「美術品」として価値が高い刀剣。現代に受け継がれるまで、様々な「格付け」(価値付け)が行なわれ、大切に扱われてきました。例えば、将軍や天皇が所持した宝物としては「御物」(ぎょぶつ)の格付け、よく斬れる「武器」としては「業物」の格付けなど。これにより刀剣の能力の高さと信用が保たれ、土地に代わる「恩賞」にもなったのです。ここでは、刀剣の格付けと歴史について、詳しくご紹介します。
代表的な御物の例
「御物」(ぎょぶつ)とは、天皇家に伝承された、皇室の私有品のことです。刀剣、絵画、書跡など、宮内庁の御物台帳に登録されている物すべて。
御物の始まりは、室町時代。1465年(寛正6年)、足利将軍家の所有物に対して呼ばれたことが「親元日記」という書物に登場します。
第二次世界大戦後は、日本国憲法第88条の規定に基づき、皇室の資産「正倉院宝物」や「法隆寺御物」、「帝室博物館」(現:国立博物館)の所蔵品は原則として国有財産となりましたが、日本国憲法下においても、皇室伝来の美術品等は引き続き御物と呼ばれ、宮内庁侍従職が管理していました。
1989年(昭和64年)1月7日に昭和天皇が崩御すると、相続に伴い、残された美術品類が国有財産と皇室の私有財産に区分けされることに。これにより、新たに絵画、工芸品等の美術品類約3,180件(約6,000点)が、1989年(平成元年)6月、皇室より国に寄贈されました。こちらは、宮内庁所轄の「三の丸尚蔵館」(さんのまるしょうぞうかん)に保管されています。
御物から国に移された刀剣は、「若狭正宗」や「浮田志津」などが挙げられます。また御物は、慣例的に「文化財保護法」による指定の対象外となっており、国宝や重要文化財などには指定されていません。
御物の中でも有名な刀剣として、以下の物などがあります。
北条時政を苦しめていた小鬼をこの刀剣が討ち取り、時政を助けたという逸話がある。
現在、御物は東京御所内の「山里御文庫」、京都の「東山御文庫」に保管されています。残念ながら御物は常に閲覧できる訳ではありません。「東京国立博物館」、「奈良国立博物館」、「京都国立博物館」、「九州国立博物館」などの特定の博物館や美術館にて、不定期に公開される物なので、各ホームページで展示案内をチェックしましょう。
2009年(平成21年)11月12~29日には、東京国立博物館で「皇室の名宝~日本美の花」の展示が行なわれ、刀剣では先程ご紹介した「鶴丸国永」、「平野藤四郎」、「道誉一文字」が公開されました。
また、旧御物は「正倉院御物」や「東山御物=室町・足利将軍家の御物」という名前の展覧会や、東京の皇居東御苑内にある三の丸尚蔵館にて不定期に閲覧することができます。こちらを検索キーワードとして、常に確認すると良いでしょう。
折紙
「折紙」(おりがみ)とは、「刀剣鑑定証明書」のこと。刀剣に対する価値を証明しており、公文書や贈答目録に使用する証明書のことを言います。形体は、文字通り、1枚の紙の片面に文字を記し、それを2つ折りにした物。
刀剣の銘・寸法・特徴・代付(価格)・年月日・鑑定者の氏名が必ず記され、折紙の裏に「本」という角印が押されているのが正式な折紙です。
折紙の始まりは、1596年(慶長元年)頃。豊臣秀吉が「本阿弥光徳」(ほんあみこうとく)を「刀剣極所」(とうけんきわめどころ)に任命し、本という角印を授け、刀剣を鑑定してその価値を折紙に書いて発行することを許可したと言われています。この刀剣極所は明治時代まで本阿弥家が代々継承。
また、小柄(こづか)・笄(こうがい)・目貫(めぬき)等の「刀装極所」としては「後藤祐乗」(ごとうゆうじょう)が任命され、刀剣と同様に折紙を発行し、代々後藤家に受け継がれました。
ちなみに、「折紙付き」という言葉は、この折紙が語源。折紙付きの刀剣は信用性が高く、相場も安定しているため、資産価値が高いのです。金5両(現在の価値で50万円)以上の代物でないと、折紙が発行されなかったことから、「間違いのないしっかりとした品質の物や人」に対して、折紙付きという言葉が使われるようになりました。
