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行光(ゆきみつ)

行光(ゆきみつ)は、鎌倉時代末期に相模国(さがみのくに:現在の神奈川県)で作刀した刀匠で、新藤五国光の子とされていますが、門人とする説もあります。
正宗の兄弟子にあたる名工です。在銘作は短刀になり、太刀はすべて大摺上無銘になります。
短刀は身幅が普通で小ぶりの物が多いです。やや内反りに反る姿がみられます。刃文は新藤五国光の影響を受けて直刃(すぐは)が中心で、乱刃もあり、金筋砂流しかかりが強いです。
刀身の彫刻は、兄弟子で日光山法師の「大進坊」(だいしんぼう)の手によると伝わっています。

行光(ゆきみつ)が作刀した刀剣

  • 短刀 朱銘 行光 本阿弥(花押)
    短刀 朱銘 行光 本阿弥(花押)
    朱銘 行光 本阿弥(花押)
    鑑定区分
    特別重要刀剣
    刃長
    28
    所蔵・伝来
    刀剣ワールド財団
    〔 東建コーポレーション 〕
  • 不動行光
    不動行光
    行光
    鑑定区分
    未鑑定
    刃長
    25.4
    所蔵・伝来
    織田信長 →
    森蘭丸 →
    小笠原忠真 →
    個人蔵
  • 短刀 銘 行光
    短刀 銘 行光
    行光
    鑑定区分
    国宝
    刃長
    26.4
    所蔵・伝来
    加賀前田家

相模国の地図

相模国の地図

「相模国」の刀工を見る;


大進坊祐慶

大進坊祐慶

刀剣彫物の名手として名高い「大進坊祐慶」(だいしんぼうゆうけい)は、1197年(建久8年)に、下野国(現在の栃木県)の日光山で生まれた人物です。35歳まで僧侶として生活したあと、下山して相模国・鎌倉(現在の神奈川県鎌倉市)に向かい、「相州伝」(そうしゅうでん)の大家(たいか)「新藤五国光」(しんとうごくにみつ)に弟子入り。刀鍛冶の道へ進みました。一説では、108歳まで生きたとも言われています。

彫物の腕前に優れ、「正宗」(まさむね)や「行光」(ゆきみつ)の作刀に施された彫物にも、大進坊祐慶作が多数。銘は「大進坊祐慶」、あるいは「大進坊」と切っています。

なお、昭和期に映画やテレビドラマとなり、人気を博した時代劇「丹下左膳」(たんげさぜん)では、主人公は架空の人物でありながら、その佩刀(はいとう)には、大進坊祐慶作の「濡れ燕」(ぬれつばめ)が採用されました。

大進坊祐慶

秋広

秋広

「秋広」は、「相州伝」(そうしゅうでん)における特長のひとつ、「皆焼」(ひたつら)と呼ばれる刃文を創始した刀工です。皆焼とは、刀身全体に網目模様の焼き入れが広がっている刃文のことで、「湯走り」(ゆばしり:[にえ]や[におい]が刃縁[はぶち]から流れたような模様)や、「飛焼」(とびやき:沸が一部に固まっている状態)を強調した手法です。

秋広の出自は、名工「正宗」(まさむね)の門人説や、正宗の子「貞宗」(さだむね)の門人説、貞宗の弟子「広光」(ひろみつ)の弟、あるいは門人説など諸説あり、詳しくは分かっていません。ただし、「古刀銘尽」(ことうめいじん)によれば、1315年(正和4年)に生まれ、84歳で没したことが分かっています。3代にわたって同銘が用いられ、「3代 秋広」は、拠点を鎌倉から上総国(現在の千葉県中部)へ移し、作刀を続けたと伝えられているのです。

作風は、相州伝における他の刀工に比べてやや穏やかで、その銘は草書風。現存刀は少ないものの、「平造り」(ひらづくり)で身幅が広いのが特長であることが分かっています。

