えがわ)を貼り付けた脇板で左脇の下をカバーすることで隙間をなくし、さらに守りを固めたのです。もっとも、室町時代以降は大鎧の実戦使用は皆無に。ここでは鎌倉時代、南北朝時代に制作された国宝の大鎧、及びそれ以降に制作された代表的な大鎧をご紹介します。

鎌倉時代前期の大鎧

鎌倉時代に入ると、大鎧の胴に変化が見られるようになります。

前期においては、それまで裾に向かって広がっていた胴の幅が上下同じに。この背景には、日本初の本格的な武家政権である鎌倉幕府成立後も、地方における戦乱が収まらなかったことにありました。

その結果、戦闘方法も馬上での弓矢による一騎打ちから、日本刀での斬り合いに変化。これに伴い、馬上での動きやすさが一層重視され、腰周辺を絞る形状にするなどの進化が促されたのです。

紫綾威鎧

大山祇神社

大山祇神社

愛媛県大山祇神社」(おおやまづみじんじゃ)所蔵の国宝「紫綾威鎧」(むらさきあやおどしよろい)は、「小札」(こざね)を「綾」(あや:麻を芯にしてたたんだ絹の織物)で威(おど)した大鎧で、「源頼朝」によって奉納されたと伝えられる物です。綾で威した大鎧は、「厳島神社」所蔵の「浅葱綾威鎧」(あさぎあやおどしよろい)や、大山祇神社所蔵の「萌葱綾褄取威鎧」(もえぎあやつまどりおどしよろい)などが現存していますが、数が少なく、貴重な一領だと言えます。

厳島神社

厳島神社

紫綾威鎧は、染韋(そめがわ:主に鹿のなめし革に文様の型紙を当てて染めた物)の意匠や、小札、金具の形状などから、綾で威した大鎧の中でも、鎌倉時代前期に制作された最も古い物であると考えられているのです。ところどころ後年に補修された部分も見られますが、全体的には制作された当時の形状を残しています。

鎌倉時代中・後期の大鎧

鎌倉時代中期には、さらに馬上での動きやすさが追求された結果、胴の裾はより絞られ、これに伴って小札や威糸(おどしいと)の幅も狭くなりました。

また、この時代の大鎧の特徴として挙げられるのは、金工技術を駆使した金物装飾を施し、神社に奉納した物が多数あること。これらは、実戦で使用されることはありませんでしたが、大鎧制作技術と共に、当時の金工技術の高さを示している物だと言えます。

赤糸威鎧(菊金物)

国宝「赤糸威鎧[菊金物]」(あかいとおどしよろい[きくかなもの])は、大袖には籬(まがき)に八重菊を象った金具の上に「一」の字の飾金物(かざりかなもの)が施されているため、「菊一文字の鎧」と呼ばれています。また、兜にも同様の菊一文字の飾金物があることから、「菊一文字の兜」の異名を持っているのです。

櫛引八幡宮

櫛引八幡宮

鎧の形状は、典型的な鎌倉後期の大鎧の特徴を有する物。これに、余すところがないような形で装飾されている菊籬(きくがき)を模した金物に見る精巧な透かし彫りは、鎌倉時代における金工芸術の特色をよく表しているのです。この赤糸威鎧(菊金物)は、現存する大鎧における装飾金物の絢爛豪華さという点で、「春日大社」所蔵の赤糸威鎧(竹雀虎金物)と並び称される逸品。現在は、青森県八戸市にある「櫛引八幡宮」(くしひきはちまんぐう)の所蔵となっています。

赤糸威鎧(梅鶯金物)

国宝「赤糸威鎧[梅鶯金物]」(あかいとおどしよろいうめうぐいすかなもの)は、奈良県・春日大社所蔵の鎌倉時代後期の大鎧。梅の枝に止まった蝶や鶯を基本として、クモやみの虫などの身近にいる昆虫なども立体的に透かし彫りにされています。

兜の正面には、玉眼(ぎょくがん:仏像などの目をより本物らしくみせるために水晶の板をはめ込む技法)入りの獅子の頭部をかたどった鍬形台が装備され、そこから鳥の羽根のような模様が彫られた鍬形が上に向かって高々と伸びているのです。

春日大社には、武運長久を願う武士たちが日本刀(刀剣)や甲冑(鎧兜)などの武具を納めてきた歴史があります。この赤糸威鎧(梅鶯金物)は、鎌倉時代後期における、最高レベルの彫金技術が結集して作られていますが、重量や各部の可動性の点で矢が飛び交う戦場での使用には不向き。そのため、神社への奉納を目的として制作された物であるとも考えられているのです。

赤糸威鎧(竹雀虎金物)

赤糸威鎧(菊金物)

赤糸威鎧(菊金物)