秀吉が折紙を発行させたねらいは、真偽を定めるためというよりも、その刀剣に対する「価値付け」でした。
秀吉が天下を統一する前、織田信長は天下を平定したあと、恩賞として家臣に授ける土地がなくなることを懸念。封建制のもとでは、土地が最大の報酬で、与える物がなくなれば家臣に見限られてしまいます。
そこで信長は、茶道具に着目。「千利休」と共にその価値を高め、恩賞とすることを考案したのです。まず、茶道をたしなむには、信長の許可を必要とします。次に、業績を上げた家臣だけを特別に茶会に招き、さらに優れた家臣には、褒美として茶道具を与えるのです。つまり、業績を上げないと茶会には出席できず、茶道具を頂戴できないシステム。この妙案は見事に功を奏し、信長の家臣はこぞって茶道具を所望しました。
これをヒントに、天下人となった秀吉は、土地の代わりに刀剣を恩賞としたと考えられます。白羽の矢が立ったのが、本阿弥光徳。本阿弥家は、始祖「本阿弥妙本」(ほんあみみょうほん)が室町幕府初代将軍・足利尊氏に仕えた時代から、刀剣の研磨・手入れ・鑑定を生業としていました。代々将軍家の刀剣の諸事を司っていた本阿弥家の折紙だからこそ、信用性が高いのです。
折紙で一番肝心なのが、記入された代付(価格)。これは実際の売買価格ではなく、価値を表す指標が書かれました。例えば、「相州貞宗」の刀剣は、大判50枚(現在の価値で5,000万円)、「長船長光」の刀剣は大判35枚(現在の価値で3,500万円)など。秀吉は、その折紙付きの刀剣を恩賞として与えます。そこに書かれた代付は、土地に匹敵するほど高価で、家臣も満足する物となりました。
ちなみに、茶道具を褒美にすることについては、秀吉は失敗。信長の死後、4年間は千利休と良好な関係が続きますが、1587年(天正15年)「北野大茶会」後に関係が決裂します。それは、千利休が茶道を特権階級ではなく大衆化したいと考えたからです。これは、秀吉の政治とは真逆の思想でした。そして、ついに利休は1591年(天正19年)、切腹へと追い込まれたのです。
※千利休の切腹の理由は諸説あります。
鑑定書
民主主義になった現在では、折紙は必要なく、発行されていません。しかし、折紙に代わる物として、刀剣を鑑定する「鑑定書」が現在でも発行されています。
信頼できる物が、「日本美術刀剣保存協会」の鑑定書。日本美術刀剣保存協会は、1948年(昭和23年)に設立された公益財団法人です。刀剣・刀装・刀装具を審査し、その結果、「保存」・「特別保存」と見なされた刀剣には鑑定書が、「重要」・「特別重要」と見なされた刀剣には「指定書」と「図譜」が交付されます。
どちらも、刀剣の銘・寸法・特徴・鑑定結果・年月日・鑑定機関名・押印がなされた物。代付(価格)の記載はなく、専ら「真偽を定める」ことを目的としています。
実は、信長・秀吉の時代は、主従関係が強く信頼関係が厚かったため、偽物を与えることは有り得ず、真偽を定める必要はありませんでした。ところが現代では、信頼関係を築くのは難しいことで、市場で偽物が多く出まわっています。
戦はなくなり、恩賞としての折紙は必要のない物となりました。しかし、自分の資産を守るため、品物の真偽を確かめてもらう鑑定書が必要に。信長・秀吉も想定外の、安心できない世の中になってしまったようです。
11代光温によって、寛永16年(1639年)卯年の8月3日に、備州国宗と極められ、金5枚と代付けされました。
本阿弥光温(11代)折紙 無銘 伝国宗
12代光常によって、元禄8年(1695年)戌年の3月3日に、金象嵌銘 備前国兼光は正真と認められ、700貫と代付けされました。
本阿弥光常(12代)折紙 金象嵌銘 兼光
12代光常によって、元禄7年(1694年)戌年の7月3日に、二字国俊と極められ、500貫と代付けされました。
本阿弥光常(12代)折紙 無銘 伝二字国俊
13代光忠によって、享保2年(1717年)酉年の4月3日に、左吉弘と極められ、金35枚と代付けされました。
本阿弥光忠(13代)折紙 銘 吉弘
