甲冑(鎧兜)と武将
上杉謙信・武田信玄・伊達政宗・直江兼続
甲冑(鎧兜)と武将
上杉謙信・武田信玄・伊達政宗・直江兼続

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「甲冑」(かっちゅう)とは、胴部を守る「鎧」(よろい)と、頭部を守る「兜」(かぶと)からなる武具です。今回は、戦国時代を生きた4武将、「上杉謙信」(うえすぎけんしん)、「武田信玄」(たけだしんげん)、「伊達政宗」(だてまさむね)、及び「直江兼続」(なおえかねつぐ)と甲冑にまつわる話をご紹介します。

上杉謙信と甲冑

上杉謙信

上杉謙信

「上杉謙信」と言えば、「越後の虎」と知られる武将。戦いの神「毘沙門天」(びしゃもんてん)の「毘」を旗印に掲げ、敵将らから「軍神」と恐れられていました。

無類の強さを誇った謙信。わずか14歳での初陣以来、生涯において2度しか負けていないと言われています。

北条軍正面突破の伝説

唐沢山城跡 唐沢山神社

唐沢山城跡 唐沢山神社

戦国時代における戦場では、大将は軍の後方において采配を振るうのが一般的でした。しかし、謙信はときに型破りな戦い方を敢行することもありました。自らが軍を率いて最前線で戦う方法を選択したのです。謙信がこのような危険を伴う戦い方を選択した背景には、内紛が繰り返されていた当時のお家事情がありました。大将自らが体を張って最前線で戦うことで、自軍をひとつにまとめようという意図があったとも考えられるのです。

謙信が行なった最前線での戦いの中でも、伝説的と言われるのが「唐沢山城」(からさわやましろ)での正面突破。1560年(永禄3年)、「北条氏政」(ほうじょううじまさ)率いる約3万人の北条軍に城を包囲され、落城寸前の窮状に陥った唐沢山城城主・「佐野昌綱」(さのまさつな)は、謙信に救援を要請します。これを受け、越後から駆け付けた謙信は、十文字槍を手に城の南口から北条軍を切り裂いて突破し、城内に到達。これを機に、戦局は一変します。

士気が上がった佐野軍の攻撃を受け、劣勢となった北条軍は、撤退を余儀なくされたのでした。このとき、謙信が率いていたのは、わずか40騎ほど(異説あり)。謙信は甲冑などの防具を身にまとわず、北条軍を突破したと言われています。

毘沙門天の化身

謙信は、7歳で越後の「林泉寺」(りんせんじ)に預けられました。ここで、住職「天室光育」(てんしつこういく)から仏教の教えと共に、軍略を学んだと言われています。寺では、座学と実践教育などが行なわれていましたが、謙信が特に興味を示していたのが城攻め。城の模型の中に兵士に見立てた駒や武器を配置するシミュレーションゲームに熱中し、他の修行がおろそかになってしまうほどでした。このとき、早くも謙信の天才的な戦略家としての才能の下地が整いつつあったとも言えます。

14歳の若さで初陣を飾った謙信は、その後も戦において圧倒的な強さを見せ付けていきました。また、兄「長尾晴景」(ながおはるかげ)の隠居に伴い19歳で長尾家の家督を継ぐと、31歳のときには関東管領(かんとうかんれい)「上杉憲政」(うえすぎのりまさ)の養子となって、上杉家の家督を相続。室町幕府の重職だった関東管領の職も引き継いだのです。

戦国時代において、圧倒的な実力を誇っていた謙信ですが「義」(ぎ:人の行動が道徳・倫理にかなっていること)を重んじ、侵略のための戦いを仕掛けることはなかったと言われています。そんな謙信は、自らを毘沙門天の化身と信じていたなど、熱心な仏教徒でもありました。

春日山城跡

春日山城跡

謙信と毘沙門天との間には、こんな逸話もあります。謙信がある戦いを終えて本拠地の「春日山城」(かすがやまじょう)に戻り、城中に建立した毘沙門堂に立ち寄ったときのことです。堂内には泥の付いた足跡があり、それが「毘沙門天像」まで続いていました。これを見た謙信は、毘沙門天も一緒に戦ってくれたのだと感激します。

以後、その毘沙門天像を「泥足毘沙門天」(どろあしびしゃもんてん)と呼んで祀るようになったのでした。後年、上杉家が会津、米沢へ共に移るなど、上杉家の象徴とも言うべき存在になったのです。

