「井伊家」(いいけ)と言えば、「徳川家康」第1の功臣で、「徳川四天王」のひとりに数えられた直政(なおまさ)や、江戸幕府の大老(たいろう:政務のすべてを取りまとめていた江戸幕府における最高職)として徳川家を支えていた直弼(なおすけ)など、後世に名を残す人物を多く輩出しています。井伊家は、江戸時代に近江彦根藩(おうみひこねはん:現在の滋賀県彦根市)藩主として近江国東部一帯を領していましたが、その歴史が始まったのは平安時代。それから現在に至るまで、1,000年以上もの長いあいだ井伊家が存続してきた理由と、井伊家に伝来する日本刀「弘行」(ひろゆき)についてご説明します。
氏族の血統などを示す「家紋」は、武家において複数持つことが通常でした。その中で、公の場で多く使用される代表的な家紋は「表紋」(おもてもん)[別称:定紋、本紋など]、それ以外の物は「裏紋」(うらもん)[別称:替紋、別紋など]と呼ばれています。
井伊家の表紋には「彦根橘」(ひこねたちばな)、裏紋には「井桁」(いげた)が用いられていますが、これらは井伊家のルーツにまつわるある伝説が由来になっているのです。
1010年(寛弘7年)、遠江国井伊谷(とおとうみのくにいいのや:現在の静岡県浜松市北区)の八幡宮で、神主が御手洗井戸のそばに生まれたばかりで捨てられたと見られる赤ん坊を発見。神主は、容姿端麗で聡明な眼光を持つその男児を引き取ることにしました。そして、男児が7歳になった頃に跡継ぎのいなかった遠江守「藤原共資」(ふじわらのともすけ)がその噂を伝え聞き、養子として迎え入れたのです。
「藤原共保」(ふじわらのともやす)と名乗るようになったその男児は、共資の娘と結婚したのち、1032年(長元5年)に共資から家督を譲られました。それまで「志津城」(しづじょう:現在の浜松市西区)で育てられていた共保でしたが、自身の故郷・井伊谷に戻って、居館となる「井伊谷城」を築きます。そして、その地名から、「井伊氏」を称するようになりました。
すなわち、井戸のそばに捨てられていたこの男児こそが、井伊家の初代当主「井伊共保」だったのです。共保が井戸で見つけられたこと、そしてそのそばに生い茂っていた「橘」が、産着の衣紋に付けられたことから、井伊家の表紋と裏紋には、それぞれ橘と井桁が用いられるようになったと考えられています。不思議なおとぎ話のようなこの伝説は創作であると推測されていますが、井伊家の出自に神聖なイメージを持たせて、その値打ちを高めるためだったのかもしれません。
ちなみに、表紋の橘は、日本固有の常緑樹であり、強い生命力の象徴で「家」の権威を示す表紋に取り入れられたのには、井伊家の永続という願いも込められていたのではないでしょうか。
井伊直虎
共保を始祖として、井伊谷を配下に収めていくことになった井伊家は、鎌倉時代になると幕府の御家人として仕えて遠江国の国人領主となり、その勢力を拡大していきます。
南北朝時代には、「井伊道政」(みちまさ)[行直(ゆきなお)の説もあり]が、「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)の第8皇子であったとされる「宗良親王」(むねよし/むねながしんのう)を、井伊谷城へ迎えて保護しました。その後、井伊家は「三岳城」(みたけじょう:現在の浜松市北区)を拠点に、宗良親王を奉じて、北朝方の「足利氏」(あしかがし)勢と戦います。しかし、南朝方が敗れ、井伊家の領地であった井伊谷の地を足利一門の「今川氏」(いまがわし)が支配することになりました。井伊家は、家臣として今川氏に仕えることになったのです。この当時の今川氏は、井伊家のことを外様のように扱って敵対視しており、戦になりかけたことも幾度となくあったのだとか。
そんな中、今川氏第11代当主「今川義元」(いまがわよしもと)の代になると、井伊家に和解が提案されます。それは、井伊家が今川氏への服従を誓うのであれば、三岳城をはじめとする、もともとの井伊家の領地を返還するという物でした。このときの井伊家の当主は第20代・直平(なおひら)。自身の娘を服従の証しとなる人質として、義元のもとへ差し出すことになったのです。いったんは義元の側室となった直平の娘は、その後、義元の養妹となり彼の重臣「関口親永」(せきぐちちかなが)と結婚。親永と直平の娘とのあいだには、のちに「徳川家康」の正室となった娘「築山殿」(つきやまどの)が生まれました。
