昌泰の変により、失意のうちに左遷された菅原道真公は、903年(延喜3年)に大宰府で逝去。門弟「味酒安行」(うまさけやすゆき)がご遺骸を牛車に乗せて進んだところ、突然牛が伏して動かなくなったことから、その地に埋葬することを決めました。905年(延喜5年)、その場所に「祀廟」(しびょう:神を祀るほこら)が建てられ、919年(延喜19年)には社殿が建立。御祭神である道真公は、学問の神様であると同時に文化の神様としても信仰されていたため、それぞれの時代の人々による和歌・連歌・歌舞伎・書画などの奉納を通じて、文化・芸能の神様と仰がれるようになったのです。
道真公の死から約960年後、太宰府天満宮においてその後の日本の国づくりに大きな影響を与える動きが起きていました。太宰府天満宮の参道を登りつめた先にある「延寿王院」(えんじゅおういん)では、1865年(慶応元年)から約3年に亘って「三条実美」(さんじょうさねとみ)ら公卿5人が滞在。同時に土佐藩の「土方久元」や「中岡慎太郎」も滞在しており、薩摩藩の「西郷隆盛」や長州藩の「伊藤博文」、肥前藩の「江藤新平」が訪問しました。さらに「坂本龍馬」も来訪した記録もあります。明治維新の主要メンバーが集まった維新の策源地でした。
太宰府天満宮の宝物殿では、御祭神である道真公にまつわる宝物など、約50,000点を収蔵・展示。道真公にまつわる日本刀では、重要文化財「毛抜形太刀:無銘」があります。全長83.3cm、刀身の長さ66.4cm、反り2.8cm、柄に毛抜形の透かし彫りのあるこの太刀は、平安時代中期に制作された物で、道真公の佩刀と伝わっています。いわゆる「毛抜形太刀」は、日本刀への過渡期において作られた物。収蔵されている毛抜形太刀にも日本刀の特徴である反りが見られ、刀身が真っすぐだった古墳時代の直刀からの変化が見て取れます。
宝物殿ではもう1振、重要文化財の「太刀:銘 俊次」(としつぐ)を収蔵。この太刀は、長さ60.1cm、反り2.1cm、茎(なかご)の中央に大きく「俊次」の銘が切られています。俊次は、鎌倉時代に備前で活動していた「古青江派」の刀工です。古青江派は、名工を多数輩出していますが、現存する作品が非常に少ないことから、この太刀は幻の逸品とも言うべき存在。保存状態も非常に良く、古青江派の作風を窺い知ることができる資料としても、貴重な1振です。