秋広

綱広

綱広

「初代 綱広」は戦国時代、「相州伝」(そうしゅうでん)の総本山だった鎌倉から小田原へ移り、新興勢力「後北条氏」(ごほうじょうし)の支援を受けて、「小田原鍛冶」の礎(いしずえ)を築きました。刀工名にある「綱」の字は、後北条氏の2代当主「北条氏綱」(ほうじょううじつな)から賜ったと言われています。その後「2代 綱広」は「徳川家康」に召し抱えられ、江戸時代にも繁栄を維持。明治時代まで鍛刀を続けました。

20数代受け継がれた綱広のうち、特に良工として名高いのは「5代 綱広」。1660年(万治3年)には、名誉号である「伊勢大掾」(いせのだいじょう)、のちに官位「伊勢守」(いせのかみ)も受領しました。その作風は、「鎬地」(しのぎじ)が低く先反りであることが特長。刃文は「焼きの谷」(やきのたに)に「荒沸」(あらにえ)が見えます。

綱広

広正

広正

「初代 広正」は、名工「正宗」(まさむね)の門人として、「相州伝」(そうしゅうでん)の技法を受け継いだ刀工のひとりです。延文年間(1356~1361年)頃に活躍しましたが現存刀は少なく、現在観られるのは、文安・宝徳年間(1444~1452年)の作例がほとんどです。

広正の銘は、1504年(文亀4年/永正元年)頃まで受け継がれ、途中、1469年(応仁3年/文明元年)に、相模国(現在の神奈川県)から上野国(現在の群馬県)に移住。領主「小幡氏」(おばたし)のもとで鍛刀を行いました。

作風は「平造り」(ひらづくり)で身幅が広く、先反り(さきぞり)になった「大脇差」(おおわきざし)が主流。刃文は「本位」(にえほんい)の「乱刃/乱れ刃」が特長です。「板目肌」に「皆焼」(ひたつら:網目模様の焼き入れ)を焼き、「飛焼」(とびやき:沸が一部に固まっている状態)が集まっています。

なお広正は、「彫物の上手」とも称され、その作刀に好んで彫刻を施していました。特に「倶利迦羅」(くりから:刀剣に龍が巻き付いた姿)などを彫った作例は秀逸です。

広正

新藤五国光

新藤五国光

「新藤五国光」(しんとうごくにみつ)は、「相州伝」(そうしゅうでん:相模国[さがみのくに:現在の神奈川県]の刀工の作風・系統)の実質的な祖であり、名工で有名な「正宗」(まさむね)・「行光」(ゆきみつ)らの師も務めました。

「粟田口六兄弟」(あわたぐちろくきょうだい)の末弟、「国綱」(くにつな)の子と伝えられます。

法名は「光心」。当時、京都で人気を集めていた「山城伝」(やましろでん)の刀工、「来国俊」(らいくにとし)と共に、「東西の双璧」と称された名工です。生没年不詳。

新藤五国光

正宗

正宗

「正宗」は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけて、作刀に携わった刀工です。通称「五郎入道」と名乗っていたため、一般的には「五郎入道正宗」(ごろうにゅうどうまさむね)と呼ばれています。江戸時代に編纂された名刀リスト「享保名物帳」(きょうほうめいぶつちょう)において、「天下三作」(てんがさんさく)のひとりに選定された名工です。

正宗は、1264年(弘長4年/文永元年)、鎌倉鍛冶の名工「藤三郎行光」(とうさぶろうゆきみつ)の子として生まれました。1280年(弘安3年)に17歳で父親と別れ、「新藤五国光」(しんとうごくにみつ)の門下に入ります。ここで作刀秘術を習得。その後、山城国(現在の京都府南部)、備前国(現在の岡山県東南部)、伯耆国(現在の鳥取県中西部)など、刀の生産地を行脚して、各地の技術を研究。ついに「相州伝」(そうしゅうでん)を完成させます。相州伝の刀は、薄いながらも強度抜群の刀身が特徴であり、これは、刀の常識を一変させる革新的な鍛法でした。

