本刀は、公家の名門「西園寺家」(さいおんじけ)伝来の名刀です。
西園寺本家は、清華家(せいがけ:太政大臣にまで昇格できる公家の家格)のひとつ。「藤原北家閑院流」(ふじわらほっけかんいんりゅう)に発する「藤原通季」(ふじわらのみちすえ)を祖とし、通季の曾孫・公経(きんつね)が、京都北山に西園寺を営んだことから、これを家名としました。また、西園寺家は琵琶の家としても有名です。
さらに、公経は「源頼朝」(みなもとのよりとも)の姪「一条全子」(いちじょうまさこ)を妻としていたため、鎌倉幕府と密接な関係を持っていました。
しかし、「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)による「建武の新政」(けんむのしんせい)によって、鎌倉幕府は倒され、幕府の後ろ盾を失った西園寺一族は、伊予国(いよのくに:現在の愛媛県)南西部の宇和郡一帯に逃れます。その後、西園寺家庶流の「西園寺公良」(さいおんじきんよし)が勢力を持ち、8代にわたって同地を支配しました。
1584年(天正12年)、「長曾我部元親」(ちょうそかべもとちか)の侵攻により、「西園寺公広」(さいおんじきんひろ)は降伏。豊臣家の家臣「戸田勝隆」(とだかつたか)が宇和領主となり、行き場を失った公広は、1587年(天正15年)に勝隆によって殺害され、伊予西園寺家は滅亡しました。その後、本刀は「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)に献上され、秀吉からもとの西園寺本家に戻されています。
「安綱」は、在銘日本刀の初期の実在者として、刀剣研究には忘れてはならない重要な存在であり、「童子切安綱」(どうじぎりやすつな)をはじめ、比較的多くの作品を残しているのです。
本刀は、大磨上無銘でありますが、その鍛えは板目に大板目が交じって肌立ち、刃文は小乱れに小丁子(ちょうじ)が交じり、刃縁はほつれ、総体に沸(にえ)は厚く付き、砂流し・金筋がかかり、湯走りが入るなど、古風で優雅さが感じられる地刃に、同工の特色がよく現れています。