本短刀(たんとう)の「桑山保昌」(くわやまほうしょう)は、「豊臣秀吉」の家臣であった「桑山元晴」(くわやまもとはる)が所持していたことに因んで名付けられた刀剣です。
本短刀には、「高市郡住金吾藤貞吉」、「元亨二二年甲子十月十八日」という銘が刻まれています。そして、刃長(はちょう)は約26cm、鎌倉時代末期に、大和国(現在の奈良県高市郡)で活躍していた「保昌一門」の「貞吉」(さだよし)が作りました。
本短刀を所持していた桑山元晴は、1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」では「徳川家康」に味方して、戦後は大和国御所(やまとごせ:現在の奈良県御所市)藩初代藩主に就任。徳川家康から、10,000石の所領を拝領しています。
しかし、桑山元晴の長男「桑山清晴」(くわやまきよはる)が、2代将軍「徳川秀忠」(とくがわひでただ)の勘気を被り蟄居(ちっきょ:自宅等に閉じ込め謹慎させる刑罰)。桑山清晴の所領は、桑山元晴の物となり桑山元晴は26,000石の大名となります。
1620年(元和6年)に桑山元晴が亡くなると、家督を継いだ次男「桑山貞晴」(くわやまさだはる)も、1629年(寛永6年)にたった26歳で急死。子もなく養子も決めないまま当主が亡くなったことで、桑山家はお取り潰しになりました。
本短刀は、その頃に加賀藩藩主「前田利常」(まえだとしつね)が買い上げたと伝わっています。そして、1955年(昭和30年)2月2日に、本短刀は国宝に指定。現在は、個人蔵となっています。