豊後高田刀・その一

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アーカイブ ※この記事は2021年7月15日に発行されたものです。

2021年7月15日に発行された『刀剣界ガイド』の質問箱に寄せられた内容、豊後国における平高田・高田の特徴や、豊後刀の歴史について解説をしています。


無銘極めの刀剣類の中で、平高田・高田・藤原高田などがありますが、その区別がよくわかりません。また、なぜそれらの極め物が多く存在するのか、その理由や、豊後刀の歴史についても詳しく教えてください―という質問が寄せられました。
今回、質問に対する回答が多岐にわたるため、二回に分けてご説明しましょう。

平高田・高田について

『日本刀講座』(雄山閣)には、平高田鍛冶について次のように記されています。
「応永から永禄・元亀・天正のころまでの高田の住人で、平姓を名乗る刀工である。盛家(応永)をはじめとして家盛(明応)・長盛(文明)・治盛(永正)・定盛(天文)ら数十人あり。地鉄板目肌流れ、柾目がかるもので白気映りのあるもの、刃文直刃の淋しきもの、直刃に足入り、互の目乱れ尖り刃の交わる、あるいは腰開きたる互の目、皆暁の如きものなどあり、焼崩れ・打除・履掛などがあり、むらつき、鋩子乱込み掃掛・尖り目などいろいろ、末備前・宇多物・藤島などに似たる」

次に、単に無銘高田に極められている刀剣類についてですが、室町期の豊後国においては、平高田鍛冶以外にも数多くの刀工が活躍しています。山田正任『図説豊後刀』の巻末に記されている鍛冶名一覧によれば、平高田鍛冶を含め実に二九四名の刀工の名が挙げられています。そこで一般的に無銘高田に極められているものは、室町期に豊後国において製作された刀剣類と考えてよろしいと思います。

なぜ平高田高田極めが多いのか

その理由は、大きく分けて二つ考えられます。
その一つは、平高田や高田鍛冶の作風が多岐にわたっているからです。

同時代の末備前や関鍛冶には、おのおの共通する作風があります。例えば、末備前の刃文は広直刃に葉の入ったもの、複式互の目などが主流であり、関鍛冶は尖り刃や地蔵帽子などの特徴が顕著です。しかし、平高田などの刃文は前記の「末備前・宇多物・藤島などに似たる」もののほか、末三原風のもの、皆焼刃、匂口のキリッと締まった青江風のもの、尖り刃の交じった美濃風のものなど、さまざまです。

無銘の刀を極める場合、室町期のものであることは判断できるが、次にどこの国の誰の作かと迷った時に思いつく刀工群が、さまざまな刃文の見られる高田鍛冶なのです。

しかし、高田鍛冶の作風にもしっかりとした特徴がありますので、その点について述べてみましょう。

高田物は「折れず、曲がらず、よく切れる」刀本来の三要素を兼ね備えており、優美さよりもむしろ頑強さを重視した姿を特徴としています。武用刀として作られているために、重ねが厚く、平肉が付きすぎ、先反りがさらに強く、頑丈な姿となっています。

地鉄は板目肌詰むものと肌立つものの両様がありますが、いずれも流れ心があり、かす立ち、多くは白けがあります。さらに、皮鉄が硬いとも言われています。

刃文については前述の通りですが、特に匂切れが出ることが欠点でもあり、特徴でもあります。棟焼きの現れることも見所の一つです。

彫物は少なく、棒樋のあるものがありますが、両チリのが多く見られます。
以上のような大切な見所もありますので、記憶されたら良いでしょう。

現存する作品がきわめて多い

無銘極めの多い第二の理由として、高田鍛冶の刀が非常に多いことが挙げられます。室町期の刀剣類では、末備前や関鍛冶と同数ぐらいあったかもしれません。二九四名という前出の刀工数から考えて、末備前の刀工をむしろ上回るかもしれません。
それほどの刀工がなぜ豊後国にいたのか、また多く作られたかについて考えてみましょう。

最大の理由は当時、豊後国の守護大名大友氏との関係が考えられます。
室町後期、特に大友宗麟の時代は、豊後のみならず豊前・筑前・筑後・肥前・肥後の六カ国を領有し、支配していたと言われています。それらの地を支配するために各所に大友氏の有力武将を配置し、その城下において武器である刀剣類を作らせ、需要に応えていたと考えられます。

大友氏はそのほかに、中国・朝鮮・ポルトガルなどとの外国貿易を盛んに行い、巨万の富を得ていました。その輸出品目の中に刀剣類があった史実が明らかです。
さらに、これは想像の域を出ませんが、四国および瀬戸内海沿岸の諸大名にも「折れず、曲がらず、よく切れる」武用刀である豊後刀を輸出していたことも十分考えられます。

これほど大量の刀剣類を製作するには、大友氏の庇護の下、巨大な「座」の組織があったことが想像できます。製作依頼、材料の提供、代金の支払い、運搬、拵製作などの諸工作、貿易交渉などの実務は、専門組織である刀座が行ったに違いありません。

今後、大友宗麟時代の海外貿易品の中で、刀剣の数量・価格などの資料や座に関する資料が発見されることを期待したいものです。

ブランド名としての「高田住」

豊後国には「高田」の地名が二カ所存在します。
室町期の刀剣類で「高田住」と銘するものは非常に多く現存しています。大友家城下に近い高田地区において製作されたものは当然「高田住」と銘しますが、その他の製作地でも大友氏の抱え鍛冶であれば、すべて「高田住」と銘したであろうとの説もあります。
つまり、大友氏には数多くの出城があり、それらの地で製作された全ての刀剣類に「高田住」が入れられ、一種のブランド名として流通したのかもしれません。

平長盛について

末備前では与三左衛門尉祐定や勝光・宗光・忠光・清光が、関鍛冶では兼定兼光・氏房などの有名刀工が数多くいますが、高田鍛冶ではきわめて少なく、一人長盛のみが断然光っています。

高田鍛冶の事実上の祖は長盛と言われ、永正前後に活躍しました。一説には、同銘が何代かいたとも言われています。

高田物の中にあって珍しく彫物があり、上手です。小締まりした額内に剣巻龍の彫りがあり、一見相州総宗に似ていますが、龍の顔が真正面を向いている特徴があります。
刃文は高田物らしくいろいろありますが、特に匂の締まった直刃が多いです。

〈参考文献〉
雄山閣刊『日本刀講座』
本間順治『日本古刀史』
山田正任『図説豊後刀』
中原信夫『室町期からの大分県の刀』

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