日枝神社の創建年代は不詳。由来として、江戸氏が武蔵野開拓の祖神・江戸の郷の守護神として山王宮を祀り、1478年(文明10年)「太田道灌」(おおたどうかん)が、江戸城を築城するにあたり、鎮護の神として「川越山王社」を勧請したことが伝えられています。「徳川家康」の江戸城入城に伴い、城内鎮守の社、徳川家の守護神とされました。その後、江戸城外に遷座されましたが、1657年(明暦3年)「明暦の大火」によって焼失。1659年(万治2年)に四代将軍「徳川家綱」(とくがわいえつな)が、現在の地に遷座しました。
このような経緯もあり、日枝神社の神幸祭は、幕府によって手厚く保護されていました。祭礼にかかわる費用を幕府より支出した点、神輿が江戸城内に入ることを許された点は、幕府による「特別待遇」をよく表しています。特に、三代将軍「徳川家光」以降は、将軍上覧の「天下祭」として、江戸はもちろん、全国に広く知られるようになりました。それが、江戸三大祭の筆頭格であり、かつ日本三大祭のひとつと位置付けられる、現在の山王祭へとつながっているのです。
日枝神社が所蔵している日本刀は31振で、そのうち、国宝に指定されている物が1振、重要文化財指定は14振あります。これらの日本刀は歴代将軍などが参拝した際に奉納した物です。国宝の太刀「銘 則宗」(めい のりむね)は、三代将軍・徳川家光の四男「徳松」(のちの「徳川綱吉」)の初宮参りの際に奉納された物。作者の則宗は、鎌倉時代初期に備前で活動した刀工で「福岡一文字派」の祖になります。
また国綱は五代将軍・綱吉が奉納した重要文化財でもある太刀「銘 国綱」(めい くにつな)の刀工。「天下五剣」のひとつに数えられる「御物」(ぎょぶつ:皇室の私有財産)の太刀「鬼丸」の作者としても知られている名工です。なお、国綱は、山城伝の「粟田口派」の実質的な開祖と言われている「粟田口六兄弟」の末弟で、のちに「北条時頼」の招きにより、鎌倉に移住して活動していたことから、相州伝の開祖にあたります。
他にも、南北朝時代に活動した「備前長船派」の刀工による太刀「銘 師景」(めい もろかげ)も重要文化財に指定されています。この太刀は1760年(宝暦10年)に、十代将軍「徳川家治」(とくがわいえはる)が将軍宣下(しょうぐんせんげ:天皇による征夷大将軍任命の儀式)の奉告参拝の際に奉納された物でした。このように、徳川将軍家と深いつながりのある日枝神社には、将軍家伝来の宝刀が数多く奉納されています。