本能寺は、1415年(応永22年)に「日隆」(にちりゅう)上人らによって、「本応寺」として建立されました。その後、1418年(応永25年)に破却されたものの、1429年(永享元年)に再建。1433年(永享5年)に名を「本能寺」に改められ、現在に至ります。1536年(天文5年)、「天文法乱[天文法難]」(てんぶんほんらん[てんもんほうなん])で「延暦寺」(えんりゃくじ)による焼き討ちに遭ってしまいましたが、1545年(天文14年)に「日承」(にちじょう)聖人が再建。しかし、これも1582年(天正10年)に勃発した本能寺の変で自害したと言われる織田信長と共に、焼失してしまったのでした。
1592年(天正20年)には「豊臣秀吉」の命により現在地に移転された本能寺は、その後、1788年(天明8年)の「天明の大火」や、1840年(天保11年)の「蛤御門の変」(はまぐりごもんのへん)に伴って発生した火事によって焼失してしまいますが、そのたびに再建されました。そして1928年(昭和3年)に本堂が再建されて現在に至ります。このように、5度の滅失に遭いながらも7度の再建を果たした本能寺の歴史は、受難と復興の歴史そのもの。本能寺は「困難な時代を生きる人々を救うお経」である「法華経」(ほっけきょう)を体現している寺院であると言えるのです。
本能寺の変で命を落とした織田信長は、焼け落ちる御殿の中で、2振の日本刀と運命を共にし、炎の中で焼けていったと言われています。1振は「実休光忠」(じっきゅうみつただ)で、もう1振が「薬研藤四郎」(やげんとうしろう)。実休光忠の作者・光忠は、備前「長船派」(おさふねは)の実質的な祖として知られ、信長は生前、光忠の作品を収集していました。本能寺の変で、明智勢による急襲を受けた信長は、当初は弓で応戦しましたが、弦が切れてしまったことで実休光忠を手に応戦。激戦を物語るかのように、焼け残った刀身には18ヵ所にも及ぶ切れ込みができていたとも言われているのです。
他方、薬研藤四郎の作者は、山城伝の一派である「粟田口派」の「吉光」(よしみつ)。相州伝の「正宗」(まさむね)、越中の「郷義弘」(ごうのよしひろ)と並ぶ「天下三作」(てんがさんさく)のひとりに数えられる名工です。薬研藤四郎という名前は、この「短刀」の主(あるじ)だった室町時代の守護大名「畠山政長」(はたけやままさなが)が、自害を試みたものの、何度やっても上手くいかなかったことに腹を立て、薬研藤四郎を投げ付けたところ、「薬研」(やげん:薬を細かくひく道具)に突き刺さったという出来事に由来。このことから転じて、石や鉄でできている薬研のような硬い物を貫くほどの切れ味を誇っていても、それよりもはるかにやわらかい主の腹は切ることがなかった1振として知られています。
なお、2018年(平成30年)現在、この2振の所在については、存否を含めて不明となっています。