拵・刀装具
刀や地方によって異なる拵
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刀や地方によって異なる拵

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「拵」(こしらえ)とは、日本刀の外装のことを指し、日本刀を使用する際に必要不可欠な物です。その様式は時代と共に変化し、単なる実用品ではない拵も作られました。ここでは、それらの拵の種類や特徴について詳しく説明していきます。

天正拵

刀剣が隆盛した時代と言えば戦国時代ですが、「天正拵」(てんしょうこしらえ)は、その時代に発展した代表的な拵だと言われています。ここでは、徳川家康とのかかわりや武士のファッションの一部という視点から天正拵についてご紹介します。

天正拵の特徴

天正拵は堅牢性が高く、素朴で機能的であるため、戦場で多く使われてきました。戦国時代の元号である「天正」(1573~1593年)の名が記されているように、その時代背景をよく反映した拵です。

戦国時代、武将が打刀(うちがたな)を帯びるようになると共に発展。柄(つか)は鼓(つづみ)のように、胴の中程がくびれた立鼓形(りゅうごがた)で、この形状は鞘(さや)の姿形とバランスを保ちながら妙味ある構成線を作り出すために活かされています。ちなみに、最も手になじむ柄の形は、柄の中程をわずかに絞った物です。

また、天正拵の柄は一般的に鮫皮(さめかわ)包みの上に革巻の物が多いのも特徴。鮫皮は持ち手の滑り止めとなるだけでなく、柄の耐久性を向上させ、鞘は黒や茶漆の潤塗で、鍔(つば)は鉄や山銅など装飾性の少ない物が選ばれています。

天正拵と徳川家康

徳川家康

徳川家康

栃木県日光市にある日光東照宮は、「徳川家康の終着」の地と言われ、奥宮には墓地があり、国内外から現在も多くの参拝者が訪れています。

ここに納められた日本刀が太刀「日光助真」(にっこうすけざね)です。太刀の刀装は、家康が好みに合わせて作らせ「助真拵」と呼ばれる、黒漆塗りの天正拵の代表作。備前国の刀工「一文字助真」(いちもんじすけざね)によって作られた助真拵ですが、助真は鎌倉時代中期の鎌倉幕府第5代執権である北条時頼の招聘(しょうへい)で、備前国から相州鎌倉に移り住んだと言われており、助真の一門は「鎌倉一文字」と呼ばれました。

作風は、焼幅に広狭のある華麗な「大丁子乱れ」(おおちょうじみだれ)。これは、沈丁華(じんちょうげ)の大きなつぼみが重なり合ったような刃文が特徴的と言われています。焼刃の頭が足のように刃先に伸び出た「足」、焼刃の頭や谷から離れた部分に独立した葉のような形ができた「葉」(よう)、焼刃と地肌との境に現れる、銀砂を掃いたように見える「砂流し」(すなながし)、刃中または地と刃境に黒く光る毛細状や筋状の「金筋」(きんすじ)、刀身の焼き入れ時にできる多彩な模様は、とても複雑で味わい深いことからコレクター達からとても人気です。

また、日光助真は加藤清正から家康に献上された物ですが、徳川家康の十男・徳川頼宣(とくがわよりのぶ)に娘が輿入れ(こしいれ)した際の祝い品として贈られたという逸話が残されています。

武士が登城する際のドレスコード

江戸時代になると天正拵に、目貫(めぬき)・笄(こうがい)・小柄(こづか)と言う3つの刀装具を同一作者で揃える「三所物」(みところもの)が一般的になりました。例えば、武家金工であった後藤家により作られた三所物を備えた日本刀は「殿中差し」(でんちゅうざし)と呼ばれ、この差し方は殿中での抜刀(刀を鞘から抜くこと)ができないようにと考えられた物です。

城中へ入るときは、大刀を玄関で預け、脇指のみで殿中に入りますが、そのときに、殿中で抜き打ち(刀を抜くと同時に斬り付けること)、抜刀ができないように脇指を前方に出し、水平に差しておきます。これで、横から見れば抜刀が一目瞭然に分かるので、殿中での抜刀ができないという仕組みなのです。