つまり、井伊家と家康は将来的に親戚関係になる訳ですが、井伊家は家康のもとで大出世の道を歩むことになります。しかし、それまでに井伊家は数々の悲劇を乗り越えなければならなかったのです。それは、戦国時代から安土桃山時代にかけて、井伊家を支え続けた女領主「井伊直虎」(いいなおとら)の時代。直虎の父で第22代当主の「直盛」(なおもり)には男子がいなかったため、直盛の従兄弟で、直虎の許嫁(いいなずけ)でもあった「直親」(なおちか)が家督を継ぐ予定でした。
龍潭寺
しかし、1544年(天文13年)に直親の父・「直満」(なおみつ)が、その弟・「直義」(なおよし)と共に謀反の疑いをかけられ、今川義元によって殺されると、数えでまだ9歳であった直親にも殺害命令が出されたのです。そこで直親は、表向きは病死したということにされ、信濃国(しなののくに:現在の長野県)にある「松源寺」(しょうげんじ)にて身を隠すことになりました。このとき直虎は、直親が亡くなったと知らされていたため、井伊家の菩提寺であった寺(のちの「龍潭寺」[りょうたんじ])に出家して、「次郎法師」(じろうほうし)と名乗っています。
そして、1560年(永禄3年)、「織田信長」と今川義元が対立した「桶狭間の戦い」(おけはざまのたたかい)において義元が討たれました。これにより、直盛は他の義元の近習(きんじゅ:主君のそばで身のまわりの雑用などをする者)達と同様、追い腹(おいばら:主君が亡くなったあとを追って家臣などが切腹すること)を切って亡くなります。すでに信濃より井伊谷に戻っていた直親は、「奥山朝利」(おくやまともとし)の娘「ひよ」を娶って直盛の養子となっており、その跡を継いで第23代当主となりました。
しかし、1562年(永禄5年)に直親は、「今川氏真」(いまがわうじざね)の家老「小野道好[政次]」(おのみちよし[まさつぐ])の讒言(ざんげん)により、謀殺されてしまったのです。
さらに、その翌年には直虎の曽祖父にあたる直平までもが急死。井伊家の名を継ぐ男子は、直親が1561年(永禄4年)に、ひよとのあいだに儲けた、わずか2歳の「井伊虎松」(いいとらまつ)のみになりました。井伊家は、存続の危機に見舞われることとなったのです。
1565年(永禄8年)、龍潭寺の住職で井伊家の出身でもあった「南渓瑞聞」(なんけいずいもん)の取り計らいもあったことから、「虎松」の後見人となるため、還俗(げんぞく:出家して僧侶になった者が再び俗人に戻ること)した直虎。幼い虎松に成り代わり、今川氏真に命じられた「徳政令」(とくせいれい:売買や貸借などに関する債権や債務の契約を破棄させるために、朝廷や幕府が発した法令)の公布を、直虎の奔走により引き延ばすなど、井伊家の当主として優れた政治的手腕を発揮しています。
また、この当時は、徳川家康と「武田信玄」(たけだしんげん)による駿河(するが:現在の静岡県中部)・遠江侵攻が開始された時期。その戦火を免れるため、直虎は虎松を出家させ、三河国(みかわのくに:現在の愛知県東部)の「鳳来寺」(ほうらいじ)に身を隠させたのです。
掛川城
1568年(永禄11年)12月、家康は、氏真が逃げ込んで拠点としていた遠江「掛川城」(かけがわじょう:現在の静岡県掛川市)を包囲し、攻撃を開始。約半年にも及ぶ籠城戦の末、1569年(永禄12年)5月に、家康からの開城要求を氏真が受け入れ、両氏は和睦。遠江国は、徳川氏が領することになりました。これを、井伊家再興のチャンスと見た直虎と南渓瑞聞らは、虎松を家康に出仕させることを決断します。
1574年(天正2年)、虎松の生母・ひよを、家康の家臣であった「松下清景」(まつしたきよかげ)のもとへ再嫁させ、虎松を松下氏の養子に入れました。井伊虎松が「松下虎松」になったことで、井伊家は断絶。しかしこれは、将来の天下人となる家康と虎松を引き合わせるための画策だったのです。
浜松城
1575年(天正3年)、家康が初鷹野(はつたかの:1年のうちで初めて行なう鷹狩り)に出るタイミングを見計らい、その道中に虎松を控えさせ、家康との対面を果たしました。
