歴史上の人物と日本刀

於田秋光と恩賜刀 大阪住月山貞勝謹作 昭和七年十月吉日

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「武士」という身分を示す役割があった日本刀の精神性は、明治時代に日本の軍事体制が武士から西洋式の「軍隊」に様変わりしてからも、失われることはありませんでした。大日本帝国軍(=旧日本軍)の軍学校における、成績優秀な卒業生に天皇から刀を授与されていた慣例もそのひとつ。「恩賜の軍刀」(おんしのぐんとう:恩賜刀とも)と称されたそれは、旧日本軍におけるエリートの証しだったのです。ここでは、その恩賜刀の中の1振である「大阪住月山貞勝謹作 昭和七年十月吉日」(おおさかじゅうがっさんさだかつきんさく しょうわななねんじゅうがつきちじつ)と共に、それを所持していた「於田秋光」(おだあきみつ)陸軍大佐についてご紹介します。

於田秋光大佐が「恩賜の軍刀」を賜るまで

陸軍大学校

陸軍大学校

於田秋光大佐が恩賜刀を天皇から賜ったのは、1933年(昭和8年)に「陸軍大学校」を卒業したとき。同年における同学校の卒業生で恩賜刀を授与されたのは49名中、首席1名・優等5名のみで、秋光は優等卒業生のうちのひとりでした。

陸軍大学校をはじめとする旧日本陸軍の軍学校は、軍の幹部となる「将校」(しょうこう:階級が少尉以上の士官)を養成するために設立された教育機関。秋光は、「東京陸軍幼年学校」を卒業後に「陸軍士官学校」を経て、1930年(昭和5年)に「陸軍大学校」へ入学しました。

これは、陸軍における将来を約束されたエリートコースですが、特に陸軍幼年学校は、年度によって多少の差はありますが、入学試験の倍率がおおよそ20倍という難関。それ故に幼年学校の入学者は、選抜の対象であった主に13~14歳の男子にとって羨望の的でした。幼年学校から大学校まで順調に進んだだけでなく、卒業時に恩賜刀を天皇から賜る栄誉が与えられた秋光は、陸軍におけるエリート中のエリートであったことが分かります。

於田秋光大佐とあの幕末志士との関係とは

西郷隆盛

西郷隆盛

このような才能溢れる秋光を、周囲が放っておくはずがありませんでした。それは、1930年(昭和5年)、秋光が「西郷滋子」(さいごうしげこ)という女性と結婚したことからも窺えます。

滋子の名字から察することができるかもしれませんが、彼女は、幕末の志士として名を馳せた「西郷隆盛」(さいごうたかもり)を輩出した、西郷家の血を引く女性。滋子から見ると隆盛は、大叔父にあたるのです。

彼女の父は、陸軍少将であった「西郷豊彦」(さいごうとよひこ)。豊彦は、隆盛の弟で「小西郷」と称されていた「西郷従道[信吾]」(さいごうじゅうどう/つぐみち[しんご])の3男でした。

滋子と婚姻関係を結んだことで、豊彦の義理の息子、そして従道の義理の孫となった秋光。豊彦と従道は共に軍人であり、特に従道は隆盛と同じくらい将器の才があったと伝えられています。

  • 於田秋光と西郷滋子の婚礼写真

    於田秋光と西郷滋子の婚礼写真

  • 家系図

    家系図

薩摩藩士から明治政府の要人となった西郷従道

兄・西郷隆盛の影響で尊皇攘夷の道へ

1843年(天保14年)に「西郷吉兵衛」(さいごうきちべえ)の3男として生まれた従道は、長兄であった隆盛とは15歳の年齢差がありました。

幼い頃には、「茶坊主」(ちゃぼうず:武家において、茶の湯の手配や来客への給仕など、茶道に関することを司った者)として「竜庵」(りゅうあん)と号し、薩摩藩(さつまはん:現在の鹿児島県全域、宮崎県南西部)主「島津斉彬」(しまづなりあきら)に仕えていましたが、1861年(文久元年)には還俗。

1852年(嘉永5年)に両親が亡くなり、親代わりとなっていた隆盛の多大な影響を受けていた従道は、還俗した翌年の1862年(文久2年)、隆盛や「大久保利通」(おおくぼとしみち)らによる藩内組織「精忠組」(せいちゅうぐみ)に参加します。尊王攘夷運動に傾倒し、同年の「寺田屋事件」(てらだやじけん)や1863年(文久3年)の「薩英戦争」(さつえいせんそう)など、過激とも言える一連の活動や戦に、従道は薩摩藩士として必ず携わっていました。

また、1868年(慶応4年)に勃発した「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)では、倒幕を推し進めるため、従道も新政府軍として参加。その前哨戦となる「鳥羽・伏見の戦い」(とば・ふしみのたたかい)において、銃弾が体を貫通する重傷を負いながらも、各局地戦にも出向いたのです。

隆盛の遺志を継ぎ、新政府の軍人として日本を守り抜く

戊辰戦争後、新しい国家体制となった明治政府で、太政官(だじょうかん:明治新政府の最高官庁)に仕えることになった従道。兄・隆盛もまた、「廃藩置県」(はいはんちけん)など、明治政府の政治改革に大きな貢献を果たしていました。

