「手掻包永」(てがいかねなが)は、大和国(やまとのくに:現在の奈良県)「手掻派」の開祖で、一派は鎌倉時代末期の正応頃(1288年頃)から室町時代中期末の寛正頃(1460年頃)に活躍しました。
手掻派は東大寺に従属し、「輾磑門」(てんがいもん)という境内西方の門前に居を構え、日本刀を制作。この経緯から、輾磑門の「てんがい」が訛り、「手掻」と称するようになったと言います。
書き字は「手掻」・「輾磑」・「天蓋」などです。
名物の「児手柏」(このてがしわ:1923年[大正12年]に関東大震災によって焼身だが現存)や、岩崎家所蔵品で静嘉堂文庫所蔵の太刀(国宝)などを制作しました。