上杉謙信と天下

織田信長

織田信長

1574年(天正2年)、謙信は「織田信長」(おだのぶなが)から、金小札色々威胴丸(きんこざねいろいろおどしどうまる)を贈呈されました。このとき、「狩野永徳」(かのうえいとく)作の「洛中洛外図屏風」(らくちゅうらくがいずびょうぶ)、「源氏物語図屏風」(げんじものがたりずびょうぶ)も贈られたと言われています。天下統一を目指す信長にとって、謙信は無視することができない存在だったことを表しているのです。

1577年(天正5年)、謙信は、織田信長と「手取川の戦い」で激突。結果としては、謙信の圧勝に終わっています。のちに天下を取ることとなる織田信長に勝利するなど、当時、謙信は最も天下人に近い存在だと言っても過言ではありません。

この戦いに限らずですが、謙信が戦いに赴く際に必ず行なったというのが、上杉軍「出陣の儀式」。このような儀式を行なう、軍を整列させて検閲する、あるいは行列を行なうなどの場合に着用したと考えられるのが、色々威腹巻(いろいろおどしはらまき)です。兜の前立には、戦勝の神として戦国武将の信仰を集めた「飯綱明神」(いづなみょうじん)を装着しています。

また、素懸白綾威黒皺韋包板物腹巻(すがけしろあやおどしくろしぼかわつつみいたものはらまき)は、謙信が上杉憲政から譲り受けた物。兜の前立(まえだて)に、前にしか飛ばない特徴を持つことから「勝虫」として好まれた蜻蛉(とんぼ)が施されているのが特徴的。隙間なく全身を覆って防御力を確保した上で、機動性も確保している実戦的な一領です。

戦国最強とうたわれた謙信ですが、48歳で志半ばに死去。謙信の死因には諸説ありますが、病死であることに間違いは無いようです。謙信の遺骸は、甲冑を着用した状態で甕(かめ)に入れ、漆で密閉して埋葬されたと伝えられています。謙信と甲冑は切っても切れない関係だったのです。

武田信玄と甲冑

武田信玄

武田信玄

「甲斐の虎」と呼ばれた「武田信玄」は、戦国時代屈指の強さを誇った武将として知られています。

武田軍の代名詞となっていたのが、ひとつの部隊全員が武具の色を赤色に統一した「赤備え」。戦場で縦横無尽に相手を打ち破る、精鋭揃いの赤い軍団の噂は瞬く間に広がり、各武将から大いに恐れられたのです。

信玄の象徴!?諏訪法性兜と軍配

諏訪大社

諏訪大社

戦いに臨む信玄の頭を守っていたと伝承されているのが、「諏訪法性兜」(すわほっしょうのかぶと)。前立には金色の角がついた赤鬼を配し、頭頂部から後頭部にかけて白色のヤク(インドなどの高地に生息するウシ科の動物)の毛があしらわれた、獅子をイメージさせる兜です。

兜の名前の由来となっている信濃(しなの:現在の長野県)の「諏訪大社」(すわたいしゃ)は古来、日本随一の軍神が祀られてきたと言われ、甲斐の国の領主だった武田氏も代々崇拝していたと言われています。もちろん信玄も例外ではなく、戦のたびに諏訪大社が所蔵していたこの兜を拝借していたことが伝承されているのです。

諏訪法性兜が信玄の兜とされている理由としては、武田家に伝わる戦術・戦略などがまとめられているとされる軍学書「甲陽軍鑑」(こうようぐんかん)に、この兜が信玄から「武田勝頼」(たけだかつより)へと受け継がれ、勝頼が「長篠の戦い」に持参した旨の記述があることが挙げられています。もっとも、この甲陽軍鑑については、史実との矛盾点が多いことから「太平記」(たいへいき)などの軍記物と同列に扱われるべきで、内容の信憑性については疑問が生じるという評価がなされているのが現状。諏訪法性兜が信玄の象徴として認識されているのは、江戸時代に浄瑠璃や歌舞伎で上演された「本朝廿四考」(ほんちょうにじゅうしこう)に登場していることが影響していると言えるのです。