肥後拵

江戸時代には、文化的価値の高い拵が多く生み出されました。拵を装飾する刀装具は、持ち主の好みに合わせてつくり変えられることもあり、こうして生まれた創作拵は現在も鑑賞用として楽しまれている物が多くあります。ここでは、肥後(現在の熊本県)で作られていた茶道ともかかわりの深い拵についてご紹介しましょう。

細川家と肥後拵

「肥後拵」(ひごこしらえ)は、肥後藩主であり茶人としても知られていた「細川三斎」(ほそかわさんさい)の創作拵です。江戸時代の細川家に伝わる堅牢で雅のある平常指(へいじょうさし)として、儀礼用ではなく普段から用いられてきました。

その様式は、茶道の感覚と居合の実用性をかね備えた物となっています。使用される金具も細川藩お抱えの金工、林又七(はやしまたしち)、平田彦三(ひらたひこぞう)、西垣勘四郎(にしがきかんしろう)、志水甚五(しみずじんご)などの名工が制作。幕末には江戸を中心に流行し、江戸で流行した物は「江戸肥後拵」と呼ばれ区別されていました。

肥後拵の特徴

「わびさび」の感覚を表現した拵として、多くの武士に好まれてきた肥後拵。刀身約65cm、柄約20cm前後の日本刀は、抜き打ちに適しており、肥後拵はこうした短い寸法の物が多いことが特徴のひとつです。実戦のための機能性を備えており、短い柄は胴の中程がくびれた立鼓形で、片手打ちに向いています。片手打ちは、両手で打ち込むより刀の届く距離が延び、居合に有利とされているのです。

金具の素材は鉄が多く、日本刀の鞘の先端部分である鐺(こじり)は、肥後拵独特の浅型で鉄製の「泥摺り」(どろずり)が付けられています。日本刀を抜くときに鞘も一緒に抜けないようにする役割を果たしている「返角」(かえりづの)も、「下緒」(さげお)と呼ばれる組紐を通す「栗形」(くりかた)の上側を向くように角度が付けられています。その他、柄に付いている頭(かしら)は縁(ふち)より小さく鮫皮で包み黒漆を掛けます。柄巻きは鹿革で漆掛け、鞘は鮫皮で包むことが多いことも特徴的。

肥後拵

肥後拵

「信長拵」(のぶながこしらえ)

肥後初代藩主・細川三斎(忠興)の愛刀、越前国信長の日本刀に付けた拵です。金工・田村宗徳作の金具に、刀身と手元の部分にはめる「はばき」を銀と金無垢で二重にして、鞘の鐺には鉄の泥摺りが付いています。日本刀に付属する小刀である小柄は、千利休の意見を反映して作ったと言われており、鍔は藩工である西垣勘四郎作で、鉄地は宮本武蔵の創案とされる大振りな楕円形の透し模様を左右対称に配した「海鼠透かし」(なまこすかし)です。

「歌仙拵」(かせんこしらえ)

肥後拵の典型的な拵として有名です。細川三斎の脇指である和泉守兼定(いずみのかみかねさだ/通称=之定/のさだ)の拵。三斎が隠退した際に、三斎に背いたり悪巧みをしたりする36人を斬ったことから、「三十六歌仙」にちなんで名付けられました。鞘は鮫皮を巻いて作った物で、中央近くまで印籠が刻まれています。

「希首坐拵」(きしゅそこしらえ)

細川三斎が起こした大徳寺事件に由来しています。「首座」(しゅそ)とは、禅宗の修行僧のリーダーを指す役職名。「希」という名前の首座であるために「希首座」(きしゅそ)と呼ばれた僧の無礼を咎めて三斎が殺害したときに使われた日本刀の拵であったため、「希首坐拵」と呼ばれました。

尾張拵

徳川家康の九男・徳川義直が清洲城から、新たに築かれた名古屋城に移った「清洲越し」により成立した尾張藩。「御三家」と呼ばれ諸大名の中で最高の格式を誇っていたと言われています。この尾張藩で生まれたのが「尾張拵」(おわりこしらえ)で、尾張藩の武士達の間で常用されてきました。ここでは、その起源や特徴をご紹介します。

尾張藩は徳川御三家の重要拠点

関ヶ原の戦い」により、天下泰平の世を築いた徳川家康は、江戸に幕府を開きました。尾張には、家康の子である徳川義直が移封(いほう:他の領地へ移すこと)され、御三家のひとつとして重要な役割を果たすことになったのです。尾張藩は、尾張一国、三河・美濃などの一部を領地として与えられ、領内には東海道などの街道が通り、城下町名古屋は尾張藩の政治・経済・文化の中心として栄えたと伝えられています。

