石切劔箭神社の創建については、室町時代末期の戦火によって、社殿、宝庫が焼失してしまったこともあり、はっきりとしたことは分かりません。もっとも「遺書伝来記」(いしょでんらいき)によると、紀元前659年(神武天皇皇紀2年)に饒速日尊を祀る「上之社」(かみのしゃ)が建てられ、「崇神天皇」(すじんてんのう)の時代には、本社である「下之社」(しものしゃ)に可美真手命が祀られたという記載があります。この書物は、神社の社司・木積氏(こづみし)の祖先に当たる「藤原行春大人」(ふじわらのゆきはるうし)が著した物。木積氏から時代を遡って行くと、5世紀の皇位継承争いにおいて、主に軍事面で活躍したと言われている物部氏(もののべし)にたどり着くことから、石切劔箭神社は、「武」の側面とも強いかかわりを有しているとも言えるのです。
饒速日尊は、「天照大御神」(あまてらすおおみかみ)から「十種の神宝」(とくさのかんだから)を授けられ、さらに「フツノミタマの剣」と、天孫(天照大御神の子孫)であることを証明する「天羽々矢」(あまのはばや)を携えて降臨。大和を治めるため尽力しました。その後、「神武天皇」(じんむてんのう)の「東征」において、饒速日尊の子・可美真手命が天皇と対面した際、お互いの出自について疑心暗鬼となっていた両者の間を取り持ったのは天羽々矢でした。両者がこの矢を所持していたことにより、お互いを天照大御神の子孫であると認識。これを受けた可美真手命が神武天皇に帰順したことで、神武天皇が即位したのです。これらのことから、日本建国において、石切劔箭神社に祀られている2柱の祭神が果たした役割は、非常に大きいものだったと言えます。
石切劔箭神社と言う社名の中にある「劔」、「箭」の文字は、前者が「剣」の異体字で後者は「竹製の矢」を意味。境内にある絵馬殿の屋根上には、天孫降臨を表す剣と矢が天に向かって立てられています。剣は言わば神社のシンボル的な存在。宝物館にも数々の刀剣が収められていますが、注目すべきなのは重要美術品の太刀「石切丸」と「小狐丸」。これらの日本刀を目当てに、春・秋に行なわれる期間限定の宝物館の公開時には、刀剣ファンが数多く詰めかけているのです。
神社の御神刀である石切丸は、刃長約76.1cm、反り約2.5cm。「平治物語」には、「源義平」(みなもとのよしひら)が同名の太刀を佩用している姿が収められています。それが神社所蔵の石切丸と同一物か否かについては不明ですが、銘に切られている「有成」が河内で活動していたと言われており、義平は河内源氏であることから、同一物であるとも考えられるのです。なお、有成については、「三条宗近」(さんじょうむねちか)と同一人物であるという説や、宗近の子や弟子であるという説などが唱えられてきました。
小狐丸に切られている銘は、「宗近」(むねちか)の二文字。宗近と小狐丸と言えば、「一条天皇」の命を受けた三条宗近が、狐の相槌で太刀を鍛えた逸話が有名ですが、神社所蔵の小狐丸は約53.8cmと、脇差とでも言うべきサイズであることから、別物であるという考え方も。しかし、折り返し銘(磨上げなどで茎が短くなり、銘がなくなってしまう場合に、反対側に折り曲げて銘を残すこと)がなされていることから、本来の刀身は現存の物よりも長かったと考えられています。現在、伝説の名刀・小狐丸は行方不明となっており、この小狐丸が、伝説の名刀に該当する1振である可能性も考えられるのです。