明治の代表的な刀工

明治の名工

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明治時代は、「日本刀」にとって受難の時代でもありました。きっかけは、1876年(明治9年)に発せられた「廃刀令」。これにより、日本刀需要はほぼ消滅し、「日本刀文化」は風前の灯に。そんな時代においても、刀工達は伝統文化を承継・発展させていったのです。今回は、明治時代に名工として名を馳せた「宮本包則」(みやもとかねのり)、「堀井胤吉」(ほりいたねよし)、「月山貞一」(がっさんさだかず)、「海野勝珉」(うんのしょうみん)を通じて、明治時代の日本刀を取り巻く事情を探ります。

宮本包則

刀匠に憧れた少年

宮本包則は、1830年(天保元年)に伯耆国(ほうきのくに:現在の鳥取県)東伯郡で生まれました。少年時代の包則の楽しみは、近所に住んでいる研ぎ師に会いに行くこと。暇さえあれば研ぎ師の家に遊びに行き、日本刀について色々な話を聞いていたと言われています。

あるとき、研ぎ師から「大原安綱」(おおはらやすつな)と「大原真守」(おおはらさねもり)親子が、伯耆国出身だという話を聞いた包則の胸は一気に高鳴りました。「安綱」と言えば、「天下五剣」(てんかごけん)に数えられる国宝の太刀「童子切」(どうじぎり)をはじめとする数々の名刀を作った名工で、子・真守も、多くの作品が国宝に指定されている名工。

包則は「自分もどうにかして彼らのような名工になりたい。一生懸命に頑張れば叶わない夢ではないだろう」と、刀工を志したのです。

宮本包則の短刀

宮本包則の短刀

刀工から名工への道

二十歳になった包則は、刀工が集う備前長船(現在の岡山県瀬戸内市)に行き、刀工「横山祐包」(よこやますけかね)の弟子となります。7年間の修業を終え、一人前の刀工となった包則が故郷へ帰る頃、世の中は黒船来航事件をはじめとする幕末騒乱の真っ只中でした。外圧に対抗するためには、軍事力を強化すべきだという空気が醸成され、日本刀の需要は右肩上がりに。包則はまさに絶好のタイミングで刀工になったのです。

刀工として成功を収めつつあった包則でしたが、少年の頃に描いた「安綱・真守親子のような名工になる」という夢を実現できたとは言い切れませんでした。そこで包則は、1862年(文久2年)さらに修業を積むため京都へ移り、上洛した諸藩士の刀を鍛えながら自分の技を磨きます。

すると、その名は宮中に伝わり、評判を耳にした「有栖川宮熾仁親王」(ありすがわのみやたるひとしんのう)から「孝明天皇」の御守刀の制作依頼を受けたのです。技量の高さを認められた包則は、「能登守」(のとのかみ)の名を受領。こうした努力の末、誰もが認める名工となった包則は、また新たな夢へと歩みはじめました。

どこまでも志高く

ある日、包則の心にこんな思いが過りました。「三条宗近は、稲荷大神に祈って『小狐丸』という名剣を鍛えた。自分も神の守護によって名刀を作ろう」。こうして包則は、稲荷山の宗近鍛刀遺跡に仮宅を設けて100日間参籠したのです。その頃、宮中では「明治天皇」の即位が決まり、太刀と短刀の制作を包則に依頼することに。これを聞いた包則は感激し、稲荷山で丹精込めて明治天皇の御剣を鍛えたと言われています。

明治天皇からも技量を高く評価された包則は、1906年(明治39年)月山貞一と共に「帝室技芸員」(ていしつぎげいいん:宮内省から優れた芸術家などに送られる栄誉称号)となり、その後、宮内省や皇室における多くの行事で鍛刀を任されます。その実績は、明治の刀工界屈指。輝かしい経歴を手にした包則は、「人間はひとつの意気地(いきじ:自分の意思を貫き通す気構えのこと)を持って、それを立て通すのが一番です」と語りました。目標を立て、それに向かってわき目も振らず突き進むことこそが、人間のあるべき姿だということを意味するこの言葉は、少年時代に夢見た名工の道を真っすぐに歩み続けた包則らしい物。そして1926年(大正15年)包則はこの世を去ったのです。

脇差 銘 宮本包則
脇差 銘 宮本包則
帝室技芸員
宮本包則
九十才作
大正八年
二月十日
鑑定区分
未鑑定
刃長
41.7
所蔵・伝来
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