しかし、隆盛は1873年(明治6年)、鎖国下にあった朝鮮を武力で開国させようと主張する「征韓論」を巡って、大久保利通と対立。ロシアの南下が差し迫っていることもあり、隆盛は何とか話し合いで説得しようと朝鮮へ単身で渡ることを懇願していましたが、利通らは「今は内政に集中すべき。時期尚早である」と、認めなかったのです。

このことにより、隆盛は下野(げや:官僚を辞職して民間人になること)し、鹿児島へと戻って行きました。それに伴い、多くの薩摩藩出身者達が隆盛を追いましたが、従道は明治政府に留まることを決意。一説には、隆盛がそのように助言したとも言われています。ロシアから日本を守るという隆盛の願いを、従道に託したのかもしれません。

1869年(明治2年)、従道は「山県[縣]有朋」(やまがたありとも)と共に渡欧し、現地で兵制の視察や研究を行ないます。帰国後は、兵部権大丞(ひょうぶごんたいじょう)や陸軍中将など、数々の重要ポストを歴任。軍人としてのキャリアを順調に積み重ね、その手腕を発揮するようになったのです。

1877年(明治10年)、隆盛が薩摩の不平士族達に担がれ、「逆賊」となって勃発した「西南戦争」(せいなんせんそう)では、従道は隆盛に荷担することなく東京に残り、出征した山県有朋の代理(=陸軍卿代理)としてその職務を全うしました。

従道の功績の裏にあったのは「人を育てる力」

その後は、1878年(明治11年)の参議兼文部卿を皮切りに、陸軍卿、農商務卿などに相次いで就任した従道。しかし、決して偉ぶることなく、部下達が自由に仕事ができるように、口は出さずに失敗の責任は取るという姿勢を貫いたのです。

それは、1885年(明治18年)、第1次伊藤内閣発足時に海軍大臣となってからも変わりませんでした。従道は、「山本権兵衛」(やまもとごんのひょうえ)を海軍省官房主事に抜擢。権兵衛は、陸軍の参謀本部に統括されていた海軍の軍令部を独立させて海軍の地位向上を図り、軍艦の整備や人員整理など海軍における軍事力の強化に、存分に腕を振るったのです。このことが、のちの「日清戦争」(にっしんせんそう:1894~1895年[明治27~28年])や「日露戦争」(にちろせんそう:1904~1905年[明治37~38年])で、日本が勝利を収める礎となったことは、間違いありません。

日露戦争開戦前の1898年(明治31年)、元帥(げんすい:軍の最高階級)海軍大将に列せられた従道のあとを引き継ぎ、海軍大臣に就任した権兵衛は、来るべきロシアとの決戦に備えて、軍艦を増強する構想を練っていました。しかし、発注の段階では、海軍の国家予算が尽きてしまっていた状況。考えあぐねた権兵衛が、内務大臣となっていた従道に相談したところ、「別の予算を回してでも軍艦を建造しなさい。責任は自分が切腹してでも取る」と、ロシアとの対立は避けられないと考えていた従道は、文字通り決死の決断を下したのです。

この軍艦こそが、日露戦争で日本の勝利を決定付けた「日本海海戦」において、旗艦として活躍した軍艦「三笠」(みかさ)でした。このとき指揮を執っていたのは、権兵衛から連合艦隊司令長官に推薦された「東郷平八郎」(とうごうへいはちろう)。

もし従道が隆盛と共に鹿児島へ帰り、軍人として、そして政治家として明治政府にかかわっていなければ、権兵衛や平八郎のような日本海軍のリーダーは育たず、日本は守られていなかったかもしれません。

このように有能であった従道は、総理大臣候補として何度も名前が挙げられ、明治天皇からも推薦されていました。しかし、兄・隆盛が逆賊であったことを理由に断り続けています。

そして1902年(明治35年)、胃がんのため日本海海戦での大勝利を見届けることなく亡くなったのです。

従道の軍人としての才能を受け継いだ「西郷豊彦」

7男4女、計11人の子を儲けていた従道。豊彦は、その3男として1878年(明治11年)に生まれました。豊彦の母親は、西郷隆盛の同僚である薩摩藩士で、のちに大久保利通の推挙により、明治政府における大蔵省の官僚となった「得能良介」(とくのうりょうすけ)を父に持つ清子(きよこ)です。

豊彦の兄弟達は、その多くが父・従道と同様に軍人を志し、例えば、のちに西郷家の家督を継いだ次男・従徳(じゅうとく)は陸軍大佐、そして山本権兵衛の娘・なミと結婚した4男「上村従義」(かみむらつぐよし/じゅうぎ)は、海軍大佐にまで上りつめています。
豊彦もまた、1899年(明治32年)に陸軍士官学校を卒業し、その翌年には少尉に任じられたのです。その後、陸軍において様々な要職を歴任。1924年(大正13年)には陸軍大佐となりました。

