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アーカイブ ※この記事は2020年11月15日に発行されたものです。

江戸の「寛文新刀」について詳しく教えてほしいとの質間が寄せられました。

寛文新刀とは、慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦から約六十年後の寛文年間(一六六一~七三)前後に活躍した刀工ならびに刀剣類を総称しますが、いつからいつまでと明示した書物は見当たりません。そこで、寛文新刀と言われる刀工たちの作刀した裏年紀から判断して、私見ではありますが、寛永年号の次に来る正保元年(一六四四)から元禄年号以前の貞享四年(一六八七)までの約四十四年間が相当するのではないかと考えます。

寛文新刀の刀工たち

江戸の寛文新刀の代表的刀工と言えば長曽祢虎徹(以後「虎徹」で統一)ですが、裏年紀のある作品は明暦二年(一六五六)~延宝五年(一六七七)の約二十二年間です。

虎徹は刀工になる以前は、越前福井甲胃師をしていました。世の太平につれ甲胃が無用のものとなったため刀鍛冶に転職し、明暦のころ、五十歳で出府し大成しました。ここでは虎徹を中心に、江戸で活躍した刀工たちについて述べることにしましょう。

寛文新刀の中で最初に江戸に入ってきた刀工は和泉守兼重です。「古今鍛冶備考」に「本国越前、矢根鍛冶にて辻助右衛門と称す。寛永中東武へ来り藤堂家の刀匠となる」とあり、最初期の作品に寛永二年(一六二五)の薙刀があります。一説に虎徹の師とも言われ、二代目が上総介兼重です。

次に、江州蒲生から出てきた江戸石堂一派と称される光平・常光(初二代あり)・是一(初二代あり)・ 宗弘らがいます。光平の最初期の年紀が正保三年、常光が慶安元年 (一六四八)、是一が承応元年(一六五二)です。このことから、彼らが虎徹より先に入府したことがうかがい知れます。

しかし、光平の弟とされる常光に慶安元年二十三歳と銘する刀があり、虎徹はこの時既に四十四歳か四十五歳であり、石堂一派の刀工たちよりかなり年上であったことがわかります。

江戸石堂一派と前後して江戸に来た刀工に、紀州石堂出身の大和守安定がいます。安定の最初期は承応三年で、寛文十三年が最後です。安定には裏年紀こそありませんが、作刀の中に二尺四~五寸の長寸のものが多く見られ、そのことから江戸石堂より先に江戸に入ってきたことは十分考えられます。

虎徹の作風によく似た刀工群として、江戸法城寺一派と称される正弘(初二代あり)・貞国・国正(初二代あり)らがいます。彼らは本国は但馬で、古刀の法城寺国光の末流と言われ、虎徹とほぼ同時期に上京したものと思われます。

初代正弘は明暦元年から、貞国には万治二年、国正は延宝元年からあります。貞国の刀に寛文七年三十七歳添え銘のあるものがあり、その年虎徹は六十六歳であり、やはり法城寺一派の刀工たちよりはるかに年上であったことがわかります。

同じ法城寺一派に吉次がいますが、本国は常陸です。年紀のある作品が延宝五年から宝永二年(一七〇五)まであり、虎徹よりさらに後輩の刀工です。

慶長年間(一五九六~一六一五)から既に江戸で活躍していた刀工として繁慶康継の二人の刀工がいますが、三代康継は寛文三年~延宝三年と虎徹とほぼ同時期の活躍であり、四代康継は延宝三年~貞享三年と、わずかに遅れて活躍しています。

そのほか、明暦三年の大火以後、 江戸には需要を求めて多くの刀工たちが入ってきました。代表的刀工として、濃州赤坂千手院から移住してきた千手院盛国(寛文三年~)、同じく濃州関善定家から移住した上野守吉正(貞享~)、京から移住した出雲大掾吉武(延宝三年~)、鐙鍛冶から刀工になったと言われる小笠原長旨(寛文十年~天和四年〈一六八四〉)等々が挙げられます。

