本打刀は、鎌倉時代の刀工で備前長船の祖とされる「光忠」(みつただ)の作。光忠の華やかな作刀を好んだ織田信長から豊臣秀吉に渡り、伊達政宗に下賜されました。
この不思議な名前の由来は、伊達政宗が、粗相をした家臣をこの刀で斬ったときに、鋒/切先(きっさき:刀の刃の先端)が軽く触れただけの青銅の燭台が一緒に切れたことからとも、燭台に隠れた家臣を燭台ごと斬り殺したことからとも言われています。
のちに水戸徳川家に所望されて譲渡し、明治維新後まで同家に伝わりますが、1923年(大正12年)の関東大震災で被災。以降「焼失」したと思われていましたが、2015年(平成27年)に焼身ながら現存することが発表されました。