13代光忠によって、正徳3年(1713年)酉年の7月3日に、備前國倫光と極められ、金15枚と代付けされました。
本阿弥光忠(13代)折紙 無銘 伝倫光
14代光勇によって、享保19年(1734年)寅年の10月3日に、中嶋来と極められ、金20枚と代付けされました。
本阿弥光勇(14代)折紙 無銘 中島来
本阿弥光温(1603~1667年)
ほんあみこうおん
本阿弥宗家11代当主。10代・光室の長男。「光温押形」の著者です。
本阿弥光常(1642~1710年)
ほんあみこうじょう
本阿弥宗家12代当主。「元禄折紙」で知られます。
本阿弥光忠(不明~1725年)
ほんあみこうちゅう
本阿弥宗家13代当主。12代・光常へ養子に入る。「享保名物帳」をまとめ、八代将軍徳川吉宗へ献上しました。
本阿弥光勇(1703~1760年)
ほんあみこうゆう
本阿弥宗家14代当主。享保12年6月から宝暦10年弥生までの折紙が存在します。
「本阿弥家留帳」(ほんあみけとめちょう)は、本阿弥家で鑑定された刀剣を記録した台帳のこと。
1596年(慶長元年)から1854年(嘉永7年/安政元年)の間に、約380冊の和綴じ本が制作されました。
刀剣ワールド所蔵/倫光折紙留帳之冩
鑑定の都度、留帳に記載していたわけではなく、1振ずつ書き留めておいて、あとで何年分かまとめて記入していたと言われています。
はじめの頃は「所有者」、「銘」、「代付け」(価格)など、至って簡単な内容が記載されていました。記録が詳細に書かれるようになるのは、1624年(寛永元年)頃からです。前出の内容に加えて、「疵[きず]の有無や場所」、「刀身の長さや反り」、「姿の特徴」、「伝来」などが書き加えられるようになり、以前も鑑定したことのある刀剣を再鑑定した際には、前回記録した銘の横に棒線を引いて、代付けを消しました。
なお、1854年(嘉永7年/安政元年)からあとの留帳はありません。その理由は、記入する前に明治維新を迎えたためです。本阿弥家は、江戸幕府の終焉と共に収入源を失って、明治時代初頭に借金を抱えていました。留帳はこのときに手放されて、近所の質屋に預けられます。そののち、1923年(大正12年)に起きた関東大震災の折に、すべて焼失。
現在、博物館などに展示されている留帳は、雑誌に掲載されていた分や、部分的な写本などがほとんどで、刀剣ワールド財団が所蔵する「伝倫光」の「倫光折紙留帳之冩」(ともみつおりがみとめちょうのうつし)も、1919年(大正8年)に「本阿弥琳雅」(ほんあみりんが)によって書かれた写しです。本歌の留帳の内容が丁寧に記載されており、また折紙の由来なども描かれてあるため、資料的に非常に価値が高い写しと言えます。
「号」(ごう)とは、刀剣の「ニックネーム」のこと。号という言葉を辞書で引くと「文筆家や画家が本名の他に付ける名前」と記載されています。茎(なかご)に記された「銘」を刀剣の本名とするならば、刀剣の号は、記載がない他の名前「愛称」のことです。刀剣の形状や、刀剣にまつわる物語、所有者の名前をもとに付けられ、呼び伝えられました。
一方「名物」(めいぶつ)とは、享保名物帳に収載された刀剣のこと。これは、1719年(享保4年)、徳川幕府8代将軍「吉宗」が「本阿弥光忠」に命じて、諸国に散らばる諸大名が収蔵する名刀を報告させ、まとめた物です。
吉宗は幕政を改革するために武道を奨励し、刀剣の価値を高めようと、名刀を名物として享保名物帳を編纂。名物には、姿が優れていることはもちろん、刀剣にまつわる物語、異名がある物が選定されました。つまり、優れた号を持つ刀剣が、名物として収載されたのです。
「日本書紀」によると、初めて号が付けられたのは、なんと神話の時代。それは、天皇の皇位のしるし「三種の神器」のひとつである刀剣に対してです。この刀剣は、「天叢雲剣」(あめのむらくものつるぎ)、別名「草薙の剣」(くさなぎのつるぎ)。「スサノオノミコト」(日本神話の神。天照大神の弟)が、出雲国(現在の島根県)で、「八岐大蛇」(やまたのおろち)を退治したときに、その尾の中から出たとされています。
