日本刀コラム

日本刀彫刻に宿る神

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武器として使われていた歴史がありながらも、美術品にまでその価値が高められてきた刀剣。その美しさは、磨き上げられたことによるのはもちろんのこと、刀身に施されている「彫刻」からも醸し出される物があります。「刀身彫刻」は一見すると、単なる装飾だと思われがちですが、いろいろな種類があり、そこに込められた意味も様々です。また刀剣は、「神具」としても用いられており、「古事記」や「日本書紀」を始めとする古来の文献にも登場。ここでは、それらを知ることで、作刀当時の彫師(ほりし)や刀匠(とうしょう)、そして刀剣所持者が、刀剣そのものに見出していた価値、及び刀剣にまつわる神々の逸話についてご紹介します。

装飾以外にもあった刀身彫刻の役割とは!?

始まりは実用性をかねた創意工夫

樋

「刀身彫刻」の始まりは、古墳~奈良時代(3世紀中頃~794年)に主流であった「直刀」(ちょくとう)から行なわれていたことが分かっています。平安時代(794~1185年)の中頃になると「湾刀」(わんとう)が出現し、戦闘様式の変化と共に刀剣の存在が武士にとって身近な物になり、より広く普及・流行するようになりました。

刀身彫刻専門の職人もいましたが、腕に覚えがある刀匠は、「彫同作」(ほりどうさく)、または「同作彫之」(どうさくこれをほる)などと銘を切り、自身で彫っていたと考えられています。

鎌倉時代(1185~1333年)の中期頃に幅広の「太刀」(たち)が現れましたが、そこで問題となったのが刀身の重量の増加。日本刀を操作する利便性を考えると、その軽量化は必要不可欠です。しかし、重量を軽くしたいがために、刀身をただ削ってしまうだけでは、幅広にしたことでせっかく高まった強度が減少してしまいます。

【樋】刀 無銘 貞宗

【樋】
刀 無銘 貞宗

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このような矛盾を解決するために考案された工夫が、刀身彫刻の中でも最も多く見られる「樋」(ひ)と呼ばれる物。

刀身の刃と「棟」(むね:刃の反対側)の間にある稜線のことを「鎬」(しのぎ)と言い、樋は、鎬と棟の間にある「鎬地」(しのぎじ)に比較的深く彫り込まれた溝のことです。

刀身の樋には、斬り付けたときに刃筋方向に加わる力を吸収し、衝撃が緩和されることで刀身が曲がりにくくなるという効果があります。

すなわち、刀身彫刻の一種である樋は、刀の強靭さを減少させることなく軽量化を図るための、実用面での創意工夫だったと言えるのです。

実用性重視から「祈り」を込めた彫刻へ

樋には、その形状や位置により様々な名称が付けられ、幅や太さ等に彫師の癖や個性が表れると考えられています。

その中でも一般的な物は、鎬地全体に太くて深い溝が1本だけ彫られている「棒樋」(ぼうひ)で、棒樋に並んでもう1本細い溝が添えられている物を「添樋」(そえひ)、棒樋の先端が細く尖るように仕立てられ、菖蒲(しょうぶ)の葉のようになっている物を「菖蒲樋」(しょうぶひ)と呼んでいます。

これらは実用性を重視して彫られていた樋でしたが、鎌倉時代末期になると、ある信仰の対象を表現した「二筋樋」(ふたすじひ)という同じ太さの樋が2本並んで彫られた物が見られるようになります。この樋に関連する宗教は、平安時代にインドから伝わった、大乗仏教の秘密の教えである「密教」(みっきょう)でした。

二筋樋は、その修法(しゅほう:災難や病気をはらうために行なわれる密教での祈祷の儀式)に用いられる 「護摩箸」(ごまばし)を表現しており、密教の本尊「大日如来」(だいにちにょらい)の化身である「不動明王」(ふどうみょうおう)が変形した物であると考えられています。

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密教の流行と刀身彫刻の関係

二筋樋を始めとする密教関連の物が日本刀に彫られるようになった背景は、武士と刀の役割を考えると見えてきます。

不動明王を表す刀身彫刻の例

不動明王を表す刀身彫刻の例

当時の武士にとっては、日本刀は敵を倒すための武器であると同時に、自らの命を守るための物でもありました。そのため、どんなに強い武士であっても刀に精神的な拠り所を求めるのは自然なことだと言えます。

また、「現世利益」(げんぜりやく:この世に生きている間に与えられる仏の恵み)と言う密教の教えが、武士が求める生き方に即した考え方であったことから、彼らの間で流行するようになりました。このような理由により、刀身彫刻に加護の祈りを込めるようになり、密教的な色合いの濃い物が増えていったのです。

【梵字】刀 銘 越前国住兼法 慶長五年三月日

【梵字】
刀 銘 越前国住兼法 慶長五年三月日

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密教がテーマとなった刀身彫刻の種類にはいくつかありますが、その中でも最も古い物とされているのが「梵字」(ぼんじ)です。