正宗による相州伝の完成は、時代背景と密接に関係しています。正宗が刀工としての道を歩み始めた時期は、いわゆる「元寇[蒙古襲来]」(げんこう[もうこしゅうらい])の時期と重なっています。外国からの侵略という未曽有の事態となった日本では、これまでになく自国の防衛意識が上昇。これを受けて武を貴ぶ気風が盛り上がり、併せて刀のあり方が問われるようになったのです。

武士達が求めたのは豪壮にして実用に耐え、武運を強くしてくれる1振でした。こうした動向の中、五郎入道正宗が相州伝を完成させるのです。相州伝は硬軟の「地鉄」(じがね)を組み合わせ、「地景」(ちけい)や「金筋」(きんすじ)など刃中の働きと、「湾れ刃」(のたれば)を基調とした大模様の刃文による「」(にえ)の美しさを強調する作風です。これにより、刀身の強度向上はさることながら、刃文の躍動感が一気に増しました。

山城伝」(やましろでん)の「粟田口派」(あわたぐちは)による伝統を継承した、整った「直刃」(すぐは)ではなく、荒々しい波濤(はとう:大きな波)のような刃文を刀身に表現したのです。この雄渾(ゆうこん:雄大で勢いが良いこと)さが、武運長久を希求する鎌倉武士達の琴線に触れ、正宗は、一躍著名な刀工となったのです。

以後、正宗の作風は全国に影響を及ぼし、後世に言う「正宗十哲」(まさむねじってつ)が生まれます。これは、正宗の影響を強く受けた10人の刀工のこと。正宗十哲のすべてを正宗門下と認めるのは困難ですが、「沸出来」(にえでき)を強調している点は共通しています。正宗十哲によって新しい作刀技術は日本全国に拡大し、のちに「新刀」や「新々刀」(しんしんとう)が誕生する原動力となるのです。

このように、五郎入道正宗の登場により、日本における刀の歴史は大きく転換しました。このため正宗は、「日本刀中興の祖」と位置付けられています。

正宗

貞宗

貞宗

貞宗(さだむね)は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけて、相模国(さがみのくに:現在の神奈川県)で作刀した刀匠です。相州伝を代表する正宗の門人で、技量を見込まれ養子になったと伝わっています。
大摺上の太刀身幅が広く、鋒/切先の形状は「大鋒」(おおきっさき)の物が多いのが特徴。地鉄(じがね)は板目に杢が入り詰み、地沸厚く付き地景が盛んに入り、刃文は大湾(おおのた)れを主にし、小乱れや互(ぐ)の目のついた作例が多く、刃中の働き金筋稲妻砂流しが激しくかかっています。
太刀・短刀とも師・正宗に比べて穏やかな作風。片切刃造二筋樋は、貞宗から始まっており、現存する日本刀は、すべて無銘で在銘作はありません。

貞宗

廣光

廣光

「廣光」(ひろみつ)は、南北朝期に相模国(さがみのくに:現在の神奈川県)で作刀した刀匠です。名を「九郎次郎」。正宗の門下だったとされていますが、貞宗の門下とする説もあります。
作例では、名物・大俱利伽羅廣光が最も有名。ただ、太刀の在銘作は1振のみで、他の作刀は平造りの小脇差が全体を占めています。
地鉄(じがね)は板目が肌立ち、地中の働きは地沸がついて地景が際立つ。刃文は中直刃(ちゅうすぐは)もありますが、大乱れで激しくなり皆焼(ひたつら)になります。刃中には、金筋や稲妻がかかり、砂流しも盛んに入り働きが豊富です。
銘は、「廣光」と「相模国住人廣光」の2種。南北朝期以降室町時代に入り、複数の刀工が廣光を名乗って作刀しました。

廣光

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