徳川家と尾張拵

武道・武勇を重んじてきた尾張藩。尾張拵は、尾張徳川家の家臣達にとって、普段から腰に付ける平常指(へいじょうざし)の刀剣に用いられた拵だったと伝えられているのです。

特徴としては、重厚感がありますが、そのなかに品の良さを感じさせる拵で、使用金具は、こだわりを持つというよりは取り合わせ物が多く、実用を重視。鞘は太めで、断面は小判形になり刀の鞘の口である鯉口(こいぐち)は必ず中白、「下緒」と呼ばれる組紐を通す「栗形」は角張り、鍔は「尾張透かし」と言って、豊満・武骨で力強いのが特徴で、よく鍛錬された黒紫色の鉄色が深い味わいを醸し出しています。丸形が多く、左右あるいは上下が対照に作られることがほとんどで、図柄は雁金(かりがね)・車文(くるまもん)・家紋・糸車・花文・松・唐草。力強い透かしに実践主義が示され、鉄鍔愛好者の心を魅了しているのです。

尾張拵

尾張拵

尾張拵の細やかな表現

尾張拵は、武骨さを感じる丈夫な部品をあらゆる部分に使用しているものの、鞘についてはその細工や部材に粋な表現がされていることが特徴的です。

例えば、金属・革・木などの製品にあけた穴の縁を飾る金具である鵐目(しとどめ)金具は、その紐を通す穴の隅が丸く、口金部分には花文様の飾りが付いています。各所に注意を払って見ると、その作りの細やかさが見てとれ、柄については、柄巻きの菱形が比較的大きく、柄糸の織目が一般の物とは逆です。縁の内径は頭がスッポリ納まるようなつくりで、刀身が柄から抜けないように柄と茎の穴に止める目貫は厚みを少なく、平板にした物を使用しています。

代表作のひとつ「黒蝋色塗鞘蝶図朧銀金具脇指拵」

「黒蝋色塗鞘蝶図朧銀金具脇指拵」(くろろいろぬりさやちょうずろうぎんかなぐわきざしこしらえ)の鞘は、油分を含まない純粋の黒漆を使った黒蝋色塗で渋い光彩を放ち、金具は朧銀(ろうぎん)を主体に淡い光沢を放ちます。

縁・頭は蝶の図、鍔は「献上鍔」(けんじょうつば)と称されていました。目貫は、純度の高い銅で大ぶり。そこに金メッキで鶏の図が描かれています。小柄は赤銅魚子地(しゃくどうななこじ)という、数の子の表面のような模様を高く浮き上がらせるように彫り、金色絵を描いてあるのが特徴です。上質の金具を用いており、保存状態も良好で、尾張徳川藩家老・竹腰家(たけのこしけ)伝承の指料(さしりょう:腰に差す刀剣)として大切に受け継がれています。

柳生拵

かつて尾張藩で常用されてきた尾張拵(おわりこしらえ)と同系列に位置づけられている「柳生拵」(やぎゅうこしらえ)。尾張藩主2代・徳川光友の兵法指南役であった柳生連也斎厳包(やぎゅうれんやさいとしかね)が考案し、自身が腰に付ける刀剣である指料とした物を基本とし、それをもとに制作された拵を柳生拵と称しています。ここでは、職人技を突き詰め、熱心に物作りに挑んだ柳生連也斎厳包の人生と共に、柳生拵をご紹介しましょう。

剣一筋の人生を送った柳生連也斎

江戸時代前期の剣術家として有名な柳生連也斎厳包。著書に「御秘書」、「連翁七箇條」などがあり、柳生拵を考案しました。また、主君である徳川光友の命により、初心者向けに日本刀を使いこなすために必要な稽古法をまとめた「取り上げ使い」を開発するなど、後進の育成にも力を尽くした人物です。

私生活では生涯妻を娶らず、剣術の流派「新陰流」(しんかげりゅう)流祖である上泉秀綱が説いた「新陰流兵法のある処、すなわちわが墓なり」を実践した柳生連也斎厳包。剣術の道を極めることのみに専念し、菩提寺(ぼだいじ)である白林寺(はくりんじ)の過去帳にも記載されず、墓所もなく、父・如雲斎(じょうんさい)ゆかりの京都妙心寺内麟祥院に位牌があるのみと伝えられています。