奈良県・春日大社所蔵の国宝「赤糸威鎧[竹雀虎金物]」(あかいとおどしよろいたけすずめとらかなもの)は、鮮やかな赤い威毛(おどしげ)と精巧な金物が印象的な大鎧。

兜には、竹と雀を基調とした飾金物が施され、「大袖」には、大きな虎の金物が添えられています。

また、兜前面の鍬形は長さ48.5cmで、上端の幅は21cmの特大サイズ。社伝では「源義経」によって奉納されたとされていますが、制作様式などを鑑みると、鎌倉時代後期の作と推定されています。

この赤糸威鎧(竹雀虎金物)も上記2つの赤糸威鎧と同様に、札に多くの装飾用金物を用い、大袖にも竹と虎の金物を配して重量が大きく、柔軟性にも欠けていることから、実用ではなく、奉納用として作られた一領であると言われているのです。

白糸威鎧

日御碕神社

日御碕神社

島根県出雲市にある「日御碕神社」(ひのみさきじんじゃ)所蔵の国宝「白糸威鎧」(しろいとおどしよろい)は、弦走(つるばしり:胴の正面部分)の革に「不動明王二童子像文」(不動明王が[矜羯羅童子:こんがらどうじ]と[制吒迦童子:せいたかどうじ]を両脇に従えた三尊の形式)が染められており、現存する大鎧でも格調の高い鎧と言えます。

江戸時代には、源頼朝奉納の甲冑(鎧兜)として知られていましたが、幕末期の1805年(文化2年)、威糸などが傷んでいたため、当時の松江藩主「松平治郷」(まつだいらはるさと)の命によって修復作業が行なわれました。

特筆すべきは、その修理方法。江戸時代から明治時代にかけての修復では、適切であるとは言い難い修復が度々行なわれていましたが、この白糸威鎧の修復においては、破損した部分の修繕に用いられた白韋(しろかわ)には、「文化二年修補」の文字が染め抜かれ、修復の際に取り換えられた威糸や紐などの残欠類は、別に保管されるなど、細やかな心配りがなされました。

さらには、修理を行なった「寺本安宅」によって61ヵ条にのぼる修理記録である「源頼朝卿御鎧修補註文」が記されています。現品を損なわないようにしつつ、修復した部分・残欠類がはっきりと分かるようにした修復によって、白糸威鎧は、美術的価値はもちろん、歴史資料的価値も多分に有している一領だと言えるのです。

浅葱綾威鎧

広島県・厳島神社所蔵の国宝「浅葱綾威鎧」(あさぎあやおどしよろい)は、数ある大鎧の中でも繊細な美しさと勇壮さを感じさせる一領です。威毛に浅葱色(薄い藍色)の綾を用いることで、鮮やかさと共に清々しさを演出。これと銀メッキを施した金物の色と対比することによって、高貴で勇壮な様が表現されています。

大鎧は、鎧の中の鎧を意味する「式正の鎧」(しきしょうのよろい)と呼ばれていました。この浅葱綾威鎧については、鉄と革の小札を交互に綴じ合わせ、裾(すそ)に向かって絞っていく形状の胴に7段の大袖などを備えた重厚な様は、まさに大鎧らしい大鎧だと言えるのです。

南北朝時代の大鎧

南北朝時代に入ると、大軍を率いての戦いが主流になりました。これにより、従来あった武将の個人的技量に依拠した戦いではなく、戦闘戦術が重視されるようになります。

兵力が増えるに伴って甲冑(鎧兜)に対する意識も変化し、機動性が重視され、下級者が着用していた胸と腹を防御するだけの最小限度の防具である「腹当」(はらあて)が「腹巻」(はらまき)に進化。同様に「胴丸」(どうまる)に袖(そで)や兜(かぶと)を付加して大鎧のようにして着用することもありました。主な理由は軽量化と合理化。

もっとも、この時代においても甲冑(鎧兜)の主流を占めていたのは大鎧であり、鎌倉時代末期の形式が踏襲されたのです。

白糸威褄取鎧

白糸威褄取鎧

白糸威褄取鎧

青森県八戸市にある櫛引八幡宮(くしひきはちまんぐう)所蔵の国宝「白糸威褄取鎧」(しろいとおどしつまどりよろい)は、南北朝時代を代表する大鎧。白糸を卯の花に見立てて「卯の花威」(うのはなおどし)とも呼ばれていました。

外側から紅糸、萌黄糸、黄糸、薄紫糸、紫糸の順で褄取り(つまどり:袖や草摺の端を斜めに地糸とは異なる色でおどすこと)を施したことで、地糸である白糸の威毛を一段と引き立たせています。