堀井胤吉

日本刀と向き合い続けた男

堀井胤吉は、1821年(文政4年)近江国(滋賀県)の生まれ。1844年(弘化元年)に「月山貞吉」(がっさんさだよし)に、そして1851年(嘉永4年)には「大慶直胤」(たいけいなおたね)に入門して修業し、刀工としての腕を磨きました。1870年(明治3年)49歳のときに胤吉の弟子で養子となった胤明と共に、膳所藩(ぜぜはん:現在の滋賀県大津市)お抱えの鍛冶となりましたが、廃藩置県の影響などで職を失ってしまうことに。

その後しばらくは、近江・石山で農具を制作する鍛冶として糊口をしのぐことになります。生活に困窮した刀工が名品の贋作づくりに手を出していたと言われていますが、剛毅な人物で知られている胤吉は、お金のために名品の贋作を作るようなことはありませんでした。そのため、貧しい暮らしを強いられたのです。

膳所藩の「お抱え鍛冶」という職を失ったあとも、自主的に日本刀の制作は続けていたものの、胤吉が生活を支えるために日々の大半の時間を費やしていたのは農具の制作。そのため、刀工としてのブランクは約25年に及んでいました。そんな胤吉に転機が訪れたのは、1894年(明治27年)の「明治天皇ご大婚二十五年祝典」。そこに短刀1振りを奉献したのです。

さらに翌年には宮内省に太刀2振りを献上。その際、胤吉の作品が当時、宮内省式部長を務めていた「三宮義胤」(さんのみやよしたね)の目に留まり、支援を受けることとなったのでした。

1896年(明治29年)義胤邸に胤吉のための鍛冶場が設けられ、胤吉は、75歳にして胤明と共に東京に移住。同年11月には宮内省ご用鍛冶となり、晩年の7年間は刀工として充実した暮らしを送りました。胤吉は、同時代に活躍していた宮本包則と月山貞一と並ぶほど、公的な業績を上げたと言えます。刀工として、刀と真摯に向き合うという自分の信念を貫き通し、第一線に返り咲きを果たした胤吉は、1903年(明治36年)に生涯を閉じたのでした。

文豪「島崎藤村」との関係

若き日の島崎藤村

若き日の島崎藤村

農鍛冶をしていた72歳の胤吉と、関西を放浪しながら創作活動をしていた22歳の島崎藤村(しまざきとうそん)は、1893年(明治26年)の春、近江・石山で出会いました。

胤吉と同じく職を失っていた藤村は、実直な胤吉に感銘を受け、「文学界」第6号(明治26年6月30日刊)に「刀鍛冶・堀井来助」(かたなかじ・ほりいらいすけ=胤吉の本名)と題して投稿。また、藤村が1909年(明治42年)から1913年(大正2年)の間に書いた「後の新片町より」では、「芸術の保護」の項目で胤吉から聞いた話を載せており「多くの刀鍛冶が古刀の贋作を作り妻子を養っている。老人の気性としては、贋作を作る訳にはいかなかったため、一生独身で、百姓の鍬などを作ってやっと暮らしを立てながら、ときに自身の制作を楽しんでいる」という内容を記しています。

胤吉の逸話は、童話「眼鏡」にも詳しく書かれており、老人胤吉が東京へ来て一花咲かせたこと、その際「私もこの歳になってまた世に出ました」と語ったことも記述。胤吉との出会いが、若き日の藤村に大きな影響を与えたことが多くの作品から読み取ることができるのです。

月山貞一

明治天皇が認めた関西の名工

月山貞吉

月山貞吉

月山貞一は、近江国犬上郡須越村(現在の滋賀県犬上郡)の生まれで、7歳のときに刀工・月山貞吉の養子となりました。養父・貞吉は、もともと出羽国(現在の山形県秋田県)の出身で、その祖先は刀で村の鬼を退治していたと伝えられている刀匠「鬼王丸」だと言われています。

文政の頃に江戸へ移り、当時江戸の名工として活躍していた「水心子正秀」(すいしんしまさひで)の下で刀工の道を学び、水心子が亡くなったあと、大阪へ移り住み、関西を拠点に活動しました。

養子となった4年後の11歳のとき、貞一は貞吉から鍛刀を学びはじめ、ほどなくして才能が開花。その後も修行を重ね、ついには貞吉が開いた大阪月山派をルーツとする月山貞一としてのブランドを築き上げました。

明治刀工界を担う存在へ

湊川神社

湊川神社

月山貞一は、1855年(安政2年)以降、常陸土浦藩(現在の茨城県土浦市)、出羽上山藩(現在の山形県上山市)、新荘藩(現在の山形県新庄市)、摂津(現在の大阪府)などから日本刀の納品を命じられ、1869年(明治2年)、35歳のときには明治天皇のために太刀と短刀を1振りずつ鍛えるという大役を任されるほどに大成。