「第一次世界大戦」(1914~1918年[大正3~7年])のあとに開かれた国際軍縮会議「ワシントン会議」以降、もともとは日露戦争の際に、朝鮮半島南部における港湾の安全を守るために設置されていた「鎮海湾[釜山]要塞」(ちんかいわん[ぷさん]ようさい)の重要性が増す中、1930年(昭和5年)、豊彦はその司令官に就任。そして、同年には陸軍少将に列せられました。これは、他の兄弟達の最終階級である「大佐」のひとつ上の位にあたります。

このようなことからも、豊彦が軍人としていかに優秀であったかが窺えますが、その豊彦に、秋光は陸軍のみならず日本の将来を担うのにふさわしい人物だと、自身の才能を見込まれて重用されたのです。

秋光が歩んだ陸軍での道のりとは

日本刀と共に卒業階級「砲兵大尉」を授与され、陸軍大学校を卒業した秋光は、1936年(昭和11年)に北海道で開催された陸軍の特別大演習に参加しました。

これは、1931年(昭和6年)に勃発した「満州事変」(まんしゅうじへん)などを受け、本格的な戦火拡大の時局を前にその規範となるべく行なわれた、日本史の記録に残る大規模な物。この軍事演習では、現在の北海道大学農学部に大本営が置かれ、昭和天皇は元帥として演習を統率されました。このとき、秋光は昭和天皇に演習の戦況を奏上していますが、その際に帯びていたのも日本刀だったのです。

その後、秋光は在ポーランド日本大使館付武官(いわゆる駐在武官)として、ヨーロッパ各国における機密情報の調査、及び収集の任務にあたります。しかし、その期間中の1939年(昭和14年)9月1日、ドイツ軍によるポーランド侵攻が勃発。

秋光は、旧日本陸軍の将校として「第二次世界大戦」開戦の契機となった状況を目の当たりにしていたのです。

また、「太平洋戦争」の末期頃には、1942年(昭和17年)より旧日本軍が上陸していたニューギニア戦線へ命がけで出陣。「ニューギニアの戦い」における生還率は10%ほどだったと言われていますが、終戦を迎えた1945年(昭和20年)、秋光は無事に日本への帰還を果たしました。

月山系の歴史と恩賜刀「大阪住月山貞勝謹作 昭和七年十月吉日」

月山貞勝

月山貞勝

秋光に下賜された恩賜刀は、月山系の刀工「月山貞勝」による作です。月山系は、もともとは出羽国(でわのくに:現・山形県秋田県)月山を拠点に、鎌倉時代から室町時代にかけて栄えた刀工の一派でした。

江戸時代に入ると、同地での作刀活動は見られなくなりましたが、幕末頃になると一門のひとりであった「月山貞吉」(がっさんさだよし:俗名[弥八郎])が、1833年(天保4年)頃、大阪に来住したことをきっかけに、大阪月山派を樹立。貞吉は、江戸時代以前のいわゆる「古月山」伝来の「綾杉肌」(あやすぎはだ:綾杉の木地のように、大きく波打ったような形状になっている地肌のこと)の再興に努めました。

貞勝の父であった初代貞一(さだかず:俗名[弥五郎])は、1836年(天保7年)に近江国(おうみのくに:現・滋賀県)で生まれ、7歳の頃に貞吉の養子として迎えられています。初代貞一は、無類の愛刀家として知られる明治天皇の軍刀を作るなど、その技術は高い評価を受けます。

1906年(明治39年)には現在の人間国宝にも相当すると言われる「帝室技芸員」を拝命。「備前伝」や「相州伝」といった古伝に倣った作刀法を用いるのみならず、「月山彫り」と称される、精巧で品格のある刀身彫刻をも完成させました。

大阪住月山貞勝謹作昭和七年十月吉日

大阪住月山貞勝謹作昭和七年十月吉日

ランク 刀長 所蔵・伝来
表:大阪住
月山貞勝謹作
裏:昭和七年十月
吉日
2尺2寸5分 刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕
詳細を見る

刀を制作した大阪月山派三代目の貞勝は、1869年(明治2年)に初代貞一の長男として生まれました。父・貞一の代作を盛んに行なったことで知られ、父の晩年まで刀工としての表立った活躍はあまり見られませんでした。しかし、父・貞一から鍛刀と刀身彫刻における高度な技術を受け継いでいた貞勝は、大正時代から昭和時代初期には、日本刀を含む恩賜刀や天皇の大元帥刀、そして日本軍の御下命刀などを数多く作刀したのです。

それだけではなく、貞勝は、自身の息子である二代・貞一と門人であった「高橋貞次」(たかはしさだつぐ)を人間国宝にまで育成。貞勝は作刀技術のみならず、指導力にも大変優れていました。

当時の最高の品質を誇る玉鋼(たまはがね)が用いられた日本刀は、刀身は身幅が狭く、刃文に理想的な直刃調の焼き入れが施された物。また、刀装具の中でも最も重要な箇所と言える鎺(はばき)は、表面に金の薄版が着せられており、天皇から下賜された刀であることを示す「御賜」(=恩賜)の2文字が刻まれています。

於田秋光と恩賜刀 大阪住月山貞勝謹作 昭和七年十月吉日

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