現在残っている褄取部分は後年に補修された物ですが、均整が取れた全体の形状もあいまって、制作当時の気品に満ちた様子を偲ばせる一領です。

この大鎧は、1367年(正平22年)に南朝の武将として活躍した「南部信光」(なんぶのぶみつ)が、甲斐国(現在の山梨県)を平定した褒賞として「後村上天皇」から与えられたと言われている物。その後、信光の子「南部光経」が1411年(応永18年)の「秋田合戦」の出陣時に櫛引八幡宮に戦勝祈願を行ない、勝利を収めたお礼として奉納しました。

室町時代の大鎧

南北朝時代まで甲冑(鎧兜)の主流を占めていた大鎧ですが、室町時代に入ると衰退していきます。

伝統を重んじる一部の武士を除き、主流となっていたのは、胴丸・腹巻といった合理性重視の甲冑(鎧兜)。戦場で軽快に動くことを目的として、丈を短くするために胴丸・腹巻の札は短くするなどの工夫が施されました。これに倣って、この時代に制作された大鎧の丈も短縮されるなど、実戦使用のための工夫がなされましたが、室町時代末期になると、武士が大鎧を実戦で着用することは皆無に。

以後、大鎧の役割は、実戦での防御用から祭祀用へと変化していったのです。

紫糸威鎧

藤森神社

藤森神社

京都府藤森神社」(ふじのもりじんじゃ)が所蔵する国指定の重要文化財「紫糸威鎧」(むらさきいとおどしよろい)。

社伝では「早良親王」(さわらしんのう)の所用で、「元寇」の際に着用された物であるとされてきました。「新井白石」(あらいはくせき)が著した故実書「本朝軍器考」(ほんちょうぐんきこう)に記載されていることでも知られています。

もっとも、兜についてはのちの時代の作であると推定されており、重要文化財に指定されているのは、鎧と大袖部分に限定されているのです。

赤糸威肩白鎧

島根県「出雲大社」(いづもおおやしろ)所蔵の国指定の重要文化財「赤糸威肩白鎧」(あかいとおどしかたしろよろい)は、鮮やかな赤い威糸と袖上部の白い威糸が特徴的な一領です。

この大鎧は、室町幕府の6代将軍「足利義教」(あしかがよしのり)が着用していたと言われている物で、8代将軍・義政によって奉納されました。その特徴は、胴丸の手法が用いられていること。すなわち、胸板(前胴の最上部にある金具)の幅が広く、背溝(せみぞ:後胴にある背筋に沿ったくぼみ)がある点において、胴丸の技術が導入されています。この点からも、室町時代が大鎧から胴丸・腹巻への移行の過渡期であったということが分かるのです。

藍韋肩赤威鎧

広島県・厳島神社所蔵の国指定の重要文化財「藍韋威肩赤鎧」(あいかわかたあかおどしよろい)は、兜の鉢裏に「和州南都住春太光信作」(わしゅうなんとじゅうはるたみつのぶさく)の銘が切られています。作者は奈良の甲冑師「春田光信」(はるたみつのぶ)。光信は、室町時代中期に発足したと言われている甲冑師集団「春田派」を代表する甲冑師のひとりです。

寄進状によると、この鎧は1542年(天文11年)に周防、長門など6ヵ国を治めていた戦国大名「大内義隆」(おおうちよしたか)が奉納した物。室町時代末期の作品であると推定されており、厳島神社に奉納するために、名工として名を馳せていた「奈良甲冑師」に注文した物だと考えられます。

江戸時代の大鎧

戦国時代の名残があった江戸時代の初期においては、実戦での使用を想定した合理性重視の「当世具足」(とうせいぐそく)が制作されています。

しかし、大規模な戦乱は1637年(寛永14年)に勃発した「島原の乱」が最後。太平の世になると、甲冑(鎧兜)も実用性重視ではなく、飾った場合の見栄えが重視され、不要な部品等が装着されるように。そのような時代背景で登場したのが復古調の大鎧です。これらは古式の大鎧形式を忠実に踏襲した物ではなく、大鎧の要素を取り入れた当世具足とでも言うべき物でした。

江戸時代末期になると、銃をはじめとする火器の著しい進歩によって、防具としての効用が薄れた当世具足をはじめとした「日本式甲冑」は、それ自体が防具として時代遅れに。このような時代背景もあり、大鎧は装飾的な武具(=美術品)という意味合いが一層色濃くなります。

平安時代に登場し、室町時代中期あたりまで実戦で使用された大鎧は、戦い方の変化と共に形式を変化させました。そして江戸時代になると、鑑賞用として復古調の大鎧が登場。このような大鎧形式の変遷という視点から、復古調の大鎧は、大鎧の「最終形」と位置付けることも可能なのです。