頭が8つある大蛇の化け物の頭上に、常に雲が帯びていたことから、スサノオノミコトが天叢雲剣という号を付けたのです。また、同じ刀剣を景行天皇の皇子である「日本武尊」(やまとたけるのみこと)が倭姫命(やまとひめのみこと)から賜り、東国征討の際に敵が放火した草をなぎ払って難を逃れたことから、草薙の剣という別号を付けたと言われています。
その他にも、三吉宗三が所有した「宗三左文字」、上杉謙信が所有した「謙信景光」のように、所持者の名前が付けられた号も数多く存在。このように刀剣には、物語や愛着がこめられて、たくさんの号が付けられているのです。
天叢雲剣
名刀は室町時代から、特に意識されるようになりました。
室町幕府8代将軍・足利義政が集めた名刀は、「東山御物」と呼ばれるように。また織田信長は倒幕の際、この東山御物を戦利品として押収し、恩賞として家臣に分け与えました。それを豊臣秀吉が召し集め、「太閤御物」としたのです。ちなみに太閤御物は、秀吉臨終の際に多くが大名家に形見分けされ、残りは「大坂冬の陣・夏の陣」で焼失してしまいます。
享保名物帳に収載された刀剣は、上巻で68振。下巻は100振、加えて焼失の刀剣も81振掲載。のちに追加で25振が加わり、全274振が収載されています。
特に、「藤四郎吉光」作の刀剣は全34振(16振・焼失18振)、「五郎入道正宗」作の刀剣は全59振(41振・焼失18振)、「郷義弘」作の刀剣は全22振(11振・焼失11振)が収載され、これらは「名物三作」と呼ばれました。
名物の中でも面白い号を持つ物は、以下の通りです。
冗談で切る真似をしただけで相手の骨が砕けてしまう、また、切られたときに骨が砕かれたかのように痛むという逸話を持つことから名付けられました。
1657年(明暦3年)の「明暦の大火」で焼失しましたが、焼き直され、現在は重要文化財です。
渡し船に乗船していたお客同士が喧嘩になり、ひとりが斬られて泳いで岸に向かったところ、岸に着いた途端に体が真っ二つに割れたという逸話があります。
後世の所有者が、銘に「波およき末代剣 兼光也」と金象嵌(きんぞうがん)で号を入れた珍しい作品です。大磨上無銘。
波遊兼光
刀工 | 刃長 | 時代 |
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備前長船兼光 | 64.8cm | 南北朝時代 |
主な所有者・伝来 | ||
上杉家 → 豊臣秀次 → 豊臣秀吉 → 小早川秀秋 → 松平忠輝(徳川家康の6男)→ 立花宗茂(筑後柳川城主) → 個人 |
号の由来は、五月雨の頃、本阿弥家が郷義弘作と決めたからです。
また、刃の輝きがまるで五月雨が降っているように霞がかかり美しかったからとも言われていますが、実は「本阿弥光甫」がサビ防止のため、油を引き過ぎてかすんで見えただけ、というオチがあります。大磨上無銘。
足利将軍家が所蔵していた頃、研ぎに出そうと立てかけたときに、誤って猫が触れてしまい、真っ二つに切れてしまいました。これを見た人が、中国に「南泉斬猫」という故事があったことを思い出して付けた名前です。大磨上無銘。
業物の中で最上級と格付けされているのが、最上大業物と呼ばれる15工。しかし、享保名物帳に、特に優れた「名物三作」として記載のある「相州正宗」、「郷義弘」、「粟田口藤四郎吉光」などの古刀は最上大業物に含まれていません。
その理由は諸説ありますが、江戸幕府8代将軍・徳川吉宗が定めた名物を格付けすることを避けたのか、あるいは慶長以前に作られた古刀のうち、これらの名物は、この時代には国宝級の価値があり、大名家などの家宝となっていたため、試し切りをすることが難しかった、などと言われています。
刀工名 | 時代分類(制作国) |
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長船秀光 | 古刀(備前:現在の岡山県) |
