屏風

室町時代

げんぺいかっせんずびょうぶ 源平合戦図屏風

源平合戦図屏風
本屏風は、右隻の右から「安徳天皇」、「三草山の戦い」、「屋島」、「梶原の二度駆け」、「しころ引き」、「鷲尾三郎義久」、左隻の右から「詞戦い」、「扇の的」、「能登守平教経」、「生田口の開戦」、「直実と敦盛」、「義経弓流し」のそれぞれ六扇からなる「源平合戦」の様子を描いた見事な美術品です。

源氏と平家が争った「源平合戦」を詳しくご紹介します!

右隻
左隻

右隻 第一扇「安徳天皇」


右隻 第一扇「安徳天皇」
右隻 第一扇「安徳天皇」

右隻 第一扇「安徳天皇」

一ノ谷(現在の兵庫県神戸市)に置かれた行宮(あんぐう:一時的な天皇の住まい)の内裏に、第81代天皇「安徳天皇」(あんとくてんのう)が座している場面が描かれています。

中央奥が安徳天皇ですが、天皇の御影(ぎょえい:肖像画)は高貴な身分のため畏れ多いとして、顔は描かれていません。そして、向かって右側に座っているのが母である「建礼門院徳子」(けんれいもんいんとくこ/とくし/のりこ)、左側は祖母の「二位尼」(にいのあま)です。徳子は「平清盛」(たいらのきよもり)の娘で、「高倉天皇」(たかくらてんのう)の中宮(ちゅうぐう:皇后の別称)。二位尼は、平清盛の正室です。

この第一扇に描かれた場面の翌年1185年(元暦2年/寿永4年)2月、「壇ノ浦の戦い」(だんのうらのたたかい)において、安徳天皇は敵に追い詰められます。これが最後と覚悟を決めた二位尼は、「三種の神器」の神璽(しんじ)、神鏡、宝剣を身に付け、幼い安徳天皇を抱きかかえました。「わたしをどこへ連れて行くのか」と問いかける天皇に、二位尼は涙をこらえて答えます。「君は前世の修行によって天子としてお生まれになられましたが、悪縁に引かれ、御運はもはや尽きてしまわれました。この世は辛く厭わしいところですから、極楽浄土と言う結構なところへお連れ申すのです」

天皇は、小さな手を合わせ、東を向いて伊勢神宮を遥拝(ようはい:遠くから拝むこと)し、続けて西を向くと念仏を唱えました。二位尼は、「波の下にも都がございます」と慰め、天皇を抱いたまま壇ノ浦の急流に身を投じたのです。このとき、安徳天皇は満6歳でした。

天皇の母、徳子も入水しますが、敵である源氏軍の兵が持つ熊手に髪を掛けられ、引き上げられて救助されます。

壇ノ浦の戦いの際、三種の神器のうち神璽と神鏡は源氏軍が探し出し確保しましたが、神剣は失われてしまったとのことです。

第一扇には、戦いの一場面も描かれています。一ノ谷の裏手にある断崖絶壁を馬で駆け下りる「源義経」とその軍勢が決行した、いわゆる「鵯越の逆落とし」(ひよどりごえのさかおとし)です。

1184年(元暦元年/寿永3年)2月7日の一ノ谷は、「源平の戦い」のなかでも激戦の地でした。

源義経は、少数精鋭のおよそ70騎を率いて、山中のけもの道である鵯越を進み、はるか下に一ノ谷の陣を見下ろす断崖の上に立ちます。地元の者から、そこは鹿が通っていると聞き、ならば馬でも通れるはずだと見越しての進軍でした。

源義経は、山から馬で駆け下りる決断をしますが、足元は武勇に優れた騎馬武者ですらひるむ断崖です。そこで、先に馬2頭を下らせると、1頭は足を挫いて倒れてしまいますが、もう1頭は無事に駆け下りました。