眉目秀麗な虎松のことが目に留まった家康は、自身の居城であった「浜松城」(はままつじょう:現在の浜松市中区)に招き、彼の素性を尋ねます。すると、虎松の父親が自身と内通している嫌疑をかけられたことにより、殺害された直親であることが分かったのです。
そして、家康は「井伊直親の実子、取立不叶(とりたてずんばかなわじ:取り立てない訳にはいかない)」と、虎松のことを小姓(こしょう:貴人のそばに仕えて、身のまわりの世話などをした少年)として、召し抱えることにしました。さらには、虎松の井伊家への復帰を許して300石を与え、家康の幼名「竹千代」から「千代」の字を取り、虎松に「万千代」と名乗らせることにしたのです。こうして井伊家は、悲願の再興を叶えたのでした。
その後万千代は、1576年(天正4年)、「武田勝頼」(たけだかつより)との「芝原の戦い」(しばはらのたたかい)で初陣を飾ったのを皮切りに、「高天神城」(たかてんじんじょう:現在の掛川市)など16回にも上る戦に、先鋒軍として参陣。1582年(天正10年)、直虎が亡くなったことをきっかけに、万千代は22歳で元服し、「直政」と名乗ることに。当時の元服は、15~18歳ぐらいが普通であったため、かなり遅い年齢ということになります。
その理由は、実母同然の存在として、万千代はもちろんのこと、井伊家当主として困難を乗り越え、井伊谷の地も守り抜いた直虎に配慮したとも、優秀な万千代を家康が少しでも長くそばに置いておきたかったためともと言われているのです。
1582年(天正10年)、家康と主に「北条氏直」(ほうじょううじなお)が対立した「天正壬午の乱」(てんしょうじんごのらん)では、北条氏との折衝役となり、旧武田領の信濃国と甲斐国(かいのくに:現在の山梨県)を、徳川家の配下に組み入れることに成功。直政は、独自の「突き掛かり」戦法を用いて武勇をとどろかせていただけでなく、外交手腕にも長けていたのです。この功により、家康は直政の石高を4万石にまで加増。さらには、武田旧臣を直政に付与しただけでなく、武田氏の強さの象徴であった「赤備え」を装備させました。
そして、1590年(天正18年)、「豊臣秀吉」の天下統一の総仕上げとなった「小田原征伐」(おだわらせいばつ)ののち、秀吉の命による家康の「関東移封」(かんとういほう)に伴い、12万石を与えられた直政。これは、徳川家臣団の中で最高となる石高となり、外様出身であった直政が、名実共に徳川家の譜代筆頭として認められることになったのです。
この他にも直政は、1584年(天正12年)の「小牧・長久手の戦い」(こまき・ながくてのたたかい)や1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)などで目覚ましい活躍を見せ、順調に加増を重ねていきます。1601年(慶長6年)、直政は、近江「佐和山城」(さわやまじょう:現在の彦根市古沢町)へ18万石で入封し、佐和山藩主となりました。
しかし、翌年には関ヶ原の戦いで負った傷が原因となり、直政は亡くなります。その直前、近くの彦根山に「彦根城」(ひこねじょう:現在の彦根市金亀町)を築城し、藩庁を移す計画を立てていたことから、佐和山藩は彦根藩の前身と見なされ、直政についても彦根藩初代藩主と考えられているのです。
直政の没後、長男の直継[直勝](なおつぐ[なおかつ])がその跡を継ぎ、1603年(慶長8年)から彦根城の築城に着手。1614年(慶長19年)、直継は、病弱であったために「大坂冬の陣」に参加できなかったこともあり、徳川家康の命で井伊家の家督と彦根城を異母弟・直孝(なおたか)に譲ります。その一方で、直継は分家となる上野安中藩(こうずけあんなかはん)を創設。そのため、直継にも井伊家当主であった時代があるにもかかわらず、直孝が彦根藩第2代藩主に数えられているのです。
安政の大獄
井伊家は、直政が藩祖となってから幕末の直憲(なおのり)まで14代にもわたって、彦根藩を統治していました。その中で、江戸幕府の最高職であった大老に、井伊家からは直興(なおおき)、直幸[英](なおひで)、直亮(なおあき)、直弼(なおすけ)の4人が就いています。この4人の中で最も著名な人物と言えば、第13代藩主「井伊直弼」。直弼は、1858年(安政5年)、天皇の勅許を得ずに「日米修好通商条約」を締結。さらには、第13代将軍「徳川家定」(とくがわいえさだ)の「将軍継嗣問題」において、反対派を弾圧した「安政の大獄」を実行するなど、独裁者のイメージが強いかもしれません。
