本短刀は、「織田信長」の末弟で、武将の「織田有楽斎(織田長益)」(おだうらくさい[おだながます])が、「豊臣秀頼」から拝領した「名物 有楽来国光」と呼ばれる国宝の1振です。
長益/有楽斎は、信長と違って、病弱で大人しい性格。戦に出るよりも和解交渉など、参謀(さんぼう:幕僚として、作戦に参与し補佐すること)を得意としました。
信長亡きあとは、「豊臣秀吉」に仕え、御伽衆(おとぎしゅう:話し相手)に抜擢。同年、43歳で剃髪します。信長の弟として生まれ、楽な人生ではなかったからと、当初は「無楽斎」(むらくさい)と名乗ろうとしましたが、秀吉に「あなたの人生は無楽ではないよ、有楽にせよ」と言われて、「有楽斎」にしたと言われています。
参謀のひとつとして、幼少の頃から「茶道」を身に付け、さらに「千利休」(せんのりきゅう)に学んで極め、晩年は独自の流派、武家茶道「有楽流」(うらくりゅう)を興したことでも有名です。なお、諸説ありますが、東京の「有楽町」という地名は、有楽斎の屋敷があったことに由来しています。秀吉亡きあとも、得意の交渉能力を発揮し、「関ヶ原の戦い」では「徳川家康」に付き、「大坂冬の陣」では淀君の叔父として豊臣家に付くなど、激しい乱世を生き抜きました。
本短刀を制作したのは、「来国光」。鎌倉時代末期に、山城国(現在の京都市)で活躍した名工です。
刃文は互の目(ぐのめ)交じりの大丁子乱れで、とても華やか。地鉄(じがね)は流麗精細な小板目肌。身幅が広く、重ねも厚く覇気があり、豪壮な体配ながら、荘厳な高みに到達した凛とした品格を伴っています。差表(さしおもて)に素剣(そけん/すけん:不動明王の化身である剣の図)が彫られているのも特徴です。
1930年(昭和5年)には国宝に指定され、「享保名物帳」には、五千貫(現在の価格で約3.7億円)と記載された逸品。長益/有楽斎所持後は、刀剣鑑定の名家「本阿弥光甫」の取次で「前田利常」が求め、長く加賀百万石の前田家に伝来した、由緒正しい名刀です。