「心して下りれば馬を損なうことはない。皆の者、駆け下りよ」と言うや、源義経は先陣を切って駆けて行きます。配下の坂東武者(ばんどうむしゃ:勇猛で知られた関東生まれの武士)達も続きました。

2町(1町は約109m)ほど下ると、屏風を立てたような険しい岩場が現れ、さすがの坂東武者も怖気付きますが、相模国(現在の神奈川県)の武家、三浦氏の一族「佐原義連」(さわらよしつら)が、「三浦では常日頃、ここよりも険しいところを駆け落ちておるわ」と言い放ち、真っ先に駆け下ったのです。源義経らもこれに続きました。ただひとり、怪力の「畠山重忠」(はたけやましげただ)だけは、馬を損ねてはならないと、馬を背負って岩場を駆け下りたと言われています。

断崖を駆け切った源義経らは、平氏の陣に突入。予想もしなかった方向から攻撃を受けた一ノ谷の陣は大混乱に陥り、源義経はそれに乗じて方々に火をかけたのです。平氏の兵達は、我先にと海へ逃げて行きました。

右隻 第一扇「安徳天皇」の写真

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右隻 第二扇「三草山の戦い」


右隻 第二扇「三草山の戦い」
右隻 第二扇「三草山の戦い」

右隻 第二扇「三草山の戦い」

第二扇には、画面手前の平氏軍の陣へ、三草山の斜面を駆け下りて夜討ちをかける源義経の源氏軍が描かれています。

1184年(元暦元年/寿永3年)1月末、「後白河法皇」(ごしらかわほうおう)より平氏追討の院宣(いんぜん:法皇からの命により、院庁の役人が出す公文書のこと)を受けた「源範頼」(みなもとののりより)と源義経は、源氏軍を率い、平氏が拠点とする福原(現在の兵庫県神戸市)を目指して出陣。2月5日、摂津国(現在の大阪府北中部と兵庫県南東部)に入ると、東西より挟み撃ちにするために軍勢を二手に分け、2月7日に矢合わせ(攻撃決行)となりました。

福原へ向け、丹波路(現在の兵庫県丹波市)から進軍する義経軍を迎え撃つため、平氏方は、「平資盛」(たいらのすけもり)、「平有盛」(たいらのありもり)、「平師盛」(たいらのもろもり)らが播磨国三草山(現在の兵庫県加東市)の西側に布陣。丹波との国境(くにざかい)にも近い三草山は、険しい山と深い谷に囲まれた軍事的要衝でもありました。一方、義経軍は東側に陣取り、源平両軍が3里(1里:約3.93km)ほどの距離を置いて対峙(たいじ)したのです。

布陣を終えた源義経は、「土肥実平」(どいさねひら)を呼び、明日、夜が明けてからの合戦とするべきか、今夜のうちに夜討ちをかけるべきか軍議を行ないます。そこへ「田代冠者信綱」(たしろかんじゃのぶつな)が進み出て、「明日の合戦となれば平家の軍勢は増強されます。数に勝る今、夜討ちをかけるべきです」と進言。これを源義経は受け入れ、夜討ちを決行します。

夜討ちを予想していなかった平氏軍は慌てふためき、陣は総崩れ。兵士一人ひとりが敗走したため、大きな戦いにもならず、源氏軍の勝利となりました。

平資盛と平有盛は、海路で屋島(現在の香川県高松市)へ逃れ、平師盛は命からがら福原の平氏本隊へ逃れたと言うことです。

右隻 第二扇「三草山の戦い」の写真

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右隻 第三扇「屋島」


右隻 第三扇「屋島」
右隻 第三扇「屋島」

右隻 第三扇「屋島」

右隻・第三扇に表されているのは、平氏方が四国支配の拠点としている屋島です。画面の上部には、夜中に屋島へ進軍する源義経とその手勢が、画面下では、奇襲を受けて内裏から逃げ出す平氏方の様子が臨場感たっぷりに表現されています。