なお、信玄が実際に着用していた甲冑は、質素な造りであったと言われています。

この諏訪法性兜を身にまとう信玄を描いた肖像画。その右手には、必ずと言っても良いほど、「軍配」が握られています。軍配は通常、大将が指揮命令の際に用いる物ですが、信玄と軍配と言えば、思い浮かぶのが「第4次川中島の戦い」における上杉謙信との直接対決の場面。謙信が振り下ろす日本刀を信玄が軍配で受け止めたという伝説です。

72戦49勝3敗20分。これが武田信玄の生涯戦績だと言われています。群雄割拠の時代において、負け数がわずかに3敗に止まっているということはもちろんですが、引き分けが全戦績の約28%を占めているのが特徴的です。この数字から読み取れることは、戦いにおいて、信玄が何よりも「負けない」ことを重視していたということ。信玄の軍配さばきが優れていたのは間違いありません。

元祖赤備え

「井伊の赤備え」、「真田の赤備え」など、戦国時代においては様々な赤備えが登場しますが、その元祖は「武田の赤備え」。ひとつの部隊の武具を赤で統一する赤備えを始めたのは、「飯富虎昌」(おぶとらまさ)と言われ、これを引き継いだ「山懸昌景」(やまがたまさかげ)は、「三方ヶ原の戦い」(みかたがはらのたたかい)で、「徳川家康」の本陣を示す「馬印」を倒し、敗走させるなどの活躍を見せました。

これらの武功により、全身に赤色の武具をまとった軍団は、戦国時代最強ともうたわれた武田軍の中でも精鋭部隊として認知されるに至ったのです。昌景の他、「小幡信貞」(おばたのぶさだ)、「浅利信種」(あさりのぶたね)も赤備えの部隊を率いていたと言われ、その数は約1,000騎にも上りました。このようにして、赤備えは武田軍の象徴としての機能も果たすことになったのです。

伊達政宗の甲冑

伊達政宗

伊達政宗

伊達政宗」は、隻眼(せきがん)の戦国武将として知られ、戦国時代末期には東北地方において一大勢力を誇っていました。

その後は「豊臣秀吉」、徳川家康に仕え、江戸幕府開府後は、初代仙台藩主として領国の開発に尽力。

戦国時代末期から江戸時代を駆け抜け、後世において「独眼竜」と称されていました。

「三日月」の前立に込められた意味

伊達政宗所用の「黒漆五枚胴具足」(くろうるしごまいどうぐそく)で、一際目を引くのが、兜に施された巨大な三日月の前立です。左右非対称な三日月の立物は、戦国武将がこぞって信仰していたと言われている「妙見信仰」(みょうけんしんこう)につながる物。政宗も例外ではなく、星や月に武運を祈願していたと考えられます。

妙見信仰は、不動の「北極星」を神格化して「妙見菩薩」とし、武運を祈願したことが始まりです。古来、わが国では、月についてもその神秘性から信仰の対象となっていましたが、妙見信仰が広まるにつれて、星だけではなく月への信仰も加速していきました。

政宗から見て、自らの右が短く左が長い三日月の立物には、戦場において日本刀を使用したときに、邪魔にならないようにするためとも言われています。また、金色に光る三日月の材質は木製で、これに金箔を貼って作られているのです。戦場で立物が何かに引っかかった場合に、折れやすい材料が選ばれたのでした。

当世具足の最終形

三日月形の立物

三日月形の立物

政宗の甲冑の特徴は、兜に施された三日月形の立物だけではありません。その機能面にこそ、最大の長所があったのです。

「仙台胴」と呼ばれている胴は、5枚の鉄板を蝶番(ちょうつがい)でつなぎ合わせた重厚な造り。政宗が鎌倉・雪ノ下に住んでいた甲冑師・明珍を仙台に招いて作らせたことにちなんで「雪ノ下胴」とも呼ばれています。日本刀を振る際に邪魔にならないように、右側を小さくするなどの工夫が施されました。

漆黒を基調とした頑丈な甲冑は、華やかな装いを好んだと言われている政宗の嗜好とは相容れないようにも思われます。

しかし、政宗が生きたのは、戦乱の世の最終局面。鉄砲をはじめとする武器の発達によって、戦における防御の必要性も高まっていました。まさに、実戦志向の一領だったのです。

その後、漆黒の甲冑は、仙台藩における有事の際のユニホームになります。質実剛健を体現しているこの甲冑は当世具足の最終形と言えるのです。

スター・ウォーズにも登場!?

