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粟田口忠綱(あわたぐちただつな)

「粟田口忠綱」(あわたぐちただつな)は、江戸時代中期にかけ、摂津国(せっつのくに:現在の大阪府)で3代にわたって日本刀制作にあたった刀匠。3代とも「近江守」を称しました。このうち、2代目粟田口忠綱が「一竿子」の号で知られ、最も評価が高かったと言われています。
刃文は、足長丁子にはじまり、徐々に助広の「濤瀾乱刃」(とうらんみだれば)に近くなり、玉焼も見られます。
刀身彫りの名手としても知られ、その場合「彫同作」、「彫物同作」と切り、銘は「一竿子忠綱彫同作」、「粟田口近江守忠綱」などになります。

粟田口忠綱(あわたぐちただつな)が作刀した刀剣

  • 刀 銘 一竿子粟田口忠綱 彫同作
    刀 銘 一竿子粟田口忠綱 彫同作
    一竿子
    粟田口忠綱
    彫同作
    鑑定区分
    重要刀剣
    刃長
    64.8
    所蔵・伝来
    刀剣ワールド財団
    〔 東建コーポレーション 〕
  • 脇差 銘 粟田口近江守忠綱
    脇差 銘 粟田口近江守忠綱
    粟田口近江守忠綱 彫物大坂住藤田通意
    鑑定区分
    重要刀剣
    刃長
    46.3
    所蔵・伝来
    刀剣ワールド財団
    〔 東建コーポレーション 〕

摂津国の地図

摂津国の地図

「摂津国」の刀工を見る;


大和守吉道

大和守吉道

「大和守吉道」は、「初代 大坂丹波守吉道」(しょだい おおさかたんばのかみよしみち)の次男で、関西における「丁子乱[ちょうじみだれ]の3名人」のひとりに数えられた名工です。生年は不詳ですが、延宝年間(1673~1681年)まで生き、80余歳で没しました。一時期、播磨国・姫路(現在の兵庫県姫路市)に駐槌していたことがあるため、俗に「姫路大和」とも呼ばれています。

大和守吉道が得意とした丁子乱とは、丁字の実が連なった形にみえる刃文のこと。後代になると、「薬焼刃」(くすりやきば)と呼ばれる技法によって、菊水や富士山、桜花などを交えた華やかな文様を描き、人気を博しました。切れ味も良く、江戸時代の刀剣格付書「懐宝剣尺」(かいほうけんじゃく)において、「良業物」(よきわざもの)の評価を得ています。

なお、大和守吉道の銘は3代続き、「2代 吉道」は寛文年間(1661~1673年)に、常陸国(現在の茨城県)の「徳川光圀」(とくがわみつくに)に招かれて駐槌しています。

大和守吉道

和泉守国貞

和泉守国貞

「和泉守国貞」は、江戸時代初期に隆盛を誇った「大坂新刀」創始者のひとりです。「西教寺」(さいきょうじ:宮崎県宮崎市)の跡取り息子でしたが、京都に出て「堀川派」の始祖「堀川国広」(ほりかわくにひろ)に師事し、作刀を学びます。

師匠の没後は「越後守国儔」(えちごのかみくにとも)の薫陶(くんとく:人徳や品格の力で感化し、立派な人に育てること)を受け、1620年(元和6年)頃に独立。大坂に移住し、同じ堀川一門の「河内守国助」(かわちのかみくにすけ)と共に、大坂新刀の礎を築きました。

飫肥藩(現在の宮崎市中南部、及び日南市)3代藩主「伊東祐久」(いとうすけひさ)からの信任も厚く、1623年(元和9年)には「和泉守」を受領。知行100石や、伊東祐久自筆の絵画なども与えられたと伝わります。

晩年は病に伏せるようになったため、次男である「2代 国貞」(通称:井上真改[いのうえしんかい]、別称[真改国貞]」)に代作させることが増えますが、2代 国貞もまた父親と同様に、日本刀の作刀における非凡な才能の持ち主。「相州伝」(そうしゅうでん)を確立した名工「正宗」(まさむね)になぞらえ、「大坂正宗」(おおさかまさむね)と称されました。

