書跡
安土桃山時代
なおえかねつぐ しょじょう(やまよしかげながあて) 直江兼続 書状(山吉景長宛)

1581年(天正9年)、主君の上杉景勝(うえすぎかげかつ)に対して不満を募らせた新発田重家(しばたしげいえ)による反乱が勃発。この反乱を工作した伊達輝宗(だててるむね)が織田軍の柴田勝家とともに新発田側に加勢したことで、上杉軍は苦境に立たされます。
しかし、翌年の6月21日に「本能寺の変」で織田信長が倒れて織田軍の侵攻が止まると、北条氏直(ほうじょううじなお)との和睦を結んだ上杉景勝は1583年(天正11年)4月、新発田重家を討つために居城である新潟城へ出陣します。
本状は上杉謙信の病死後、その養子である上杉景勝に仕えた直江兼続(なおえかねつぐ)が、上杉軍として蓼沼友重(たでぬまともしげ)とともに新潟城へ侵攻した山吉景長(やまよしかげなが)の戦功を褒め称えるために送った物です。三条と新潟の合戦において数人の武将を討ち取り、竹田輿介(たけだよすけ)を生け捕ったことを上杉景勝が喜んでいる旨が記されています。
一方で、「今後も陣営でよく相談し、抜かりなく行動するように」「こちら(直江兼続)では信越をしっかり治めるように言われているので安心するように」とも綴られており、戦況がまだまだ予断を許さぬものであったことが読み取れます。また、上杉景勝本人から山吉景長に送った同内容の書状も存在しています。