そして1885年(明治18年)、武将「楠木正成」(くすのきまさしげ)が祀られている「湊川神社」(みなとがわじんじゃ)で楠公(なんこう)550年祭が開かれた際に、貞一の運命を決めるできごとが起こりました。祭りの中で古今の名刀を使った巻き藁(わら)の試し斬りが行なわれ、貞一の刀の切れ味の良さに感心した天皇が太刀を買い上げたのです。

これがきっかけとなり、一段と名声を高めた貞一は、その後博覧会で表彰を受け、宮内省から帝室技芸員を命じられることとなりました。数多の作刀を重ねてきた貞一ですが、明治天皇の軍刀作りを任されたときには、寝食を忘れて鍛え続けていたと言われています。

こうして貞一は刀工界のスターダムとなり、同じく帝室技芸員として活躍していた宮本包則と共に、明治の刀工界を盛り上げたのです。

職人の中の職人

月山貞一は、絵に描いたような職人だったと言われています。仕事において妥協を一切せず、仕事場には誰ひとりとして入ることを許しませんでした。

その厳しさは、ひとたび日本刀を鍛え始めたら、誰がなんと言おうと振り向かなかったという逸話があるほど。気に入った色が出るまで何度でも焼き直し、挙げ句の果てには、鉄を抱いたままうたた寝をして、眠気が覚めるとまた仕事に取りかかる、ということを繰り返していたと言われているのです。

月山派は、現在も貞一の子孫によって受け継がれており、奈良県桜井市には「月山日本刀鍛錬道場記念館」があります。

刀 銘 帝室技芸員月山貞一謹作之七十五歳(花押) 至尊余鉄以 明治四十三年十一月吉日為石原家
刀 銘 帝室技芸員月山貞一謹作之七十五歳(花押) 至尊余鉄以 明治四十三年十一月吉日為石原家
帝室技芸員
月山貞一謹作
之七十五歳
(花押)
至尊余鉄以
明治四十三年
十一月吉日
為石原家
鑑定区分
保存刀剣
刃長
69.8
所蔵・伝来
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕
刀 銘 帝室技芸員月山貞一謹作(花押) 明治三十九年春以備前福岡一文字傳
刀 銘 帝室技芸員月山貞一謹作(花押) 明治三十九年春以備前福岡一文字傳
帝室技芸員
月山貞一謹作
(花押)
明治三十九年
春以備前
福岡一文字傳
鑑定区分
保存刀剣
刃長
71.2
所蔵・伝来
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕
刀 銘 帝室技芸員月山貞一作(花押) (菊水紋)大正三年八月
刀 銘 帝室技芸員月山貞一作(花押) (菊水紋)大正三年八月
帝室技芸員
月山貞一作
(花押)(菊水紋)
大正三年八月
鑑定区分
保存刀剣
刃長
68
所蔵・伝来
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

刀装金工・海野勝珉

巨匠「加納夏雄」が認めた明治を代表する名工

海野勝珉

海野勝珉

1844年(天保15年)5月15日に常陸国(現在の茨城県)茨城郡水戸市肴町に生まれた海野勝珉は、叔父で彫金家の初代「海野美盛」(うんのびせい)の下で、8歳の頃から4年間彫金を学びました。

その後、水戸藩のご用を務めていた「萩谷勝平」(はぎやかつひら)に11年間師事。異質素材をはめ込む象嵌(ぞうがん)技術が特徴である水戸金工の技法を修得しました。

苦難の時代を乗り越える技を磨く

勝珉は、水戸藩お抱えの鎚金師(ついきんし:打ち出し技法を行なう金工)から鍛造技術も学んでいたようで、さらに漢籍(漢文で書かれた書籍)や絵画など幅広いジャンルについても熱心に勉強していました。これらの努力が下地となり、勝珉は明治時代の多様な要求に対応する力や、リアルな描写力を身に付けていったのです。

15年にも及ぶ修業を終えた勝珉は、1867年(慶應3年)に水戸で独立開業を果たします。その翌年には、早くも上京を決意しましたが、刀装金工界は明治維新の影響を受け、苦しい時代に突入していました。そのため勝珉は、彫金師・鎚金師としての研鑽を積む傍ら、実兄が経営していた浅草の鰻屋で出前持ちをして、糊口(ここう:生計)をしのいでいたと言われています。