刀よりも有名な拵

柳生連也斎が大切にしていた日本刀をもとに作り出された柳生拵。一般的に尾張拵と同じカテゴリとされていますが、独自の特徴を持っており、中身の刀身よりも拵の方がよく知られているほどです。

最も特徴的なのは、刀身が柄から抜けないように柄と茎の穴にさし止める目貫の位置。通常の拵の位置とは表裏逆となっており、このように目貫を入れたのは武器としての使用を想定してのことだと考えられ、手の内に納まり、日本刀を操る際にも使い勝手が良く、機能性に優れています。

柳生拵の特徴

ここでは、目貫以外の柳生拵の特徴をご紹介します。柄は頭・縁が大きく、胴の中程が絞ってあり、くびれた立鼓形。これは片手打ちに適した形状で、柄の刃側は平ら(棟の稜線を凹ませた形態)で握りやすくしている点も特徴的です。

柄頭は小さめで、下緒と同じ浅黄色の糸で巻かれており、太刀は糸を13回ほど重ねて作られる菱形模様の十三菱、小刀は糸を8回ほど重ねる八菱になるように柄糸で巻かれています。鞘は黒呂塗り(くろろぬり)で、黒漆の濡れたような深く美しい見た目が特徴的です。

また、蛇腹のような形(三部刻み)をしています。日本刀の鞘の口である鯉口は中白。日本刀の鞘の末端である鐺は朧銀地の一文字。鍔は必ず丸型で、透かしの入った柳生鍔を用います。

柳生拵

柳生拵

尾張拵との比較

尾張拵の頭は縁より小さいですが、柳生拵の頭は鉄地に山銅(やまがね)混じりで、かなり大きいことが特徴です。また、体格が小さかったと言われる柳生連也斎厳包の体型に合わせてか、寸法は2尺(約60.6cm)弱と比較的短いことも比較の対象となっています。

庄内拵

江戸時代、各藩には独自の思想に基づく武術やその流儀による個性的な拵の様式が見られ、「庄内拵」(しょうないこしらえ)もそのひとつでした。一般に庄内拵と言われる物は、庄内金工の手により作られた金具が用いられている物を指し、細かな様式の規定はありません。ここでは、庄内金工の歴史と共に、庄内拵についてご紹介します。

庄内金工を用いた拵

庄内金工は、江戸時代中期以後の金工史を語る上で外すことのできない、芸術的価値の高い工芸です。庄内拵には、この庄内金工による金具が多く使われています。

なかでも「庄内鐔」(しょうないつば)は素朴で飾り気のない作風が特徴で、その名を全国に知らしめたのは天下の名工と称せられる土屋安親(つちややすちか)です。土屋安親は、出羽国田川郡鶴ヶ岡城下(現在の山形県鶴岡市)出身の、装剣金工師。鍔を中心に柄の前後にある金具である縁・頭、柄が刀身から抜けないように止める役割を持つ目貫、携帯用の小刀である小柄などの制作を行なっており、土屋安親の作である「干網千鳥透鐔」(ほしあみちどりすかしつば)などは重要文化財に指定されています。

技術面では鋤彫(すきぼり)を得意としてきました。この彫金技法は、特殊な鏨(たがね)を用いて金属板の素地(きじ)を平らに削り取るように彫り、文様が浮彫になるように彫り描く技法を指します。

また、土屋安親は武家金工として有名な後藤家のような古典的文様の展開ではなく、デザイン性を重視し、ときには心象的な表現を広げ、特異な作り込みさえ新規に提案している点が特徴的です。そこには、武具を作るという本来の仕事を超え、美的センスを追求するという意図があったと考えられています。

「干網千鳥透鐔」(ほしあみちどりすかしつば)

不純物を多く含んだ山銅ではなく、純度を高めた素銅(すあか)を使用しています。左側に大きく干網の図を、右側に群千鳥を図案化して素地を平らに削り取る鋤彫にし、ところどころに「金摺付象嵌」(きんすりつけぞうがん)を施しています。

