関鍛冶

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アーカイブ ※この記事は2020年9月15日に発行されたものです。

関鍛冶があれほど繁栄した理由は何ですか?という質問が寄せられましたので、お答えします。

ここで言う関鍛冶とは、南北朝期から室町時代前期にかけての美濃鍛冶とは別に、応仁の乱(一四六七)以降関ヶ原合戦(一六〇〇)までの一三三年間に「」を中心に活躍した刀工集団を指します。

現在、NHK大河ドラマ「麒麟がくる」が放映されていますが、この時代には全国至る所で戦が繰り広げられていました。とりわけ美濃周辺では激戦が多く、それだけ主力武器である槍・刀・短刀の需要がありました。

関の刀工は『日本刀銘鑑』によれば約七〇〇名が確認され、最盛期には二〇〇名以上の刀工が活躍していたと考えられます。関の刀は当時から「折れず曲がらずよく切れる」との評判が高く、価格も比較的安いことから、各地の戦国大名から多くの注文があったと考えられます。

ここでは関鍛冶繁栄の理由を、

①地理的な条件

②鍛冶座の存在

の二点に絞って考察してみましょう。

地理的な条件

関は日本のほぼ中央に位置し、陸路・水路ともにきわめて便利で物流に最適でした。

陸路では、中山道を東に向かえば信濃甲斐に通じ、西に向かえば近江や京に通じます。飛騨街道で越中から越後へ、美濃街道で越前へ、さらに東山道を利用すれば加賀若狭に通じます。

水路では、木曽川・長良川が隣接しています。木曽川を下ればすぐに犬山・尾張があり、伊勢湾に出れば間もなく桑名伊勢があります。太平洋に出て三河・遠州・駿河までも行くことが可能です。

刀剣類の製作に必要な材料は鉄・炭・焼刃土などですが、関はそれらを調達するにも容易な場所にありました。

鉄に関しては、赤坂の金生山や飛騨街道を通じて飛騨地方から得られ、さらに勢至鉄座が近くにあって主要な供給源となりました。また、関は周辺をすべて山に囲まれ、木炭も良質な焼刃土も容易に調達することができました。

鍛冶座について

関には室町時代初期、永享のころから「関七流」なる組織がありました。善定・三阿弥・奈良・得印・徳永・良賢・室屋がそれで、室町中期ごろになると「関七頭制」に変わり、さらに「鍛冶座」というより強固な組織に拡大し、関鍛冶発展に大きく貢献するのです。

「座」は平安時代末期から存在していました。朝廷・貴族・大社寺などに従属するさまざまな職能者が行う奉仕や貢納に対し、代償として多くの特権が与えられました。

それらの特権を利用して営業活動を行った商工業者・芸能者・交通運輸業者などの集団を「座」と言います。特権の中には、諸課役の免除、通行税の免除、商品の専売権、仕入れの独占、隔地間取引などにおける商品搬送商人の往来に際しての主要街道通行権などがあります。

関にはもともと、関鍛冶の守護神とする春日神社がありました。室町中期になると刀鍛冶全員が氏子となり、関七頭制の下に鍛冶座が成立したのです。現代流に表現すれば「春日神社日本刀総合商社」のような巨大組織が出来上がったのです。

関鍛冶座の活動

次に、関鍛冶座の主な活動について挙げてみましょう。

①鉄・炭・焼刃土など材料の一括大量仕入れと保管(製品の安価な販売を可能とした)

②各派への計画的な発注および諸材料の配布

③出来上がった刀剣類の研磨、拵製作の手配と保管

④大量注文に備えての予備刀剣の在庫管理(関の刀には在銘でも裏年紀のあるものはきわめてまれである。これはいつでも対応できるようにあえて裏年紀は切らなかったと言われている)

⑤戦国大名との注文・価格の交渉(春日神社の後ろ盾があるために対等な交渉が可能だった)

⑥注文品の搬送業務

⑦品質管理の徹底(銘の頭に関のブランドである「兼」の字を入れ、下に個人銘を入れさせ、作刀に責任を持たせた)

和泉守兼定孫六兼元らのような名工を輩出するため、常に技術指導を行っていた

⑨優秀な刀工には受領銘を与え、関鍛冶のPRを図った

受領銘を切る刀工には和泉守兼定をはじめ、出雲守氏貞・石見守兼房・陸奥守大道・若狭守氏房・三河守大道陳直らがいます。

受領とは朝廷から下賜される冠位ですが、当時、一条家など何人かの公卿が京都の戦乱を避けて美濃の地に避難していました。その折、関の領主であった長井長弘を仲介者として一条家から朝廷に奏上してもらい、受領が可能になったのではないでしょうか。その陰で受領を働きかけていたのが鍛冶座であったことは明白です。

当時、刀工の受領はきわめて珍しく、大いに関鍛冶のPRになったことでしょう。

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