「忠綱」は、初代「近江守忠綱(おうみのかみただつな)」の子。のちに2代目を継ぎ、その号を「一竿子(いっかんし)」としました。
初代・忠綱は、もとは山城国伏見(やましろのくにふしみ:現在の京都府京都市伏見区)の出身で、一説には、1648年(慶安元年)8月頃、大坂に移ったと伝えられています。
一竿子忠綱の作風は、初期においては、初代に倣って焼頭(やきがしら)がよく揃った足長丁子乱(ちょうじみだれ)が多く見られ、後期になると、その他に直刃(すぐは)や濤瀾(とうらん)風の大互の目乱(ぐのめみだれ)なども手がけるようになりました。
本刀の刃文は、大互の目乱に小湾れ(のたれ)、互の目などを交えた濤瀾風で、匂(におい)深く、小沸(こにえ)がよく付き、金筋や砂流しなどがかかるなどの作域を示しており、中でも濤瀾風の焼刃には丁子風の刃が交じり、長い足がよく入るなど、一竿子忠綱の特色が顕著に表れた出来映えです。
また、同工は、「彫りがない一竿子は買ってはいけない」と評されるほどの彫物の名人でもあり、その腕前は刀身そのものを損ねず、調和もよく取れています。
本刀の表裏にある彫物についても、「彫同作」の添銘から一竿子忠綱自身が施した物であると推測され、これは、同工が得意とした図柄であり、彼の作中によく見受けられる日本刀です。迫力を感じさせるその意匠は非常に素晴らしい仕上がりであり、一竿子忠綱の技量の高さが窺える1振だと言えます。