これは、平面に無数の細い線を切り込み、ここに金を摺り込むことにより、細線の密集した斑状の文様を表現する技法。銘として彫られている「東雨」は、土屋安親が晩年に用いた銘で、晩年大成後の代表的な作です。

「月下木賊刈図透鐔」(げっかとくさかりずすかしつば)

この鐔は表右下側に人物、左上側に月をはめこんで作られており、雲を鋤彫で表し、左下に植物の木賊(とくさ)を透かして水流を見せています。土屋安親は、この図柄を得意としていたようです。

庄内拵の特徴

庄内拵には、厳格な決まりごとはありませんが、やはり庄内金工の金具を用いた拵であることが他の地方拵にない点です。その他、柄の前後にある縁頭、鐺の呑み込みが深く、丸く張る物が多いことも特徴的。鍔はやや小ぶりで、装飾は「平象嵌」(ひらぞうがん)という技法で平面状や線状に加工した金属を流し入れて、地面の周囲とほぼ同一の高さに仕上げ、全体を見ても平滑な状態にする表現技法が用いられています。

また、彫り方には金属面に片刃の鏨を斜めに打込んで肥痩(ひそう)のある線を彫刻する方法が多く、こちらも丸く張っていて、頭と鐺を大きく鍬形状に透かす物も多いです。

庄内拵

庄内拵

薩摩拵

薩摩藩の武士達は、独自の古流剣術を学び普及させてきたため、使用する日本刀の刀身、その刀装具を含めた拵に強い特色があるのです。ここでは、実戦刀として価値の高い「薩摩拵」についてご紹介します。

薩摩独自の剣術が浸透

薩摩藩を中心に伝わった古流剣術「示顕流」(じげんりゅう)。江戸時代後期に、薩摩藩の第十代藩主である島津斉興(しまずなりおき)より、藩公認の御流儀とされ、分家以外の藩外の者に伝授することを厳しく禁じられていました。

「一の太刀を疑わず」または「二の太刀要らず」と言われ、髪の毛たった1本でも早く打ち下ろせという教えが特徴。この教えは、「先手必勝」の思想に関係しています。初太刀から勝負のすべてを掛けて斬り付ける、鋭い斬撃が勝利に導くと考えられてきました。

示顕流の稽古には、じっくりと乾燥させて強度が出た柞(ゆす)の木の枝を適当な長さに切り、木刀として用いています。「蜻蛉」(とんぼ)と呼ばれる構えから、立木に向かって激しく斬撃する「立木打ち」(たてぎうち)など、黙々とひたすら実戦を主眼に置いた稽古を繰り返すことに特徴があります。達人ともなれば、立木に打ち下ろすとき煙が出ると言われるほどでした。

示顕流に適した薩摩拵

薩摩拵は、薩摩島津藩で用いられてきた拵で、幕末に実戦用の拵として最前線で戦う武士が使用するために作り上げられました。一撃で敵を倒す示顕流は、日本刀を抜いたときは必ず敵を倒すことを意味し、これに適した作りとなるように、柄、鍔、鞘への機能的な工夫が見られます。

薩摩拵の特徴

武骨一点張りで無駄な装飾を一切排除。日本刀を抜いた瞬間に相手を倒せるように、随所にこだわりが見られました。

柄は太く長くして刃方を凹ませた形状にはせず、鮫皮の代わりに厚手の牛革を巻いて黒漆をかけます。さらに、その上に糸か革紐を巻き締めて、柄が刀身から抜けないように止める役割を持つ目貫は、ほぼ装着しません。また、柄の前後にある金具である縁頭は鉄製で頑丈に仕上げました。

さらに、帯から素早く抜けるように逆角の突起を凸形にすることで、刀身を鞘に収めたまま柄頭で相手を直接攻撃したことからも、その利点が分かります。鍔には「鞘止」(さやどめ)と称される小さな穴があけられていますが、日本刀をむやみやたらに抜かないことを示した物で、この穴に針金や紐を通し、鞘に固定していました。

島津家と共に歩んできた薩摩拵ですが、特徴的なエピソードがあります。島津家では、刀装に使われる赤銅は金の含有率が高いと言い伝えられていたようです。その理由は、いざというとき金を吹き分けて軍資金にするためだったと言われています。