一ノ谷で勝利を収めた源氏方は、翌1185年(元暦2年/寿永4年)2月、屋島(現在の香川県高松市)へ本拠地を移した平氏方の追討を開始。そのために源義経は、水軍を味方に付け、摂津国の渡邉津(わたなべのつ:現在の大阪府大阪市)へ兵を集めます。

2月17日、折からの暴風雨のため、船頭らは恐れて出航を拒み、多くの大将が出航を見合わせていました。しかし、日を跨いだ2月18日午前2時、源義経は郎党(ろうとう:武家の家来)に命じて弓で船頭を脅し、わずか5艘150騎で出航を強行します。

源義経の船団は暴風雨にもかかわらず、通常3日かかる航路を約1日半に縮め、阿波国勝浦(現在の徳島県東部の勝浦町)に到着。在地の武士である「近藤親家」(こんどうちかいえ)を味方に引き入れると、「平家方は近隣国へ兵を割いているために屋島の守備は手薄である」との情報を手に入れます。

今が屋島を攻める好機と判断した源義経は、平氏方の豪族の館を襲って打ち破り、徹夜で讃岐国(現在の香川県)へ進軍。翌日には屋島の対岸へと至りました。

寡兵(かへい:少数の兵力)であることを平氏方に悟られないよう屋島周辺の民家に火をかけて、源氏方の大軍が襲来したと思わせ、平氏軍の戦意を奪うことに成功。源義経は、一気に屋島の内裏に攻め込みます。 海上からの攻撃だけを予想していた平氏軍は、いわば背後を突かれる事態になって狼狽し、内裏を捨てて我先にと舟に乗り込み海上へと逃げ出しました。

その後、屋島での戦いに敗れた平氏軍は四国の拠点を失い、長門(現在の山口県西部)へと撤退します。

右隻 第三扇「屋島」の写真

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右隻 第四扇「梶原の二度駆け」


右隻 第四扇「梶原の二度駆け」
右隻 第四扇「梶原の二度駆け」

右隻 第四扇「梶原の二度駆け」

右隻の第四扇に描かれているのは、1184年(元暦元年/寿永3年)の「一ノ谷の戦い」において、源範頼軍に属して奮戦した「梶原景時」(かじわらかげとき)と、長男「梶原景季」(かじわらかげすえ)の逸話です。画面上部左手には、敵兵に囲まれる梶原景季らの姿があり、画面中央には、そんな息子のもとへ駆けつけようとする梶原景時の姿が見えます。画面下部では、押し寄せる源氏軍と、守りを固める平氏軍が攻防を繰り広げています。

2月7日、一ノ谷の東側に位置する生田口(いくたぐち)を守る平氏軍大将「平知盛」(たいらのとももり)、「平重衡」(たいらのしげひら)に対し、源氏軍は大将・源範頼が率いる5万騎が布陣。源氏軍は、激しく矢を射掛けるものの、平氏軍は壕(ごう:城壁のまわりの堀)をめぐらせ、逆茂木(さかもぎ:先端を尖らせた木の杭を外へ向けて並べた柵)を重ねて防備を固めていました。しかも平氏軍も雨のように矢を射掛けて対抗したため、これには勇猛で知られる坂東武者も怯み、攻め入ることができません。

そのとき、梶原景時と梶原景季が、逆茂木を取り除き、降り注ぐ矢を物ともせず敵陣へ突進して行ったのです。梶原景時は、敵陣を打ち破ると後退しますが、梶原景季が戻って来ないことに気付きます。「景季は敵陣に深く入り込みすぎて、討たれたのではあるまいか」と心配で涙を流し、梶原景時はふたたび平氏軍の陣中へ取って返します。

梶原景時が敵兵を蹴散らして駆け付けたとき、梶原景季は激戦のすえ、馬も射抜かれ徒歩となり、郎党(ろうとう:武家の家来)2人と共に崖を背にして、敵兵5人と戦っていました。