しかし、直弼は、第11代藩主・直中(なおなか)の14男として生まれたため、家督継承順位は下位のほうでした。本来であれば直弼は、井伊家当主の座に就く可能性は低く、幕政での実権を握ることは難しい立場にあったのです。
武家社会では、家督を相続できなかった男子は、跡継ぎのいない他の大名家の養子となることが通例。井伊家においても、直弼が生まれたときには、父・直中(なおなか)の隠居に伴い、兄・直亮がすでに第12代藩主となっていました。直弼よりも上の兄達も養子に出されていましたが、直弼にはそのような機会が訪れなかったため、井伊家に留まっていたのです。
1831年(天保2年)、直弼が17歳のときに直中が亡くなると、尾末町(おすえちょう)御屋敷に移り、捨扶持(すてぶち)300俵の部屋住みとなりました。この頃、直弼は「世の中を よそに見つつも埋れ木の 埋れておらむ 心なき身は」(世に出ることのない私は、土に埋れている木のようであるが、この無情な身の上でもまだ埋れてはいない)との和歌を詠んでいます。この歌から「埋木舎」(うもれぎのや)と名付けた屋敷で、世捨て人同然にひっそりと暮らしていた直弼。しかし、そのあいだには、国学や儒学といった学問を学び、剣術や柔術などの武術の修練を積みます。そして、和歌や能などの文化も嗜み、特に茶の湯では武家茶道の「石州流」(せきしゅうりゅう)において、新しい一派を確立する程の腕前の持ち主でした。
そんな直弼の埋木舎での生活に終止符が打たれたのは、1846年(弘化3年)、32歳のとき。直中の11男(=直弼の兄)で、直弼の兄・直亮の養子となったことで、その跡を継ぐはずだった直元(なおもと)が、家督相続前に亡くなったのです。そのため、井伊家に唯一残っていた直弼が直亮の養子に入るという形を取って、井伊家の後継者になることが決定しました。
1850年(嘉永3年)、直亮の死去に伴い彦根藩第14代藩主となった直弼。波乱の時代となった幕末において、幕府体制を安定させるために尽力していました。
しかし、安政の大獄によって幕府への反発が高まり、遂には、1860年(安政7年)、「尊皇攘夷派」(そんのうじょういは:天皇を尊び、外国勢力を排除する思想を持つ派閥)の水戸(みと:現在の茨城県北部)の脱藩浪士らによる暗殺事件「桜田門外の変」で、帰らぬ人となったのです。
「暴君」と評されることも多い直弼ですが、藩の蓄えであった15万両を領民に分配したり、藩士への教育に力を入れ、能力が高い人材は身分を問わず起用したりするなどの藩政改革を行なっています。安政の大獄で処刑された長州(ちょうしゅう:現在の山口県)藩士の「吉田松陰」(よしだしょういん)にも、「希代の名君」と称賛されたその善政ぶりは、現代の彦根の地においても語り継がれているのです。その土台となったのは、先の見えない埋木舎での日々でも腐ることなく、鍛錬を重ねて自分を高めていたことにあったのかもしれません。
思いがけない直弼の死は、彦根藩史上最大の危機を招きました。直弼には、正室とのあいだに子がいなかったのにもかかわらず、側室の子などを自身の後継者とする旨の届けを幕府に提出していなかったために、「後継者不在」となってしまったのです。
当時は、後継者がいないとなると、「改易」(かいえき)、すなわち「お家お取り潰し」の処分が科されてしまいます。それを回避するため彦根藩では、直弼が亡くなったことを隠して病床に臥していることを装いました。そしてそのあいだに、側室に生まれた男子の中で、最年長であった直憲を正式な後継者として届け出たのです。
こうして井伊家は、断絶を免れましたが、家督を継いだ直憲は、このときわずか13歳。かつての彦根藩の家老でありながら、尊皇攘夷派の立場であったために、直弼から罷免されていた「岡本半介」(おかもとはんすけ)が直憲に仕え、藩政において指揮を執ります。井伊家が失った幕府からの信頼を回復させるため、尊皇攘夷派と「佐幕派」(さばくは:江戸幕府を助け、その存続を支持した派閥)が対立した「天狗党の乱」や「禁門の変」に幕府側として出兵。しかし、生前の直弼の圧政が混乱を招いたとして、30万石の領地のうち10万石の減封という処罰を受けるなど冷遇されたことで、彦根藩は譜代筆頭でありながら、徐々に幕府から離れていくことになるのです。
