書跡
安土桃山時代
とよとみひでよし しゅいんじょう(あたごやま ふくじゅいんあて) 豊臣秀吉 朱印状(愛宕山 福寿院宛)

本状は、豊臣秀吉から愛宕山 福寿院(あたごやま ふくじゅいん)へ送られた朱印状です。
愛宕山 福寿院は、当時6つ存在した社僧の宿坊のひとつで、現在は全国に約900社ある愛宕神社の総本山となっています。
書状は愛宕山 福寿院より豊臣秀吉に贈られた正月の祝い品への礼状で、施薬院全宗(やくいんぜんそう)を使者として送り、その際に施薬院全宗が詳しい話をする旨が書かれています。
押印されている蚯蚓印(みみずいん)は、当時の豊臣秀吉が愛用していた糸印(いといん)で、本状が豊臣秀吉による朱印状であることを示しています。糸印とは明王朝時代の中国で作られた鋳銅製の印章のこと。江戸時代には狩野探幽(かのう たんゆう)ら画家も自らの落款印(らっかんいん)として好んで使いました。
施薬院全宗は、戦国時代から安土桃山時代にかけて豊臣秀吉の側近を務めた医者で、号は徳運軒(とくうんけん)。比叡山薬樹院(ひえいざんやくじゅいん)の住持だった1571年(元亀2年)、織田信長による比叡山焼き討ちに遭い還俗、医者となった人物です。本能寺の変により織田信長が命を落としたあとは、豊臣秀吉の許可を得て比叡山の再建に努めました。1587年(天正15年)に豊臣秀吉が発令したバテレン追放令(キリスト教と南蛮貿易の禁止)を文書として書いたのも施薬院全宗であるとされています。