金工界の新時代を担う存在へ

蘭陵王置物

蘭陵王置物

1877年(明治10年)に明治政府が国内の産業発展を促進し、魅力ある輸出品の育成を目的とした展示博覧会「内国勧業博覧会」を主催。初開催となった同会において出品した勝珉の「神代人物、袋物前錠」は高く評価され、褒状を授与されました。

1890年(明治23年)に第3回が開催されたときには勝珉の代表作とも言える「蘭陵王置物」(らんりょうおうおきもの)を出品し、妙技一等賞を獲得。これは、明治金工を代表する作品で、その卓越した技術に多くの人が感嘆した結果です。この功績が称えられ1896年(明治29年)に帝室技芸員に選出されました。

また、勝珉の代表的な刀装具作品として、日本刀収集を趣味としていた明治の実業家「光村利藻」(みつむらとしも)の依頼で制作した「地獄極楽図銅鍔」と「羅漢図鍔」が挙げられます。刀装具の制作が減少していた明治の金工職人にとって、このような依頼を受けることは例外的なこと。光村は勝珉の確かな鑑識眼を見込んで、刀装具収集への協力や鑑定家としての箱書も依頼していました。

夏雄の意志を引き継ぐ教育者として

東京芸術大学

東京芸術大学

海野勝珉は、1890年(明治23年)に「東京美術学校」(現在の東京芸術大学)で教育者としての道を歩み始めてから、1915年(大正4年)に亡くなるまでの25年間、後進の育成に熱を入れました。

同じく東京美術学校で教授をしていた金工界の巨匠・加納夏雄は、勝珉について、技術だけでなく教育者としての資質も有する人物であると高く評価。その信頼関係は夏雄が亡くなるときに勝珉に「あとは頼む」と告げたと言われるほどでした。

日本刀需要が大きく低下した時代において、刀装のための金工技術を応用して芸術作品を制作することで、金工技術の新しい価値を創造するという、刀装金工の新たな可能性を見出した勝珉は、金工界の継承と発展に大きく貢献した明治金工の功労者と言えるでしょう。

刀工界の復興と日本刀保存

明治政府が行なった政策とは?

明治の近代化に伴って異国文化が流入してきたことで、日本の伝統文化への関心が急速に薄れ、多くの日本刀が海外へ流出してしまう事態が起こりました。さらに、廃刀令により日本刀需要がほぼ消滅したことで、多くの刀工が職を失い、刀工界はかつてなかったほど苦しい時代に。約30年に亘る苦境から脱するきっかけとなったのは、戦争における軍隊の活躍でした。とりわけ「日露戦争」の勝利によって盛り上がった「国粋主義」によって、日本刀の価値が見直されるようになります。加えて、国のリーダーたる明治天皇が愛刀家だったことも刀工の復興に寄与したのでした。

刀工復興を明治政府の政策もあと押ししたのが、1890年(明治23年)に発表された「帝室技芸員制度」。これは日本の伝統工芸の保存と発展のために作られた制度で、「第二次世界大戦」中まで約50年間続きました。戦後には「重要無形文化財制度」、「人間国宝」が制定され、現在もその目的が引き継がれています。

江戸時代に大名や将軍が刀工を支えていたように、明治政府と愛刀家・明治天皇によって優秀な刀工を支援していこうという方針のもと、帝室技芸員に選ばれた刀工・宮本包則や月山貞一が刀工技術の継承と発展に尽力。

さらに、宮内省ご用には堀井胤吉、会津十一代「和泉守兼定」(いずみのかみかねさだ)、「逸見竹寛斎義隆」(へんみちくかんさいよしたか)、「桜井正次」(さくらいまさつぐ)らの刀工が指名され、彼らは経済的支援を受けられる環境で鍛刀することが保証されることで、伝統技術が承継され、発展したのです。

刀剣保存運動

1898年(明治31年)には、日本刀鑑定家である「今村長賀」(いまむらちょうが)を講師とした「剣話会」が開講。日本刀に精通している軍人や官僚、学者などが集められて、古来の名刀について毎月語り合いました。

また1900年(明治33年)から大正初期にかけては、全国各地で日本刀の保存と研究を目的とした「刀剣会」が発足。1912年(明治45年)には「日本刀剣鍛冶法維持のため、刀剣師養成に関する建議案」が衆議院に設けられた委員会にて議論されます。委員会での一部の主張を要約すると「日本刀は武士道と密接な関係にあるため、武士道維持のためには日本刀を永遠に維持していくことが必要不可欠である」というもので、議論の結果、この案は可決されたのです。

明治時代に起こった日本刀存続の危機は、明治天皇の愛刀心と明治政府の政策によって、少なからず回避することができました。こうして日本刀文化は、現代に至るまで継承され、守られてきたのです。

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