薩摩拵

薩摩拵

その他の拵

現存する拵は、実戦で用いない物や儀式用など、江戸時代以降に生まれたとされています。鎌倉時代や室町時代の拵はほぼ残されておらず、拵が同時に作られた刀身と共に現存しているケースは非常に稀です。ここでは、江戸時代以降に絞り、多様な形式を持つ拵についてご紹介します。

江戸時代の拵は多種多様

太平の世となった江戸時代中期頃、刀剣は実用の道具としての領域を越えて、武士に欠かすことのできない「武士の表道具」や、「武士の魂」として、武士を権威づける意味合いが強まりました。

そのため、拵や刀装具も重要な役割を果たすようになりましたが、幕府によって刀剣の寸尺・拵の様式に関する禁令が出され、華美になりすぎないようにある程度制約がされていたのも事実。拵はファッションにおけるドレスコードと同様、使用する人の身分や場面に応じて定められていたのです。

番指(ばんざし)

江戸時代の武士が公式の場で身に付けてきた物で、「裃指」(かみしもざし)、「殿中指」(でんちゅうざし)とも言われます。大刀は角製で一文字形(まっすぐな形)、小刀は半月型の丸鐺です。鍔は赤銅地で碁石のように真ん中に厚みがあることが特徴で、大刀には小柄と、髪の乱れを整えるのに用いた笄、小刀には小柄のみを付けます。

小柄、笄、身が柄から抜けないように柄と茎の穴にさし止める目貫は、室町時代から江戸時代までの将軍家お抱え金工であった後藤家作の物を使用。柄は鮫皮で包み、目貫は金無垢などの豪華な物を使い、頭は水牛の角製、柄巻は頭に筋違いに掛けて巻き、縁は「赤銅魚子地」と言い、銅に3~5%の金を混ぜ数の子の表面のような板地に付けた物、もしくは磨き地で無紋または家紋を入れ、鞘は黒呂色塗となり黒漆の濡れたような深く美しい見た目が特徴的。

なお上級武士は、高価な鮫皮を見せるために、柄巻の菱を少なくしたようです。

番指

番指

武蔵拵(むさしこしらえ)

宮本武蔵は、江戸時代初期の剣術家、兵法家であり、二刀を用いる二天一流(にてんいちりゅう)兵法の開祖。「武蔵拵」は、武蔵が晩年に愛用していた、「和泉守兼重」(のちの上総介)の拵です。武蔵没後、二天流を継いだ寺尾信行が武蔵の養子である小倉藩重臣・宮本伊織に大小の帯刀を送り届けましたが、脇差のみを受け取り、大刀を送り返してきました。

明治時代に寺田家はこれを戸下温泉主人である長野某(なにがし)に譲り、柄巻は馬の革で巻いて漆を掛けてあったのですが、この長野某が糸巻きに変えてしまっています。鍔は宮本武蔵作と言われる素銅の海鼠透かし(なまこすかし)で、大振りな楕円形の透し模様を左右対称に配した簡素なデザインが特徴です。

武蔵拵

武蔵拵

網代鞘短刀拵(あじろざやたんとうこしらえ)

肥後熊本藩初代藩主・加藤清正が所持していたとされる短刀拵。豊臣秀頼が二条城において徳川家康と対面する際に、秀頼の側に仕える清正がいざというときのために懐に忍ばせていたと言われる短刀です。

熊本本妙寺蔵で、中身は「備州長船祐定作 天正十年二月日」。目貫には、金銀赤銅のつくしが2本描かれていて、鞘も装飾性が高く竹を細かく剥いで網状に組んだ物を着せて漆付けにしてあります。また、刀身を鞘から抜く場合、鞘も同時に前方へ抜け出ぬよう帯に引っ掛けて止める目的から、鞘の中程に設けられている突起「返り角」(かえりづの)には、日本古来の色金(いろがね)のひとつで銀と銅の合金である四分一地を使い、木瓜形(もっこうがた)をしていて高尚で精巧な物です。

網代鞘短刀拵

網代鞘短刀拵

刀や地方によって異なる拵

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拵の基本解説

拵の基本解説
日本刀(刀剣)の見どころでメジャーな部分と言えば、刃文(はもん)や地鉄(じがね)など刀身にかかわる部分。しかし、その刀身を納めるための鞘(さや)や、茎(なかご)が覆われている柄(つか)と言った「拵」(こしらえ)と呼ばれる刀装具の部分にも、鑑賞のポイントとなる箇所がいくつもあるのです。ここでは、拵の基本的な部位における、それぞれの名称や役割などについてご説明します。