梶原親子は、5人に敵兵のうち3人を切り伏せ、2人に傷を負わせると、梶原景時は「弓矢取り(武士)は進むも引くもそのとき次第じゃ」と叫び、梶原景季を自分の馬へ担ぎ上げて、戦場から駆け去ったのです。

この勇猛果敢な親子の逸話は、「梶原の二度駆け」と呼ばれています。

右隻 第四扇「梶原の二度駆け」の写真

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右隻 第五扇「しころ引き」


右隻 第五扇「しころ引き」
右隻 第五扇「しころ引き」

右隻 第五扇「しころ引き」

この右隻・第五扇に描き出されたのは、1185年(元暦2年/寿永4年)の「屋島の戦い」の際に起きた、世にも名高い「しころ引き」の場面です。

平氏方が「当てて見せよ」と挑発した扇の的を、「那須与一」(なすのよいち)が見事に射落とすと、源氏軍も平氏軍もこの偉業を褒め称えて沸き上がります。齢(よわい:年齢)50ほどの平氏方武者が、扇の掲げられていた下で舞を始めるほどの騒ぎです。

源義経は、この武者も射るように命じました。与一が武者も射抜いて舟底に倒すと、平氏方の舟は静まり返り、源氏方はふたたび(えびら:矢を入れて背に負う道具)を叩いてどよめいたと言います。

これに腹を立てた平氏方の武者3人が、ひとりは弓、ひとりは盾、ひとりは大長刀を持ち、舟から渚に上がると、源氏方にかかって来いと煽ったため、源義経の命を受けた5騎の源氏方武者が駆け寄りました。すると、源氏方の先陣を切った武蔵国(現在の東京都埼玉県・神奈川県北東部)の武者「美尾屋十郎」(みおやじゅうろう)の馬に矢が放たれます。矢が命中し、倒れた馬に振り落とされた美尾十郎が徒歩で戦っていると、盾の後ろより平氏方の「藤原景清」(ふじわらのかげきよ)が大長刀を振るい向かって来ました。

小太刀(こだち)のみを手にしていた美尾十郎が、これは敵わずと逃げるところを、藤原景清の手が美尾十郎の(しころ:の首まわりを覆って防御する部分)をつかみ、互いに引っ張り合いになり、ついには錣の糸が切れ、藤原景清がその怪力で兜から錣を引きちぎってしまったのです。藤原景清は、その錣を振って「我こそは都で名高い悪七兵衛景清」(あくしちべいかげきよ)と大声で名乗りを上げました。

構図の中央に、錣をつかまれて藤原景清に引っ張られる美尾十郎の姿と、その後方に射られた美尾十郎の馬が描かれています。 前方右側の波打ち際に押し寄せるのは、加勢に来た平氏方の武者です。

右隻 第五扇「しころ引き」の写真

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右隻 第六扇「鷲尾三郎義久」


右隻 第六扇「鷲尾三郎義久」
右隻 第六扇「鷲尾三郎義久」

右隻 第六扇「鷲尾三郎義久」

右隻・第六扇には、源義経が1184年(元暦元年/寿永3年)2月7日、一ノ谷の戦いで成し遂げた鵯越の逆落とし(ひよどりごえのさかおとし)の前日譚が描かれました。構図の下部に、道を尋ねる源義経と、それに答える地元の老人と息子の姿があり、源氏の武者達がまわりを囲んで見守っています。

6日の明け方、源義経は1万騎あまりの自軍を2手に分け、約7,000騎を腹心の土肥実平に任せて一ノ谷の西口に向かわせ、自身は約3,000騎を率いて、鵯越の山道に分け入り陣取りました。

家臣が、ひとりの老人を連れて来たので、源義経が「その者は」と聞いたところ、「この山の猟師です」との返答。そこで、地元の地理に詳しいその老人に平氏の城郭へ通じる山道を尋ねました。

