最も古い「豊後刀」(ぶんご:現在の大分県)で、刀工「僧定秀」(そうさだひで)の教えを受け継いだのが「紀新大夫行平」(きしんだゆうゆきひら)。通称「行平」(ゆきひら)です。
行平は、僧定秀の子とも弟の子とも伝えられ、豊後六郷満山(ぶんごろくごうまんざん:現在の大分県国東半島一帯)の「執行」(しゅぎょう:政務や事務を行なうこと)を務めていました。
しかし、源氏・平氏の九州での戦いで執行としての動静を読み間違い、その責任を問われて流刑となります。刑を終えて帰る途中、「後鳥羽上皇」に拝謁。御番鍛冶(ごばんかじ:各月交替で作刀を担当する刀工)を命ぜられるのです。
そののち、故郷に戻り、刀工として活躍。しかし、帰郷から約20年後、六郷満山の里人達と訴訟問題を起こして、また流刑に。流刑先の相模野国(さがみのくに:現在の神奈川県)で、最期を迎えたとも言われていますが、定かではありません。その一生には、不明な点も多い人物です。
日本刀の歴史に名を残した、数々の名工をご紹介します。