インドで万物を創造したとされる仏教の守護神「梵天」(ぼんてん)が作った文字で、刀身彫刻における梵字の多くは、神仏の名称を表現した図柄になっています。

また、密教の不動明王は、現代でも「お不動さん」と呼ばれて庶民に親しまれていますが、平安時代には貴族が私的な利益を追求するための信仰対象でした。

【素剣】短刀 銘 光包 延慶二年二月日

【素剣】
短刀 銘 光包 延慶二年二月日

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そして、鎌倉時代には諸願成就や蓄財、厄除けなどの功徳があるとされ、武士が好んで信仰するようになったため、刀身彫刻には不動明王が様々な形で描かれています。

その中には、簡潔なデザインで描かれた不動明王の化身である「素剣」(すけん)や、不動明王の変化神の一種である「倶利伽羅龍」(くりからりゅう)などが見られるのです。

倶利伽羅龍は、龍が剣に巻き付きながらこれを飲み込もうとしている様子の図柄で、龍が仏法、剣が外道(げどう:仏教以外の教えやそれを信じる人)を表し、仏法が外道に勝利するさまが描かれた物です。

書道で「真書」(楷書)、「行書」、「草書」と順に書体を崩していくように、あらゆる物事の表現には「真行草」(しんぎょうそう)の考え方が用いられ、刀身彫刻においては、この倶利伽羅龍に真行草の顕著な例が多く見られます。

倶利伽羅龍 真行草三体

倶利伽羅龍 真行草三体

装飾性が高い彫刻は「太平の世」だからこその表現方法

鎌倉時代後半になると、倶利伽羅龍や不動明王などの図柄は、最も略体化された草体から行体を経て真体へと複雑化し、図柄のデザインだけではなくその技法も、「透かし彫り」(刀身の表面に図柄を肉高く彫り込み、そのまわりをくり抜く技法)のような、高度な技術を必要とする物が取り入れられるようになり、表現の幅が徐々に広がっていきました。

江戸時代の刀身彫刻の例

江戸時代の刀身彫刻の例

江戸時代(1603~1868年)に入って戦乱が治まり、いわゆる太平の世である安定した時代が訪れると、日本刀に命をかけて戦ってきた武士が官僚化します。

そして、実戦の機会が少なくなってきたことに伴い刀の武器としての役割がなくなると、刀身彫刻に込められる密教の信仰性は薄れていき、その代わりに美術品としての価値が見出され、より高い装飾性が求められるようになったのです。

【玉追龍】短刀 銘 山城国西陣住人埋忠明寿 慶長拾三年三月吉日 所持熊谷清六

【玉追龍】
短刀 銘 山城国西陣住人埋忠明寿
慶長拾三年三月吉日 所持熊谷清六

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刀身彫刻の装飾性が増したことが分かる物には、「玉追龍」(たまおいりゅう)のような立身出世を祈願する文様や、松竹梅や七福神の布袋様といった縁起物の文様などがあり、それまでと比べて、より華やかでバラエティに富んだ図柄が彫られるようになりました。

また、刀身彫刻の変化には、学問も大いに影響しています。江戸時代初期における学問の主流は、中国の思想家「孔子」(こうし)の教えを究める「儒学」(じゅがく)でしたが、江戸時代後期になると、日本の古典を研究することで日本古来の思想や精神を説く「国学」(こくがく)が盛んになり、日本人が日本人であることを強く意識する気運が高まりました。

これによる「復古思想」(ふっこしそう:過去を良い時代だったと捉え、戻ろうとする考え)のもとに、刀身彫刻では、万葉集を出典とした和歌などの「文字彫り」(もじぼり)や、桜花といった図柄が施されるようになったのです。

「草薙剣」と「天羽々斬」

八岐大蛇の退治

八岐大蛇の退治

日本人は、神々に由来した刀身彫刻を彫ることで、信仰心を表してきました。また、古来より刀剣を神話に登場させることで、刀剣自身に神々への想いを込めてきたのです。

「古事記」や「日本書紀」を始めとする古来の文献に登場する、草薙剣(くさなぎのつるぎ)と天羽々斬(あめのはばきり)は、「素戔嗚尊」(スサノオ)による「八岐大蛇」(ヤマタノオロチ)の退治に登場する刀剣。その神話は、以下のような内容です。

スサノオは、出雲国(島根県)で、奇稲田姫(くしいなだひめ)を囲んで泣いている老父の脚摩乳(あしなづち)と、老母の手摩乳(てなづち)を見かけました。奇稲田姫らが泣いていた理由は、ヤマタノオロチと言う8つの頭を持つ巨大な怪物でした。脚摩乳と手摩乳には8人の娘がいましたが、そのうち7人は、すでに毎年やってくるヤマタノオロチにひとりずつ食べられており、今年はついに末の娘である奇稲田姫まで食べられてしまうので泣いていた、と言うのです。それを聞き、スサノオは奇稲田姫を奥さんにする代わりに、ヤマタノオロチを退治することを提案。その提案を聞いた3人は、スサノオに協力することにしました。