「とても人の通れるような道ではありません。ましてや馬が通ることなど不可能です」と老人は答えます。 源義経は、「しかし、鹿は通うのではないか」と聞き返したところ、老人の答えは、「鹿は通います。暖かくなると鹿は北東へ移動し、寒くなるとまた戻って来ます」。

源義経が「それならば馬の道も同じだ。鹿の道を進んで行くことにしよう。お前が案内しろ」と老人に命ずると、老人は年老いているからと辞退しますが、代わりに18歳の息子の「熊王」に案内させることにしました。

熊王は、源義経軍を巧みに導いて、鵯越の逆落とし成功の立役者になったということです。

源義経は、この若者をいたく気に入り、すぐに元服させると自分の名前の一文字を与えて、「鷲尾三郎義久」(わしおさぶろうよしひさ)と名乗らせます。

鷲尾三郎義久は、こののちも源義経に付き従って忠義を尽くしました。この鷲尾三郎義久こそ、源義経が兄の「源頼朝」に追われて奥州(現在の岩手県)へ下った際、最後まで行動を共にして平泉で命を落とした鷲尾三郎義久なのです。

右隻 第六扇「鷲尾三郎義久」の写真

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左隻 第一扇「詞戦い」


左隻 第一扇「詞戦い」
左隻 第一扇「詞戦い」

左隻 第一扇「詞戦い」

左隻の第一扇は、舟の上に顔を揃えている平氏軍と、画面下部の渚に集まった源氏軍が対峙(たいじ)し、互いに声を張り上げている場面です。源氏軍の最前列で赤い鎧をまとっている武将が言葉による応酬を止めた「金子十郎家忠」(かねこじゅうろういえただ)で、その右隣に弓を引絞る「金子与一」(かねこよいち)が見えます。

合戦に先立ち、平氏の軍勢が舟の上へ打ち出(い)でて、「今日の源氏の大将軍は、いかなる方ぞ」と大声を上げました。 これを受け、源氏方の「伊勢三郎義盛」(いせさぶろうよしもり)が馬で歩み出て、大声で、「清和天皇十代の御子孫、鎌倉殿の御弟、九郎判官義経様である」(せいわてんのうじゅうだいのごしそん、かまくらどののおんおとうと、くろうほうがんよしつねさまである)と返答。

すると、平氏方の「越中次郎兵衛盛嗣」(えっちゅうじろうびょうえもりつぐ)が、「そんな者もいたか。平治の乱で父を討たれ、鞍馬寺(くらまでら)に預けられたあと、金商人の下臣(かしん)となり、奥州へ下った小僧のことか」と声を張り上げます。 「下臣」とは、身分の低い家来のことで、これを聞いた伊勢三郎義盛は憤りを隠せません。

「よく回る舌で、我が主君の御ことを適当に申すな。そう言うおまえ達こそ、倶利伽羅峠(くりからとうげ)で大敗し、命からがら生き延びて、泣く泣く都へ戻った者共ではないか」。 「おまえ達こそ、鈴鹿山で山賊をして妻子を養い、暮らしていると聞いたぞ」と平氏方の越中次郎兵衛盛嗣はなおも言い返します。

いつ終わるとも知れない悪口雑言の応酬に辟易(へきえき)したのか、源氏方の金子十郎家忠が「どちらもやめい。口だけなら何とでも言えるわ」と止めに入り、「昨年の一ノ谷の戦いで、源氏の戦い振りは思い知っているであろう」と続けました。 そして、金子十郎家忠が言い切らないうちに、隣にいた弟の金子与一が弓を引き絞って矢を放つと、船上に立つ越中次郎兵衛盛嗣の鎧を付けた胸板に突き刺さったのです。