和泉守国貞

近江守助直

近江守助直

「近江守助直」は、1639年(寛永16年)に近江国(現在の滋賀県)に生まれ、大坂に出て「2代 助広」(にだい すけひろ)に作刀技術を学んだ名工です。1675年(延宝3年)頃に助広の娘婿となって「津田」姓となり、その後、故郷に戻って鍛刀に励みました。

1682年(天和2年)、助広が没すると再び大坂へ来住。津田一門の後継者となります。助広の特長である「互の目乱」(ぐのめみだれ)や「濤瀾乱」(とうらんみだれ)といった刃文を施す技法を受け継ぎ、一門の繁栄を支えました。

近江守助直の作風は、おおむね助広に似ていますが、身幅がやや狭く、先反り気味。また、濤瀾乱において助広が得意とした「玉焼」(たまやき)が、ほぼ見られないなどの違いがあります。

没年は不詳ですが、1693年(元禄6年)以降の作例が見当たらず、これより遠くない時期に没したと推定されているのです。

近江守助直

河内守国助

河内守国助

「河内守国助」は、「初代 和泉守国貞」(しょだい いずみのかみくにさだ)と共に、「大坂新刀」の創始者となった刀工として知られています。はじめは「亀山城」(三重県亀山市)城主「関一政」(せきかずまさ)のお抱え刀工でしたが、「関氏」滅亡後に京都へ移り、新刀期初期の名工「堀川国広」(ほりかわくにひろ)の門人となります。

その後、堀川国広が没すると、兄弟子「越後守国儔」(えちごのかみくにとも)のもとで学び、1630年(寛永7年)頃に大坂で独立。「小杢目肌」(こもくめはだ)の地肌(じはだ)に、「沸出来」(にえでき)の華やかな刃文が特長です。

河内守国助の銘は、3代にわたって受け継がれており、なかでも「2代 河内守国助」は、「中河内」(なかかわち)と称される名工として知られ、「拳形丁子」(こぶしがたちょうじ:連続した「丁子乱」が、握りしめた拳の形に似ている刃文)という独自の乱刃/乱れ刃(みだれば)を考案。初代に並ぶ人気を博しました。

河内守国助

井上真改/真改国貞

井上真改/真改国貞

「井上真改」(いのうえしんかい)、別称:真改国貞(しんかいくにさだ)は、江戸時代初期、初代・国貞の次男として誕生し、摂津国(せっつのくに:現在の大阪府)で活動した刀匠。24歳で家督を継承すると、翌年、藩主より「和泉守」を与えられて、本格的に作刀の道に入りました。
刃中の働きは匂口が明るいのが特徴。刃文は覇気のある直刃(すぐは)調と、冴えた湾(のた)れ刃の評価が高く、津田越前守助広とともに「大坂正宗」と讃えられ、1661年(寛文元年)に朝廷より十六葉菊花紋を入れることが許されました。
中江藤樹と熊沢蕃山に師事して陽明学を習得。熊沢蕃山より心身ともに「真に改める」の意をこめて「真改」の称を与えられ、銘は「井上和泉守国貞」、「井上真改」などになります。

井上真改/真改国貞

津田越前守助広

津田越前守助広

「津田越前守助広」(つだえちぜんのかみすけひろ)は、江戸時代初期、摂津国(せっつのくに:現在の大阪府)において日本刀を制作した刀匠です。

父・初代「ソボロ助広」のもとで修業して23歳で独立。47歳で没するまで作刀に励み、「越前守」を受領しました。
海の波濤がぶつかりあって崩れ落ちる様を彷彿とさせる「濤瀾乱刃」(とうらんみだれば)を創作して世間を驚かせ、刃文の名手として一世を風靡しました。
また、直刃(すぐは)でも優れた作例が多く、銘は「越前守助広」など多数あります。

津田越前守助広

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