まずスサノオは、奥さんとなった奇稲田姫の身を守るために、彼女を櫛の形に変えると、それを自分の髪に挿しました。そして脚摩乳と手摩乳に、家の周囲に垣根と8つの門を造り、それぞれの門に強い酒を桶に入れて大量に準備するように指示しました。

そして、ヤマタノオロチがやってきました。ヤマタノオロチは酒が置いてある門それぞれに8つの頭を突っ込み、大量に酒を飲んで酔っ払い、眠ってしまいます。そこで、スサノオは眠ったヤマタノオロチの体を切り刻み、ヤマタノオロチを退治しました。このときに用いた刀剣が天羽々斬です。この際、ヤマタノオロチの尻尾から草薙剣が出てきたとされています。

さらに、天羽々斬は鋒/切先が欠けていると言われており、これはヤマタノオロチの身体を切り刻む際に、草薙剣に当たったからだという伝承による物です。

日本の剣~神剣・鉄剣~の紹介動画

日本の剣~神剣・鉄剣~

日本刀から生まれた神々

伊邪那岐命と迦具土神

伊邪那岐命と迦具土神

古事記によると、様々な神様が刀剣より生まれています。そのひとつとして、刀剣に滴った血から神が生まれた話があります。

伊邪那岐命(イザナギノミコト)の妻である伊邪那美命(イザナミノミコト)は、迦具土神(カグツチノカミ)を生んだ際に火傷を負い、それがもとで亡くなってしまいます。これを嘆き、怒ったイザナギノミコトは十束剣(とつかのつるぎ)でカグツチノカミを斬り刻みました。すると、その刀剣に付いた血が岩の上を流れ、石折神(イワサクノカミ)、根折神(ネサクノカミ)、石筒之男神(イワツツオノカミ)の3柱の神様が生まれました。

次に、鍔から流れた血から甕速日神(ミカハヤヒノカミ)と、樋速日神(ヒハヤヒノカミ)、建御雷之男神(タケミカヅチノオノカミ)の3柱の神が誕生。さらに、に溜まった血が指の間から流れ落ち、闇淤加美神(クラオカミノカミ)と闇御津羽神(クラミツハノカミ)の2柱の神が生まれました。

つまり、カグツチノカミを刀剣で斬っただけで、8柱の神様が誕生したのです。また、斬り刻まれたカグツチノカミからも、新たに8柱の神が別に生まれています。

刀鍛冶の神様

多度大社別宮 一目連神社

多度大社別宮 一目連神社

「天目一箇神」(あめのまひとつのかみ)は、「古語拾遺」(こごしゅうい)や日本書紀などに登場する製鉄・鍛冶の神様です。この神様は、岩戸隠れの際に刀斧や鉄鐸を作ったとされており、このことから、刀鍛冶の神様として三重県桑名市にある多度大社の別宮などに祭られています。

名前にもある目一箇(まひとつ)とは、ひとつ目という意味です。ひとつ目の神である理由は諸説ありますが、ひとつは鍛冶が温度を見るときに片目をつぶっていたことによると言われています。興味深いことに、ギリシア神話に登場する「キュクロプス」という神様も鍛冶の神様であり、ひとつ目であるという不思議な共通点があるのです。

多度大社と刀鍛冶の神様多度大社と刀鍛冶の神様
多度大社と刀剣のかかわりについて、ご紹介します。

まとめ~日本刀に込められた想い~

実用的な役割を経て、刀剣を美術品たらしめる要素のひとつとなった刀身彫刻。

同じモチーフの彫刻であっても、彫師の流派や個性までが分かるほど、彫りの深さや位置などによって違いがあり、また時代によってもそこから醸し出される雰囲気や趣が異なります。

それらには、同時代に創られた絵画や蒔絵といった、刀身彫刻以外の日本の美術品にも共通しているところがあり、併せて学んでみると、刀身彫刻をより深く知ることができます。

日本刀の主役はあくまで刀身であるため、刀身彫刻は刀身の邪魔をせず、主張しすぎない存在であることが大切です。彫師や刀匠は、そのような図柄のデザインを熟考するのみならず、刀身というキャンバスに、制作依頼者が刀に託した想いまでをも描いてきました。

刀身彫刻の図柄がそれぞれに持つ意味を知ることで、それらを感じ取ることもまた、刀剣鑑賞における醍醐味のひとつだと言えるのです。

また、古来より日本人は、刀剣に神々との強いかかわりを持たせてきました。これにより、日本人は精神的な拠り所を刀剣に求めていたと考えられるのです。

日本刀彫刻に宿る神

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