その場の言葉による争いは終わりましたが、このように、合戦前に互いに大声で罵り合うことを「詞戦い」と言い、当時の戦(いくさ)では、よく見られることでした。

左隻 第一扇「詞戦い」の写真

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左隻 第二扇「扇の的」


左隻 第二扇「扇の的」
左隻 第二扇「扇の的」

左隻 第二扇「扇の的」

左隻・第二扇には、那須与一が扇の的を射る有名な場面が表されました。画面中央右手に、美女が乗る小舟があり、扇を掲げています。那須与一は中央左手から、馬で海へ入って行くところです。

1185年(元暦2年/寿永4年)の屋島の戦いでのこと。 2月18日、夕刻となり休戦状態になると、平氏方より1艘の小舟に美女が乗って現れました。その美女は、舟に立てた竿の先に取り付けた扇の的を指し示し、射抜いてみよと挑発してきたのです。

源義経は、弓の名人畠山重忠(はたけやましげただ)に命じるも、畠山重忠は辞退。代わりにと下野国(しもつけのくに:現在の栃木県)の「那須十郎」(なすのじゅうろう)を推薦しますが、那須十郎も負った傷を理由に辞退します。 海上の不規則に揺れる小さな扇の的を射落とすのは容易ではなく、射損じれば御大将の顔に泥を塗ることになり、腹を切って自害し、お詫びする他ありません。 辞退した那須十郎は、弟の那須与一を推薦し、那須与一はやむなくこれを引き受けました。

那須与一は騎乗のまま海に入り、できる限り的に近づきます。そして、弓を構え「南無八幡大菩薩」(なむはちまんだいぼさつ)と神仏の加護を唱えると、鏑矢(かぶらや)を放ちました。 鏃(やじり)の根元に付けられた鏑により、音を響かせながら矢が飛んで行くと、扇はぱっと宙を舞い、春風にもまれて海へ落ちたのです。 この見事な技を見て、沖の平氏は舟の側面を打って感動を表し、味方の源氏は箙(えびら:矢を入れて背に負う道具)を叩いてどよめき、那須与一を賞賛しました。

左隻 第二扇「扇の的」の写真

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左隻 第三扇「能登守平教経」


左隻 第三扇「能登守平教経」
左隻 第三扇「能登守平教経」

左隻 第三扇「能登守平教経」

左隻の第三扇は、敗走する平氏軍の中にあって、勇猛な「能登守平教経」(のとのかみたいらののりつね)が源氏軍に一矢報いる場面です。画面右下の舟に立つ能登守平教経が、画面中央で迎え撃つ源氏軍に対して弓を絞っています。その前の波打ち際で長刀を構える童(わらべ)が「菊王」(きくおう)です。

屋島の本拠地で奇襲を受け、海へ逃れた平氏方の総大将「平宗盛」(たいらのむねもり)は、源氏方の攻撃軍が総勢80騎ほどのわずかな数だったことを聞き及びます。にもかかわらず、慌てて舟に飛び乗って逃げ、内裏を焼かれてしまった口惜しさに、平氏の公達(きんだち:平家の子弟・子女)の中でも豪腕として知られる能登守平教経を呼び、陸地に戻って源氏方と一戦交えてくるように命じました。 能登守平教経は、宗盛の従弟にあたる武将です。

能登守平教経は「越中次郎兵衛盛嗣」(えっちゅうじろうびょうえもりつぐ)らを供にして小舟に乗り、渚へと近付きます。 源氏方の騎馬武者達がこれを迎え撃つべく海岸で待ち構えていると、小舟の舳先(へさき)に立った能登守平教経が、背負った箙(えびら:矢を入れる道具)の矢、24本を続けざまに射かけました。