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大鎧①

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平安時代に入ると「短甲」(たんこう)、「挂甲」(けいこう)に代わって「大鎧」(おおよろい)が登場します。その理由は、戦い方の変化。騎馬武者が戦いやすいよう改良が加えられた結果、鎧は日本独自の進化を遂げていきました。現存する大鎧の中で、最古の物とされているのは愛媛県「大山祇神社」(おおやまづみじんじゃ)所蔵の「沢潟威鎧」(おもだかおどしよろい)。この一領が、国内外において古美術品や工芸品として高く評価されている「日本式甲冑」の出発点であると評価することができるのです。ここでは、鎌倉時代より前に制作された大鎧の中で、国宝に指定されている物を中心にご紹介します。

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大鎧の機能

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「大鎧」は、平安時代に登場した「日本式甲冑」。その最大の特徴は、「騎射戦」(きしゃせん)での防御力に優れていることです。大鎧の造りは頑丈で、大きめの箱の中に身体を入れる感じで着用されていました。もっとも、どれだけ頑丈な造りであっても、完全無欠という訳ではなく、隙ができてしまっていたのも、また事実。ここでは、いかにして大鎧の防御力を確保したのかについて、その付属品の機能を通して考察します。

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胴丸鎧

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愛媛県にある「大山祇神社」(おおやまづみじんじゃ)には、「大鎧」(おおよろい)と「胴丸」(どうまる)の折衷型のような鎧が所蔵されています。それが国宝「赤糸威胴丸鎧」(あかいとおどしどうまるよろい)。「胴丸鎧」(どうまるよろい)の存在については、「平治物語絵巻」などの合戦絵巻のなかで描かれていることで知られていますが、現存しているのは大山祇神社所蔵の赤糸威胴丸鎧1領のみ。ここでは、幻の鎧とでも言うべき胴丸鎧についてご紹介します。

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胴丸・腹当・腹巻

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平安時代初期まで、武装して甲冑を着る人は「高級武官」が中心でした。ところが、平安時代中期に「武士」が誕生すると、社会体制が変化。武士は武士団を結成し、互いに闘争をはじめます。朝廷は、武士団の実力を認め反乱を抑えようと、宮中や地方などの警護・警備を任せ、治安維持に当たらせるようになるのです。さらに武士は「上級武士」、「一般武士」、「下級武士」へと細分化。ここでは、上級武士が着用した「大鎧」に代替する甲冑として注目された「胴丸」、「腹当」、「腹巻」について詳しくご紹介します。

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当世具足①

当世具足①
平安時代に登場した「大鎧」(おおよろい)から始まった「日本式甲冑」の系譜は、室町時代末期に大きな転換期を迎えました。それが「当世具足」(とうせいぐそく)の登場です。今の世の中を意味する「当世」と、十分備わっていることを意味する「具足」を呼称としているこの甲冑(鎧兜)は、構造、意匠、素材などにおいて多種多様であり、定まった物がないという風変わりな物。ここでは、それまでに制作されていた日本式甲冑とは一線を画した、新様式の甲冑(鎧兜)である当世具足について概観します。

当世具足①

当世具足②

当世具足②
「当世具足」(とうせいぐそく)には、槍や鉄砲などのこれまで以上に貫通力の強い武器による敵の攻撃から身を守ることが求められました。そこで胴の材料として、主に用いられていたのが鉄板などの堅固な素材。これらを用いた胴は「板物胴」(いたものどう)と呼ばれ、それまでとは異なる方法で制作されていたのです。ここでは、当世具足の胴制作の主流となっていた板物胴について詳しくご紹介します。

当世具足②

当世具足③

当世具足③
「当世具足」(とうせいぐそく)における胴の主流は、(鉄)板を用いた「板物胴」(いたものどう)でしたが、それ以外の材料でも制作されていました。その他の代表的な材料として挙げられるのが、鉄や革などで作られている「伊予札」(いよざね)。この札の両端を浅く重ね合わせて綴じていく手法は、従来に比べ、つなぎ合わせる作業を簡易に行なえることもあり、当世具足制作の現場でも用いられていたのです。ここでは伊予札製の胴をはじめとした、板物胴以外の制作について考察します。

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変わり兜

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中世においては、初期の兜である「星兜」(ほしかぶと)に改良を加えた「小星兜」(こぼしかぶと)や「筋兜」(すじかぶと)、「頭形兜」(ずなりかぶと)が出現しました。そして、室町時代末期から江戸時代にかけては、鉄板を打ち出したり、紙や革で様々な物を形作ったりした「形兜」(なりかぶと)や、「張懸兜」(はりかけかぶと)など、従来の兜の概念に収まりきらない兜も登場。武将達は、自らの思想・信条を兜に込めた「変わり兜」を身にまとって戦場に立ったのです。ここでは、数多くの個性豊かな作品が作られた当世具足に付属していた、変わり兜について考察します。

変わり兜

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