徳川慶喜
1867年(慶応3年)、第15代将軍「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)が、「大政奉還」(たいせいほうかん:幕府が朝廷に政権を返上した政治的な出来事)を行ないます。この頃の彦根藩は、以前から慶喜との結び付きを重要視してきた半介と、「新政府」(=明治政府)側に付くべきだと主張する「大東義徹」(おおひがしぎてつ)ら下級藩士達が2分している状態で、1868年(慶応4年/明治元年)に新政府軍と旧幕府軍のあいだで勃発した「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)の前哨戦「鳥羽・伏見の戦い」(とば・ふしみのたたかい)では、半介は旧幕府軍に追随し、慶喜のいる「大坂城」に赴きますが、藩兵のほとんどが新政府側へ与します。
その後の戊辰戦争での彦根藩は、新政府軍へ完全に加入。旧幕府軍を構成していた組織「新撰組」(しんせんぐみ)の局長である「近藤勇」(こんどういさみ)を捕らえるなど武功を積み、賞典禄としては破格の2万石を朝廷より賜りました。
そして、1869年(明治2年)の「版籍奉還」(はんせきほうかん:全国の藩主が、領地と人民を天皇に返還した政策)によって直憲が彦根知藩事となり、下級藩士達の積極登用など藩政改革に取り掛かります。しかし、1871年(明治4年)の「廃藩置県」(はいはんちけん)に伴い、直憲は知藩事を解任され、約270年にわたる彦根藩の歴史にも幕が下ろされたのです。
1884年(明治17年)の「華族令」(かぞくれい)により、直憲は、5爵位のうちの第3位である「伯爵」(はくしゃく)に列せられました。そして、彼の孫・直愛(なおよし)は、1953年(昭和28年)に彦根市長となり、以降9期にわたる任期を務め上げたのです。それから2018年(平成30年)現在に至るまで、井伊家は存続しています。何度もお家断絶の危機に直面しながらも、それらを乗り越えられてきたのは、井伊家の歴代の当主達が常に先を見据え、何としてでも「家」を守りたいとの一心で力を尽くしてきたからこそ。そのような思いは、井伊家に伝来していた日本刀に通じています。
幕末の井伊家では、約600振もの刀剣を所蔵していたと伝わっていますが、1923年(大正12年)の関東大震災での罹災、第2次世界大戦中の供出、そして戦後のGHQによる没収などによって、その多くが失われました。そんな中でも、焼身の状態のまま大切に保管されてきた物などが現代にも残されており、その数は約200振にも上っているのです。そんな井伊家伝来の日本刀のひとつに、弘行(ひろゆき)があります。鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した、筑前国(ちくぜんのくに:現在の福岡県西部)在住の日本刀の刀工「左文字」(さもんじ)一門のひとり。
左文字の師は、相模国(さがみのくに・現在の神奈川県の大部分)で「相州伝」(そうしゅうでん)を完成させた日本刀の名工「正宗」(まさむね)。左文字は、その10人の高弟「正宗十哲」(まさむねじってつ)に数えられていました。
刀 (金粉銘) 弘行琳雅(花押)
銘 | 鑑定区分 | 刃長 | 所蔵・伝来 |
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表:弘行 裏:琳雅(花押) |
特別重要刀剣 | 70.0cm | 刀剣ワールド財団 〔 東建コーポレーション 〕 |
相州伝の流れを汲む左文字は、他の九州鍛冶とは異なり、身幅が広く反りの浅い豪壮な日本刀の姿が特徴で、弘行にもそれがよく示されています。日本刀の刀工である弘行が、「五箇伝」(ごかでん)の中で最も難しいと言われる相州伝の真髄を理解し、師の作風をよく受け継いでいることが窺える逸品です。