源義経の前に立つ者は、次々と射殺されていきます。 能登守平教経は、源義経を狙いますが、源氏方の武者達は大将を守るために盾となることも厭いません。たちまち鎧武者10人あまりが射殺されるなか、奥州(現在の岩手県)の「佐藤三郎兵衛継信」(さとうさぶろうべいつぐのぶ)が左肩から右脇腹へ射抜かれて、馬から落ちてしまいます。 これを見て、能登守平教経の召し抱える菊王という童が、佐藤三郎兵衛継信の首を取ろうと長刀を抜いて舟から飛び降り、渚を駆け出しました。佐藤三郎兵衛継信の弟の「佐藤三郎兵衛忠信」(さとうさぶろうべいただのぶ)は、兄を討たせてなるものかと菊王めがけて矢を放ち、これを射抜きます。

菊王が倒れると、能登守平教経は舟から飛び降りて童のもとへ駆け寄り、弓を左手に、右手で菊王を抱え上げ、舟の上へと乗せますが、傷は深く、菊王は息絶えました。

源氏軍の一番前で倒れている武者が、能登守平教経に射抜かれた佐藤三郎兵衛継信です。佐藤三郎兵衛継信は、源義経が平氏追討軍に加わるために奥州平泉より上洛する際、奥州藤原氏3代当主「藤原秀衡」(ふじわらのひでひら)に命じられ、弟の佐藤三郎兵衛忠信と共に源義経に随行した、最も信頼する家臣のひとりでした。源義経は、佐藤三郎兵衛継信の死を非常にひどく嘆き悲しんで、手厚く葬ったと伝えられています。

左隻 第三扇「能登守平教経」の写真

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左隻 第四扇「生田口の開戦」


左隻 第四扇「生田口の開戦」
左隻 第四扇「生田口の開戦」

左隻 第四扇「生田口の開戦」

左隻の第四扇には、一番駆けを狙った源氏方の武者「河原太郎」(かはらたろう)、「河原次郎」兄弟の姿を描いています。画面下部の弓を構える兄弟に対して、陣中では、これを迎え撃たんと平氏方の武者が押し寄せる迫力ある合戦図です。

一ノ谷(現在の兵庫県神戸市)に陣を構えた平氏軍を挟み撃ちにするため軍勢を2手に分けた源氏軍は、源義経率いる1万騎が丹波路(現在の兵庫県丹波市)を進み、源範頼率いる軍勢は、梶原景時、畠山重忠以下5万6,000騎が一ノ谷東側の生田口へ布陣しました。 平氏方は、平知盛、平重衡らの主力軍が防備を固めています。

1184年(元暦元年/寿永3年)2月7日、生田口では午前6時を待たずして、戦いの火蓋が切って落とされました。源義経軍との戦闘開始の申し合わせは午前6時であり、これは勇み足だったのです。源氏方の河原太郎・次郎兄弟が一ノ谷の平氏方の城塞へ真っ先に突入し戦いますが、矢を射かけられて射殺されてしまいます。 梶原景時は、このままでは無駄に味方を失うことになると判断して、夜明けと共に500騎で城塞に攻め込み、本格的な開戦となりました。

左隻 第四扇「生田口の開戦」の写真

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左隻 第五扇「直実と敦盛」


左隻 第五扇「直実と敦盛」
左隻 第五扇「直実と敦盛」

左隻 第五扇「直実と敦盛」

左隻の第五扇には、複数の出来事が1枚の合戦図の中に描かれました。

画面上部左は、波間を行く敵将に向かって、扇をかざして呼びかける「熊谷直実」(くまがいなおざね)と、その声に振り返る若武者の姿が捉えられています。

源義経の奇襲部隊に所属し、一ノ谷の戦いに勝利した熊谷直実は、沖の舟を目指して騎乗のまま海へ入って行く平氏軍の大将らしき武者を見つけます。その武者は戦場から逃げ去ろうとしているのだと察した熊谷直実が、「敵に後ろをお見せになるのか。返させたまえ」と呼びかけると、平氏の公達(きんだち:平家の子弟・子女)がこちらに向き直り、渚に戻ってきました。

