新々刀その三

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アーカイブ ※この記事は2020年5月15日に発行されたものです。

今回は「復古刀」の後半(天保~)から「勤王刀」、そして廃刀令までの約四十七年間の刀剣界について説明します。

需要高まる復古刀

天保年間は、新々刀の中でも特に優品が多く製作された時代です。直胤や正義は円熟期を迎え、さらに清麿(ただし正行銘)や固山宗次・直勝・水心子正次・長運斎綱俊ら当時の若手刀工たちの活躍が目立ちました。

天保年間には大飢饉などがありましたが、老中水野忠邦によるさまざまな改革も行われました。刀剣界にとって最も重要なのは、天保七年に剣術の他流試合が解禁されたことです。すなわち、剣術が大流行し、江戸の道場が隆盛を極めるところとなります。剣術が流行すれば当然、刀剣に対する需要が増えるわけです。

天保年間の刀の姿は、文化・文政期の復古刀初期に比べて二尺四~六寸と長寸になり、さらに二尺八寸を超えるものも見られます。例えば、清麿(正行銘)の天保十三~十五年ごろの作刀や正義にも十数振、また宗次にも見ることができます。

これは天保三年ごろ、筑後柳川藩士大石進が長大な竹刀によって江戸の高名な剣術道場を軒並み打ち負かした事実があり、その後、この流派が発展した影響とも言われています。長州藩や美作津山藩(正義は藩工)は、この流派の影響を受けています。

勤王刀の全国展開

次に、天保年間を過ぎ弘化から嘉永にかけては長大な刀はやや影をひそめますが、姿の点においてわずかに変化が見られます。それは反りがやや穏やかになり(五~六分)、加えて元先の幅差が少なくなる傾向です。いわゆる「復古刀」から「勤王刀」に移行する過渡期の姿となります。

ペリーが浦賀沖に来航した嘉永五年ごろになると、開国派・攘夷派・佐幕派・尊王派らが入り乱れ、世の中は次第に騒然としてきます。当時の狂歌に「泰平の眠りを覚ます上喜撰 たった四杯で夜も眠れず」があり、そのころの世相を物語っています。(上喜撰=高級な緑茶。蒸気船にかけている)

その後、安政五年の安政の大獄から万延元年の桜田門外の変へと続き、明治二年の箱館戦争終結まで、約十年間はまさに暗黒時代となります。京都を中心として全国にさまざまな事件が起こり、日本刀が最も実戦に使用された時代でした。

この期に流行したのが、「勤王刀姿」と呼ばれるものです。勤王の志士たちが好んで差したところからこの名が付けられたとの説もあり、その姿は天秤棒のようだとも言われています。

その特徴は、

①長寸である(二尺四~六寸)

②幅広で元先の幅差があまりなく、重ねが厚めで重量感がある

③反りが少なく棒反りのようである(四分半前後)

④大切先のものが多い

⑤茎も長く、中には控え目釘穴もある

などが挙げられます。切ることと同時に、突き刺すことにも重きを置いた体配と考えられます。

この時期に最も活躍した刀工が左行秀と栗原信秀です。ほかに、江戸では宗次・清人・正雄・正守・城慶子正明・宗寛・運寿是一・御勝山永貞・雲州長信らがいます。

ほかにも全国各地で刀工たちが活躍しています。当時、全国的にそれだけ刀剣の需要があったことを物語っています。例えば、会津では元興・十一代兼定、水戸では徳勝、信州では真雄、大坂では月山貞一、防州の永弘、薩摩の波平行安らがいます。

廃刀令による終焉

慶応四年正月に鳥羽伏見の戦から始まった戊辰戦争は、明治二年の箱館戦争をもって終結しました。

全国的に繰り広げられた戦いが終わったことと明治四年に出された脱刀令(脱刀勝手たるべし)により刀剣の需要は激減し、明治二~五年の裏年紀のあるものはまれにしか見ることができません。

その短期間の刀の姿には大きな特徴があります。それは勤王刀姿を二尺一寸前後に短くした姿となります。いかなる理由によるものかは定かではありませんが、従来白兵戦で行われていたものが、戊辰戦争から鉄砲を主力武器とする集団戦に変化したこと、また明治新政府が西洋式軍隊を取り入れたためにサーベル風の様式が求められたことなどが考えられます。

明治六年以降になると日本刀の製作はほとんどなくなり、明治九年の廃刀令により刀剣の需要は尽きました。

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