次に、江戸の寛文新刀はなぜ発展したかについて考察してみましょう。大きく分けると、三つの要素が挙げられます。

①江戸は活気あふれる豊かな町であった

②幕府は剣術を奨励し、さらに剣術に変化があった

③明暦の大火の影響

新興都市・江戸

慶長八年、徳川家康が江戸に幕府を開き、その後寛永十二年(一六三三)家光が参勤交代制を確立しますが、当時の江戸はまだまだ発展途上にありました。そのためにさまざまな職種の人々が必要とされ、幕府は全国各地から大勢を受け入れていました。その中には刀鍛冶をはじめ、刀装具関係者も当然おりました。

活気あふれる豊かな江戸、さらに武士の大勢いる江戸に行き、一旗揚げようとする刀工も大勢いたのです。

※旗本五千人、御家人一万五千人、各大名および江戸在勤武士一万人、合計三万人(推定)

剣術の奨励と変化

慶長十九年に大坂冬の陣、元和元年(一六一五)に大坂夏の陣が終結し、その後、寛永十四年の島原の乱を最後に、戦いは全くなくなりました。平穏な世が続いて武士が堕落することを恐れた幕府は、盛んに剣術を奨励しました。

ここで刀剣にとって重大なことは、剣術の仕方が大きく変化したことでした。

今までの介者剣法(鎧を着用した武士相手の剣術)から素肌剣法(鎧を着用しない武士の剣術)に変わったのです。

当然、刀の姿に変化を及ぼしました。すなわち、刀身の平肉を落とし、頑丈さよりも切れ味を重視し、反りを少なくして「突き」を行いやすくする、いわゆる寛文新刀姿へと徐々に変化していったのです。

ただし、寛文新刀姿のおおよその長さは二尺三寸~三寸五分前後ですが、寛文の少し前の寛永末年~正保・慶安ごろの寸法はそれより少し長く、二尺四~五寸が多いものです。そのころに活躍している和泉守兼重や初期の大和守安定、日置光平の作にはその寸法の作を多く見ます。

なお、このころから切れ味を重視することから、試刀家である山野加右衛門永久や山野勘十郎久英らの截断銘入りの刀が人気を博します。截断銘は和泉守兼重・安定・虎徹、江戸法城寺一派の刀工たちの作刀に多く見られます。

このように剣術の変化に伴って刀の姿が変化したために、多くの武士が寛文新刀姿の刀をあらためて注文したことが想像できます。

なお、寛文新刀には大小の小として使用された脇指ではなく、特に優れた脇指を現在でも数多く見ることができます。

これは豪商らが金に糸目をつけずに注文した作であろうと推察されます。

明暦の大火

明暦三年(一六五七)一月十八日と十九日、三カ所から出火し、火は江戸の町を焼き尽くしました。いわゆる明暦の大火です。

死者十万人と言われ、大名屋敷は七五%以上の百六十家、旗本屋敷は七百七十家以上が焼け、江戸城は西の丸のみを残して天守閣から本丸までも焼失してしまいました。そのために、江戸城に保管されていた名刀も多数が焼けました。後年、本阿弥光忠によって選定された「享保名物帳」には、所載百六十八振のうち六十九振が被災したことが記されています。

当然ながら、旗本・御家人はじめ、各大名やその家臣団の刀剣類も数多くが焼失しました。武士にとって刀剣はまさに表道具であり、必要不可欠のものです。早急に調達しなければなりませんでした。

そこに未曾有の刀剣需要が生まれました。大火後、全国各地から多くの刀工が江戸に参集し、その需要に応えたのです。

以上のようなことが、寛文新刀隆盛をもたらした大きな要因と考えられます。

寛文新刀の作風

最後に、寛文新刀の作風について、その特徴を簡単にまとめてみましょう。

その前期(正保~慶安ごろ)は、刃長が二尺四~五寸とやや長めです。寛文以降は二尺三寸~三寸五分ぐらいで、身幅・重ねとも尋常、元幅と先幅の差がややあり、反りが四~五分と浅く、中切先の姿となります。

刃文は、大坂寛文新刀の代表である越前守助広井上真改、坂倉言之進照包らの華やかな作風とは対照的に、地味な直刃あるいは互の目乱れが多く、特に虎徹の数珠刃と称される刃文が評価され、江戸の寛文新刀の多くはそれに似た刃を焼いています。

さらに切れ味が重視された時代とあって、截断銘が多く見られることも寛文新刀の大きな特徴の一つです。

〈参考文献〉「江戸の日本刀」「江戸新刀名作集」「日本刀工辞典・新刀篇」ほか

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