一騎討ちを挑んだ熊谷直実が相手の武者にむんずと組むと、2人共々馬から落ちてしまいます。熊谷直実が首を取るために相手の兜を押し上げ顔をさらしたところ、薄い化粧にお歯黒を染めた、ちょうど我が子「熊谷直家」(くまがいなおいえ)くらいの眉目秀麗(びもくしゅうれい)な年若い武者でした。

あわれに思い、首を切ることをためらった熊谷直実が、「あなたはいかなる身分のお方ですか。お助けしましょう」と語りかければ、若武者は、「ならばまずそちらが名乗るべきであろう」と堂々と答えます。熊谷直実は、「大した者ではありませぬが、武蔵国の住人、熊谷次郎直実」と名乗りますが、若武者は、「私が名乗らずとも、首を取って人に問うてみるが良い。みな知っているであろう」と落ち着いて返しました。

これを聞いて立派な武将だと感動した熊谷直実は、一瞬この若武者を逃がそうと考えましたが、振り向いて見れば、土肥実平や梶原景時ら味方の軍勢が50騎ほど迫って来ています。自分が見逃したとしても、いずれにせよこの若武者が生き延びることはないだろうと思い、熊谷直実が告げました。「他の者に討ち取られるくらいなら、この熊谷直実の手にお掛け申して、のちに供養させて頂きます。」 そして、泣く泣くその首を斬ったのです。

熊谷直実が首をつかみ上げようとして、鎧直垂(よろいひたたれ:鎧の下に着る装束)を解いてみると、錦の袋に入った笛が腰から下げられているのが見えました。源氏方の東国勢は、何万騎と参戦しているものの、戦の陣中に笛を持ち込む者などひとりとしていません。 「今朝、暁のころ、平家の陣内から笛の音色が聞こえて来たが、この人が吹いていたのか。」

その後、この若武者は平清盛の甥「平敦盛」(たいらのあつもり)と判明。歳は17でした。討死の際に帯びていた笛は「小枝」(さえだ)と呼ばれ、笛の名手として知られた平敦盛の祖父「平忠盛」(たいらのただもり)が、「鳥羽上皇」(とばじょうこう)より賜った一品だったとのことです。

左隻 第五扇「直実と敦盛」の写真

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左隻 第六扇「義経弓流し」


左隻 第六扇「義経弓流し」
左隻 第六扇「義経弓流し」

左隻 第六扇「義経弓流し」

左隻の第六扇には、那須与一が、平氏方の掲げる扇の的を見事に射抜いて見せたあとの戦いで起こった一幕を描いています。源義経が自らの名誉のために、海上へ落とした弓を拾う場面です。

1185年(元暦2年/寿永4年)2月の屋島の戦いは、やがて激しい戦いとなり、そのさなか、源義経は自らの弓を誤って海へ落としてしまいます。波に流されて行く弓を拾い上げようと、海の深いところまで進む源義経。郎党(ろうとう:武家の家来)達は、「危険なので弓はお捨てなされ、お捨てなされ。」と声を掛けますが、源義経は耳を貸しません。平氏方の兵達は、そんな源義経を捕らえようと舟の上から熊手を伸ばしてきます。

平氏軍の手をかいくぐり、ようやく源義経は弓を拾って戻りました。そして、「弓が惜しくて拾ったのではない。剛勇無双を謳われた叔父「源為朝」(みなもとのためとも:鎮西八郎[ちんぜいはちろう]の異名を持つ)のような強い弓ならば、わざと落としてでも敵に見せるところだ。しかし、自分は非力であるがゆえに張りの弱い弓を使っている。それを拾われて、これが源氏の大将が使う弓か、と嘲笑われては末代までの恥である。」と言ったので、郎党はみなこの言葉に感じ入ったということです。

左隻 第六扇「義経弓流し」の写真

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詳細情報

鑑定区分 - 推定制作時代 室町時代
代表的な
所蔵・伝来
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

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