ダース・ベイダー

ダース・ベイダー

大きな三日月の前立を施した政宗の兜。どこか他の場面で見たような気がするという方がいるかもしれません。映画「スター・ウォーズ」シリーズで人気の悪役キャラクター「ダース・ベイダー」のヘルメットとそっくりなのです。

ダース・ベイダーのヘルメットと政宗所用の黒漆五枚胴具足の兜を見比べてみると、確かに似ているような気が。スター・ウォーズの制作関係者から黒漆五枚胴具足を所蔵している「仙台市博物館」に写真の提供依頼があり、同館が送付したところ、ダース・ベイダーが誕生したと言われています。

一見、地味に見える黒漆五枚胴具足ですが、時空を超え、エンターテイメントの本場であるハリウッド映画のキャラクターのモチーフとして用いられているのです。このことは、政宗のセンスを証明していると言えます。

直江兼続と甲冑に託した「愛」

直江兼続

直江兼続

直江兼続」(なおえかねつぐ)と言えば、大河ドラマの主役にもなった有名武将。その兼続の代名詞とも言えるのが、前立に大きな「愛」の文字をあしらった兜です。

安土・桃山時代以降において、兜所用者の哲学や思想を託したとされる立物の中でも、一際目を引く斬新なデザイン。その由来には、大きく分けて3つの説がありました。今回は愛の立物に秘められた兼続の「想い」を探ります。

仁愛の愛

直江兼続と言えば、どのような相手に対しても誠実に接する人物。すなわち「義」を重んじる人物として知られています。主君、家臣はもちろん、統治下にある領民に対しても、それは同じ。これらを守る気持ちが、ときには権力者に対する強い姿勢となって現れることもありました。

象徴的だったのが徳川家康に対する「直江状」。豊臣秀吉亡きあと、権力の頂点に最も近かった家康による上杉景勝に対する上洛要求に対する書簡に対し、家老の兼続は、毅然たる態度で拒絶の意思を示したと言われています。そして、この書状が「関ヶ原の戦い」の引き金となったという見方もあるのです。

関ヶ原の戦い後、家康は敵対した景勝の所領を約30万石に減封。石高が従来の約四分の一となったことで、当然、兼続の収入も激減しました。しかし、兼続は質素な生活をするなど、自らの身を削ることで家臣をリストラすることはなかったと言われています。

これらの兼続のエピソードにかんがみると、情け深い心で人を思いやることを意味する仁愛の愛を、自らの哲学として立物に託したとしても不思議ではないと言えるのです。

愛染明王の愛

兼続所用と伝わる兜をよく見てみると、愛の立物の下には雲を模したような立物があります。当時は、この雲の上に仏の一文字を置くことで、名前を省略できるというルールがあったと言われており、愛の一文字が「愛染明王」(あいぜんみょうおう)を表しているという説があります。

愛染明王は、愛欲や欲望、執着などの煩悩を悟りに変え、菩提心(悟りの境地)に導く力を持つ仏だと言われており、兼続だけでなく、「源頼朝」や「お市の方」も守護神としていました。戦乱の世に生きる人たちの心のよりどころであったとも言えるのです。

愛宕権現の愛

「愛宕権現」(あたごごんげん)とは、「勝軍地蔵」(しょうぐんじぞう)が垂迹(すいじゃく:仏や菩薩が仮の姿でこの世に現れること)した軍神。鎌倉時代から戦国時代にかけて武士の間で広く信仰されており、戦の前に「愛宕神社」を訪れることは、恒例行事のようになっていたのでした。

これを象徴するのが明智光秀。「本能寺の変」直前、光秀は愛宕神社での連歌会で「ときは今、天(あめ)が下(した)知る、五月哉(さつきかな)」という句を詠んでいたのです。

愛宕神社を信仰する武将には、兼続の主君・景勝の養父、上杉謙信も含まれていました。謙信は、戦いの前には愛宕神社を訪れて参拝していたと言われています。兼続と謙信の間での交流については諸説ありますが、景勝を通じて影響を受けた兼続が、武神たる毘沙門天の生まれ変わりを自称し、毘を旗印に用いていた謙信に習って、愛宕権現の愛を兜の前立に施したとも考えられるのです。

上杉謙信・武田信玄・伊達政宗・直江兼続

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