重要美術品
安土桃山時代
とよとみひでよし じひつしょじょういっぷく(さんじょうどのがもうしあてひでよししょうそく) 豊臣秀吉 自筆書状一幅(三条殿蒲生氏宛秀吉消息)

本状は、豊臣秀吉が側室の三条殿蒲生氏(さんじょうどのがもうし)に宛てた自筆の書状で、宛名の「ともし」は三条殿蒲生氏の名前「とら」に由来する略称です。書状には、蒲生氏からの「人手が足りない」という申し出に、豊臣秀吉が応じる旨が記されています。
三条殿蒲生氏は戦国武将、蒲生賢秀(がもうかたひで)の娘であり、蒲生氏郷(がもううじさと)の妹です。文末の「大かう」が太閤を意味することから、本状が書かれたのは豊臣秀吉が甥の豊臣秀次に関白職を譲り、太閤となった1591年(天正19年)12月以降であることが分かります。
また、文中の「こちらは建築中で1日外にいた。大変疲れている」という記述から、伏見城の築城を始めた1592年(文禄元年)から入城した1594年(文禄3年)までの期間であることも推測できます。
この伏見城は、豊臣秀吉が自身の隠居後の住まいとするため、伏見の「指月山」(しげつやま)に建てた城です。しかし、伏見城は豊臣秀吉が移り住んでから2年後の1596年(文禄5年)に起きた慶長伏見地震によって倒壊。
その後、1597年(慶長2年)に指月近くの木幡山(こはたやま)に再建するも、豊臣秀吉は翌年に城内で病没します。豊臣秀吉の死後、徳川家康が居城とした伏見城は、1600年(慶長5年)「伏見城の戦い」で大半を焼失。
「関ヶ原の戦い」前哨戦とも言える「伏見城の戦い」は、宇喜多秀家(うきたひでいえ)らが率いる西軍と鳥居元忠(とりいもとただ)ら率いる東軍が衝突した戦いです。その後、伏見城は1602年(慶長7年)ごろ、徳川家康によって3度目の再建が行なわれました。
本状は豊臣秀吉自筆の貴重な手紙で、国の重要美術品に指定されています。