三原正家(初代 三原正家) | 古刀(備後:現在の広島県) |
長船元重 | 古刀(備前) |
兼元(初代 兼元) | 古刀(関:現在の岐阜県) |
孫六兼元(2代目 兼元) | 古刀(関) |
和泉守兼定(2代目 兼定) | 古刀(関) |
長船兼光 | 古刀(備前) |
長曽祢興里(初代 虎徹) | 新刀(江戸:現在の東京都) |
長曽祢興正(2代目 虎徹) | 新刀(江戸) |
仙台国包 (初代 国包) | 新刀(仙台) |
ソボロ助広(初代 助広) | 新刀(摂津大坂:現在の大阪府) |
肥前忠吉(初代 肥前忠吉) | 新刀(肥前:現在の佐賀県) |
陸奥守忠吉(3代目 肥前忠吉) | 新刀(肥前) |
多々良長幸 | 新刀(摂津大坂) |
三善長道(初代 長道) | 新刀(会津:現在の福島県) |
江戸時代に幕府の「御様御用」(おためしごよう:刀剣の試し斬り役)を務めた一族の世襲名。5代吉睦(よしむつ)がよく知られ、吉睦の選定結果から業物がランク付けされ、懐宝剣尺・古今鍛冶備考が著されました。
御様御用の試し斬り
もともと、御様御用の役目を果たしていたのは山野家です。その祖とされる山野永久の子・勘十郎久英(かんじゅうろうひさひで)は、微禄ながら幕臣に取り立てられました。初代山田浅右衛門貞武は、この勘十郎久英の門人で、山野門下髄一の使い手となります。
その後山野家は、跡継ぎに技量が足りず、御様御用の職を解かれてしまいました。代わりに御用を務めた弟子たちが没したあとは、貞武の子・吉時がただひとりの御様御用として残されます。吉時は子の吉継(よしつぐ)に技術を伝えたいと、幕府に申し出て許可されました。こうして御様御用は、山田浅右衛門家の独占体制となるのです。
御様御用は、幕府支配下にある「公儀の役目」ではありましたが、山田浅右衛門の身分は浪人。それには、こんな逸話が伝わります。
2代山田浅右衛門吉時は、8代将軍・徳川吉宗の面前で試し斬りをする機会があったのですが、その際に幕臣になることを申し出なかったために、浪人の立場のまま御様御用を務めるという慣習ができあがってしまった、ということでした。
浪人ではありましたが、山田浅右衛門家は非常に裕福でした。山田家では、代々将軍の刀剣の試し斬り役を務めると同時に、死刑執行人として罪人の斬首も請け負っていたため、「首切り浅右衛門」や「人斬り浅右衛門」などの呼び名もあります。
斬首した死体は、そのまま山田家に払い下げられたため、その死体を使って商売をしたのです。大名や豪商等から試し斬りの依頼を受けたり、臓器を使って特効薬を製造したりして、山田家は莫大な富を得ました。
他にも様々な収入源があった山田浅右衛門家は、一説によれば、3万石程度の大名に匹敵するほど裕福でした。しかし、実子が跡を継いだのは、2代吉時と8代吉豊のみ。他は弟子の中から養子を取りました。試し斬りには、非常に高度な技術が要求されます。そのため、跡継ぎとなるべき実子の技術が基準を満たしていない場合、弟子を養子として継がせたからだと伝えられていますが、実際には、罪人の斬首の仕事を実子に継がせることへの嫌悪があったからだという説が有力です。
1950年(昭和25年)以前にも、「国宝」は存在していました。1897年(明治30年)に制定された「古社寺保存法」、1929年(昭和4年)に制定された「国宝保存法」に基づいて指定されていた刀剣です。
文化財保護法が制定された際、これらの国宝はいったん重要文化財(格下げではない)とされ、改めて国宝が指定されました。そのため、文化財保護法制定前の国宝を「旧国宝」、制定後の国法を「新国宝」と呼ぶことがあります。
例えば、「古今伝授光弘」(太刀[銘豊後国行平作])が国宝に指定されたのは、1934年(昭和9年)。現在の文化財保護法によって新国宝に指定されたのが、1951年(昭和26年)6月9日です。この日は、初めて新国宝が認定された日ですので、古今伝授光広は1934年以降、一貫して国宝だったことになります。なお、国宝から重要文化財に格下げされた例は、全くありません。