拵の基本解説

刀装具のすべて①(鐔・目貫・笄・小柄・縁頭・鎺・柄・鞘)

刀装具のすべて①(鐔・目貫・笄・小柄・縁頭・鎺・柄・鞘)
「刀装具」(とうそうぐ)とは、日本刀(刀剣)の拵(こしらえ)に付いているすべての部品のことです。刀装具が付けられている目的や種類は多岐に亘り、日本刀(刀剣)が持つひとつの特徴でもあります。ここでは、刀装具について詳しくご紹介していきます。

刀装具のすべて①(鐔・目貫・笄・小柄・縁頭・鎺・柄・鞘)

刀装具のすべて②(鐔・目貫・笄・小柄・縁頭・三所物・鎺・呑込み)

刀装具のすべて②(鐔・目貫・笄・小柄・縁頭・三所物・鎺・呑込み)
日本刀(刀剣)は刃の部分だけではなく、刀装具にも注目して頂きたいと思います。刀装具の中には、一見するとどのような目的で付けられているのか分からない物でも、その意味や歴史を知ると興味を持つことができます。また、美術品としても扱われた刀装具は、それぞれ異なる形や美しさが見どころです。今回は、そのような刀装具に関する知識をご紹介します。

刀装具のすべて②(鐔・目貫・笄・小柄・縁頭・三所物・鎺・呑込み)

刀装具のすべて③(鞘・柄・下緒)

刀装具のすべて③(鞘・柄・下緒)
刀装具の種類の中でも、分かりやすい部品が「鞘」(さや)と「柄」(つか)です。実際に日本刀(刀剣)を手に取る際に触れる柄と、日本刀(刀剣)を納める際に使う鞘。また、その鞘に装着して用いる「下緒」(さげお)は、よく目にするのではないでしょうか。今回は、これらの種類や歴史についてご紹介します。

刀装具のすべて③(鞘・柄・下緒)

刀装具の歴史

刀装具の歴史
「刀装具」(刀剣の外装)は、刃物である「日本刀」を安全に持ち運ぶことや、日本刀を最良の状態で保つことを目的に作られています。日本刀は武具ですが、信仰心や美意識を見せるために装飾も重視されていました。今回は、時代によって刀装具がどのように変化していったのかをご紹介します。

刀装具の歴史

拵とは?

拵とは?
「拵」(こしらえ)とは、日本刀(刀剣)の外装のことを言い、「つくり」などとも言います。鞘(さや)、茎(なかご)を入れる柄(つか)、鍔(つば)を総称した言葉です。時代の流れと共に、日本刀(刀剣)や拵は形を変えていきますが、使いやすさを追求するばかりではありません。武士の魂を帯刀しているも同然ですから、身分や家柄、そして武士の威厳を示す物でもあるのです。

拵とは?

日本刀の拵の種類

日本刀の拵の種類
「日本刀」に「太刀」(たち)や「打刀」(うちがたな)、「腰刀」(こしがたな)といった違いがあるように、日本刀の外装である「拵」(こしらえ)にも違いがあるのです。ここでは、それぞれの代表的な拵と特徴について、ご紹介します。

日本刀の拵の種類

日本刀と刀装具

日本刀と刀装具
「刀装具」とは、「日本刀」(刀剣)の外装のことで、元々は日本刀(刀剣)を守る役割の保護具でした。しかし、時代を経るにしたがい、歴史に名を残す将軍や戦国武将をはじめ、武士階級以外の者もそれぞれの嗜好に合わせた刀装具をあつらえるなどしたため、見た目を意識した物へと変化していったのです。

日本刀と刀装具

刀装具彫刻の種類

刀装具彫刻の種類
刀装具は、元来「日本刀」(刀剣)を保護したり、使いやすくしたりする目的で制作された物でしたが、時代の変化と共にその役割も変化していきました。すなわち、日本刀(刀剣)を所用する武士の身分や権力を示す物になっていったのです。特に、天下泰平の世となった江戸時代においては、武士達は競い合うようにして刀装具を飾り立てるように。ここでは、刀装具装飾における手段のひとつ、刀装具彫刻について考察します。

刀装具彫刻の種類

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